そんなことは起こり得ないのだ。
その時、因果凰介は何日か家を空けた。仕事上の都合だ、他に理由はない。
蟻方幸丸が家で待っているはずだと、何故かそう決めつけていたのだ。普段ならそんなことはしない。
何時に始まって、終わって、帰るのか、確認しなければならない。部屋には小さな黒い生き物がいるから。彼女を一人待たせることになると確実に知っている。
でも、忘れていたのだ。
ひどく日を空けてからドアを開けてリビングに入ると、黒い毛玉は部屋の隅に落ちている。触れると、それはいつもと違い安物の毛布のようにごわついた。
抱きかかえると、確かに、あの日小さな箱の中で鳴いていた毛玉のはずが、もうぴくりとも動かない。
ただほんの少しだけあたたかかった。脱ぎたての靴下のような熱と生きた匂いだけが残っているのだ。
両腕で抱えて、どうしよう、と考えながら、でも考えを行動に移せるほどの冷静さは無い中で、玄関扉の音が聞こえた。少し立て付けの悪い、軋む音が特徴的な扉だ。
後ろから入ってきた蟻方幸丸に、咄嗟に「俺じゃないよ」と押し付けるように放つのが、嫌だった。
彼はそのまま隣に座って、そっと毛玉の頭を撫でつけた。やはり、古い布のようにごわ、と毛が歪むだけだった。
もう戻らない熱に、何も言わず悲しそうに眉を下げる彼の顔に、そしてなにより、言葉も出ず、指先を擦り合わせて瞬きをしながら、部屋を、彼を、冷たくなった黒を、自分の指先を見回して無理矢理時を過ごそうとする自分の浅ましさに喉の奥がかっと熱くなるのを感じた。
瞬間、押し出すようにその熱はじわりと目頭に移って頬を伝った。目を閉じると、勢いがついた。
吐息に声が混じって抑えられない何かは幾度となく漏れて、放っておけば胸の奥にまで達した。
喉の筋肉が勝手に震えて、呼吸も弁明も熱と震えに掻き消されるその感覚を、因果凰介はその時に、黒い毛玉が冷たくなりゆく時間に、初めて知った。
これを知っている人間はずっと「こう」だったのか、と、その辛さにも苦しくなった。
そのまま、猫にも、蟻方幸丸にも、自分に対しても何かを携えながら、そしてそれを言えないままでいることを苦しみながら嗚咽を漏らし、そして、
目が覚めた。
部屋は明るかった。
喉の奥が、何か大きなものが通った後のような、強引にこじ開けられたような鈍い痛みで覆われていた。
窓の外は快晴で、視界の端にはいつも通り、しっとりとした毛並みの黒い生き物が呑気に丸まって眠っている。
ぷすーと小さく聞こえる穏やかな寝息は、未だやまない激しい鼓動と驚くほどマッチしない。
それでも波長をあわせるようにそっと撫でると、ふと目が合ったそれは、じっとりと一部に染みを作って濡れた枕を一瞥して、小さく鳴いた。
顔を上げれば、ひどく驚いて、そして心配気な表情の彼が立ち尽くしており、静かな空間でひく、としゃっくりの音が響いた。
自分のそれだった。
瞬きをしていると少しずつ止まり、熱は目の奥へとおさまった。
「……どうした?」
「幸丸くん、……」
くちから言葉が出た刹那、身体の向こうへと何か通って過ぎるように、つっかかっていたものが消える。
「……わすれた……」
「水いるか?」
「い、……いるー、」
横隔膜の震えだけが、その夢を覚えている。
ただ、蟻方幸丸から差し出されたコップいっぱいの水を飲み干す頃には、すっかり熱は抜けていた。
休日の午後。昼寝をするほど落ち着いた時間に通りすがった大きな揺れを、オースケは全部忘れた。
でも、水をグラスに入れてもらう音と、隣でぷすぷす眠る毛玉が、何故かいつもより愛しいだけの午後だった。