水の器(仮題) 遠くから、音がしていた。人の歌声のような、風の唸り声のような、高くて伸びるような音が手招きするように響いている。
フリーナは少しだけ怖くなって引き返そうかと思ったが、どうにもその音の正体が気になった。もしそれが助けを呼ぶ人の声であれば命に関わるかもしれない。フォンテーヌの山々は見晴らしがよく方位を誤って遭難する人は少なかったが、一方で切り立った地形は足を滑らせると大怪我を招き、死者が出ることもあった。
悩んでいると再び音が聞こえてきた。考えていたからか、その音はいっそう人の声に感じられた。仕方ない、安否確認をするだけだ。誰かいるのかい、と声を上げながらフリーナは山の奥へ足を進める。長年舞台を演じてきた彼女の声は通りがよく、少し離れた街道で荷の輸送をしていた商人がその声を聞いていた。
それから3日が経ち、山から帰ってきたフリーナは記憶を失っていた。
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広い執務室で少女は不安気に身を縮ませている。
舞台上であれば見覚えのある姿だ、とヌヴィレットはいつかの演劇を思い浮かべた。演技であればその技術に称賛を贈るが、おそらくそうではないのだろう。推測にしかならないのは彼女との数百年を経て、未だにフリーナという人間の言動を理解しきれない自覚からだった。
パレ・メルモニアはどの部屋もそうだが、屋外からの光を大きく取り込む造りになっている。柔らかな光がフリーナを照らすと白磁の肌がいっそう美しく見えた。以前から思っていたことだ。しかし姿形は同じなのに、その中身はまるきり別人と言っていい。表情も話し方もヌヴィレットの知るより数段幼く、穏やかな印象を受ける。ヌヴィレットの視線に気付いたからか、温かい紅茶の入ったカップで手を温めながらフリーナがおどおどと尋ねてきた。
「あの、僕はこれからどうなるんだい?」
「まずはシグウィン殿の診察を受けてもらう。その後は君の協力次第だが、いくつか聴取をさせていただきたい。衣食住については、本来の君の家よりも今はここで保護を受けた方が良いだろう。上階に以前の君の部屋があるので、そこを使うことになる」
「僕の部屋……」
あどけない表情がやはり何かの舞台の一部のようだった。フリーナは自室と聞いても実感が湧かない様子で、ヌヴィレットの言葉を繰り返す。あの広い部屋を持て余す姿が想像に難くない。しかしフリーナの立場を考えれば、そこが一番安全で、周りも彼女を守りやすかった。
「すごく迷惑かけちゃってるよね。聴取には勿論協力するよ。けど、正直あまり役に立てないかも。記憶がぼんやりしていて、自分のこともよく思い出せないんだ」
「気負う必要はない。その状態であることも含め、君の現状を素直に話してもらえれば我々にとっては充分だ」
なら良かった、とヌヴィレットの答えにフリーナは少しだけ顔を綻ばせ、カップを口に運んだ。紅茶を用意したのはセドナだ。フリーナはメリュジーヌのことも忘れていて、セドナに話しかけられた時は大いに驚いていた。それでも彼女はセドナから手渡された紅茶を飲むのを躊躇わなかったし、セドナが退出してからは「可愛くて優しい子だね」とさえ言った。ヌヴィレットにとっては好ましいやり取りではあるものの、警戒心、もしくは自分の地位に対する虚勢がまるでなかった。
「シグウィン殿、が来るまで、まだ時間はあるかい? 僕も君に質問したいのだけど」
「構わない。何でも知りたいことを言ってほしい。私の答えられる範囲であれば回答しよう」
聞きたいことばかりだろう。その割にフリーナは言葉少なで、云々と悩んだ末に漸く言葉を発した。
「まず僕の名前がフリーナである、ということと、信じられないことに僕が500年間水神として務めてきたこと、は教えてもらったけど、今の僕はどういった人だったんだい」
なんともざっくりした質問内容にヌヴィレットは回答の仕方を考える。彼女がどういう人だったか。水神ではないフリーナの立場をまずは説明することにする。
「主に舞台の批評や演出、また影映ーー連続撮影を利用した活動写真の監督で生計を立てている。仕事の評判は良く、影映では1作目にして賞も取っている」
「舞台って、色んな人が役を演じるんだろう。面白そうな仕事をしていたんだね。あとはその、君にとっての僕はどういう人なのかな?」
「私にとっての、というと」
フリーナの反応からして、この質問の方が聞きたかったことらしい。しかしヌヴィレットは質問の意図を掴みかねた。自分にとってのフリーナといっても答え方は幾つか思い浮かぶ。公の立場でいうなら元上司と部下であるし、私の立場では400年以上を共にした仇敵であり仲間でもある。よりヌヴィレットの個に寄せていくのであれば舞台俳優とそのファンとも言える。彼女が知りたいのはどういった理由からだろうか。沈黙で回答を促すと、フリーナは口ごもりながらヌヴィレットを見つめ返した。
「君は僕にとても良くしてくれただろう。山で迷っていた僕を引き取って、色々と教えてくれて。忙しいだろうに、話をする時間もくれている。さっきの子もヌヴィレット様と呼んでいたから、本当は僕も君、なんて呼んじゃいけなかったりするのかな」
「そのままで結構だ。フリーナ殿とは長い付き合いになる。いま君が感じる通りに呼んでもらうのが自然だろう。それに今の状況に対し、気にする必要はない。私が好きでやっていることだし、まず君は身体を休めるのが第一だ」
そう、とフリーナは呟いたが視線はヌヴィレットに向けられたまま何か言いたげだった。するりと彼女の肩からストールが落ちる。執律廷の職員が気を利かせて貸し出したものだ。執務室の来客用のソファはティーカップを置けるような場所もない。気付いていないフリーナに近付き、肩に掛け直してやる。我が事ながら距離が近いなと思った。これが普段のフリーナに対してであれば、ティーカップを預かり、ストールが落ちたことを指摘しただろう。フリーナはキョトンとして、それから感謝を述べた。幼い声色はどうにも頼りなかった。
診察と簡単な聴取を終えると眠たげなフリーナはセドナに寝室へ案内された。シグウィンは基本的には異常なしとヌヴィレットに報告したが、3日も行方不明になっていたのだ。眠れるようであれば、寝かせてやる方が良いだろう。フリーナも退室したところで、ふたりはあらためて彼女の状態について話し合った。
「さっきも説明したけれど、身体は健康そのものよ。逆に外傷も見当たらないから、記憶喪失の原因は精神的なものかもしれないわ」
「強いショックを受けた可能性があると」
「あくまで可能性にすぎないわ。記憶がない割に精神的にはかなり安定しているといえるし」
シグウィンが言うより早く言葉を紡いだのは、目の前の彼女に伝えるためというよりは、自分自身が受け止めるためだった。いつも通り微笑んだままシグウィンは両手で手を振って否定したので、ヌヴィレットは少しだけ安心した。
「それより気になるのは神の目がないことね。そのせいかしら、元素を感じることはできないみたい」
確かにフリーナの腰元についているはずの神の目は消え失せ、リボンだけが結ばれていた。ふ、と水元素に意識を集中させる。権能を取り戻したヌヴィレットにとって、神の目の位置を探ることは容易だった。特にフリーナのものとなれば尚更だ。
「神の目は、まだエリニュスにあるようだ」
「事件解決につながるといいけど。まだ他の子たちは見つかっていないのよね」
エリニュス連続失踪事件。ここ数日でエリニュス山林地区にて消息を絶ったとされる行方不明者はフリーナを除き4名報告されている。フリーナ以外は見つかっていない。いずれも周囲への聞き込みでは大きなトラブルはなく安定した生活を送っていたが、皆孤児で家庭を持たなかった。フォンテーヌでは残念なことに孤児も行方不明者も珍しくはない。けれど今回は連続して類似性があり事件性が高いと判断され、マレショーセ・ファントムも捜査にあたっている。
「なんにせよ被害が広がっている、早急に対処しよう」
「そうね、フリーナさんが保護された場所に痕跡が残っているかも。でもヌヴィレットさんも、ちゃんと休まないとダメよ」
そう言ってシグウィンに手渡された包みはおそらく生菓子の類だろう。気遣いに感謝すると、シグウィンはにっこりと微笑んだ。
「2人分あるから、デザートか朝食にでもしてちょうだい。夜ご飯はフリーナさんと一緒に食べてあげてね。落ち着いて見えるけど、不安でいっぱいだと思うのよ」
「ああ、そのようにしよう。わざわざフォンテーヌ廷まで足を運ばせて悪かった」
「そんなことないわ、いつでも呼んでくれていいのよ。ヌヴィレットさんからのお願いなら大歓迎だもの」
それじゃあそろそろお暇するわね、とシグウィンは去っていった。ぱたりと扉が閉ざされると、もう夕日がオレンジ色の光を差し込んできていることに気付く。マレショーセ・ファントムの隊員には悪いが、日が暮れ視界の悪い中でフリーナの神の目を捜索してもらうことになりそうだった。
元水神であるフリーナの行方不明は、世間一般には公表されていない。そもそも行方不明だったと認識されたのも今日のことだ。しかしパレメルモニアの上階が使用されているとみれば、翌朝には記者が駆けつけるだろう。彼女が市井に身を置いて以降、その部屋が使われておらず、何かしらの憶測を生むことは避けられない。
ヌヴィレットはひとりため息をつく。フリーナはもうここに帰ってくるはずではなかった。パレメルモニアの一室は、500年演じ続けたソリストの控え室は、永遠に閉ざされるはずだった。フリーナが家に帰っていないという報告を受けた時、ヌヴィレットは然程心配をしなかった。取材に出かけて帰れなくなることもあるだろうし、なにより彼女の危機であれば水元素を介して察することができると考えていた。そうして記憶を失ったフリーナが眼前に現れてはじめて、後手に回ったのだと思い知った。
驕っていたのか。窓から差し込む光がじんわりと背を焼いて暑い。決済を待つ書類の束は多少の遅れはあるものの、問題のない程度に処理されていた。
夕食は薄味のスープとリゾットだった。胃に優しいものをとホテルドゥボールへテイクアウトを依頼すると、ヌヴィレットの好みも反映されたものが用意された。しっかり一人前を平らげたフリーナは食器の使い方等に手間取る様子はなく、一般的なマナーも知っているようだった。
「僕はこれまでこんなに美味しい料理を食べてきたのかい? もしそうなら忘れたなんて勿体なすぎる」
「食欲があるようであれば、今日はもう遅いがシグウィン殿がケーキを用意してくれたので、明日にでも食べよう。君は甘味も好んでいたから」
「ケーキだって!」
キラキラと目を輝かせるフリーナに自然と口角が上がる。明日はケーキだけでなく、もう少し濃い味付けのものにしよう。さすがフォンテーヌの最高級ホテルなだけあってフリーナは美味しいというが、ヌヴィレットに合わせた味付けではいささか物足りないだろう。
後片付けはフリーナも手伝って、宅配用の籠に食器を並べた。明日になればホテルが引き取りに来るよう手配している。
食器は洗わなくていいのかな、とフリーナが問いかけてきた。彼女の部屋にはホテルの一室にあるものは大概揃っていて、小さいながらキッチンも使うことができる。とはいえ彼女が料理らしいことをしている姿は見たことがなく、気軽に料理人を入室させることはなかったから、今さら整備なしに使えるのかは怪しかった。そもそもそういった後処理も含めた費用を払っているので、下手に触るよりもそのままにすることにする。
「シャワーや着替えは自由にしてくれて構わない。眠くないようであれば、書籍は君が残したままにしているから、読んでみるといい」
キッチンはともかく、バスルームに関しては使えることは確認していた。フリーナの本棚には小難しい法律や水域に関する本も少なくないが、童話や小説、彼女が出演した舞台の脚本も残されている。記憶を失っても演劇には多少興味があるようだし、大きく趣向から外れてはいないだろう。記憶喪失の彼女にとっては、自分がどういったものを好んでいたか知る機会にもなる。
しかしヌヴィレットの予想に反してフリーナはあまり本棚には興味を示さなかった。
「君はもう帰るのかい?」
「仕事が残っている。しばらく下にいるから何かあれば呼ぶといい」
「いま、もう少しだけ話ができないかな」
ヌヴィレットを引き留めるフリーナの様子にシグウィンの言葉を思い出す。急に何も分からないまま連れてこられたのだから不安で当然だ。いくらでも、と返してソファに腰掛けるとフリーナもそれに倣った。
パレ・メルモニアの上階は酷く静かだ。無音というのはそれだけで緊張感を醸し出す。音楽のひとつでも流れていればもう少し和やかな雰囲気にできただろう。ヌヴィレットは話術で人を和ますのは得意ではなく、気まずそうに視線を泳がせる少女が会話を始めるのをただじっと待っていた。
「……人々は皆海の中に溶け、水神は自らの神座で涙を流す。そうして初めて、フォンテーヌ人の罪は洗い流される」
「なぜ、そのことを?」
意を決したフリーナの口から出てきたのは予言だった。今更この話題が出てきたことにヌヴィレットは少し驚いた。フリーナは記憶を失っているはずだが、すべてではないのかもしれない。ヌヴィレットがはじめて人間社会で彼女と対峙したとき、フリーナは既に水神としての外面を完璧に作り上げていた。その時とのギャップで、記憶がないと思い込んでしまったのだろうか。
予言を誰かに聞いた覚えがあるのか尋ねるも、フリーナは首を横に振った。
「これしか思い出せないんだ。実はもうここにどんな本があるかは軽く見てみたんだけど、そしたら水位が上がったとか、予言が近付いている……みたいな本ばかりじゃないか」
それもそのはずだ。急激な水位の上昇から、近年になるほど予言が到来するという書籍は増えていた。もしフリーナがまだこの部屋を使っていれば、災害後のスチームバード新聞でも保管していたかもしれないが、予言から先、部屋の主人は帰らず本棚のラインナップが変わることはない。
「君が予言のことを知っているとは思わず、説明していなかった。安心するといい。フォンテーヌ人の罪は既に許された」
「えっと、それってつまりフォンテーヌの人々が死ぬようなことはもうないってこと?」
「この件に限れば、そうなる」
「そっか……。はは、なんだか勝手に緊張して恥ずかしいや」
心底安心したようにフリーナはぐったりとソファの背にもたれかかった。唯一記憶していたことが予言とは。フォカロルスがフリーナと分たれた経緯を思えば納得もするが、良い気持ちにはならなかった。目の前の少女があまりにも脆く、幼く見えるから、彼女の500年がヌヴィレットの想像より遥かに孤独と虚勢で満ちていたのではないかと考えてしまう。
そんなヌヴィレットの心境を知る由もなく、フリーナは言葉を重ねる。
「でも良かったよ。僕、なにかしないといけないんじゃないかって、お昼寝してからずっと不安だったんだ。海に溶けた人なんていなかった、本当にほっとしてる」
やはりヌヴィレットの知らない無防備な笑顔だった。違う、と返そうとする自分を黙殺する。このまま記憶が戻らなければ伝えるときがくるかもしれない。いつかこの判断をフリーナは責めるだろうか。
少なくとも今夜は彼女がすべてを知る必要はない。伝えないのは自分の為だと自覚しながら、ヌヴィレットは500年間で起きた当たり障りのない出来事をフリーナに語り聞かせた。
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翌朝、ヌヴィレットはフリーナを連れてエリニュス山林付近へ行くことにした。マレショーセ・ファントムは昨晩のうちに彼女の神の目を捜索したが、発見には至らなかった。位置を特定できるヌヴィレットが一番早く見つけられるだろうと出立の準備をしていると、フリーナも一緒に行きたいと言い出したのだ。
ーー僕の持ち物だろう、記憶が戻るかもしれない。それにひとりでいるのはちょっと怖い……。
小さな声で付け足された後者の方が本音だろう。そう言われれば置いてもいけず、同行を許可した。ヌヴィレットにとっても近くにいる方がなにかと都合が良かった。
パレ・メルモニアの周辺には予想した通り記者らしき姿が見えた為、エピクレシス歌劇場へ向かう時のルートを使って建物を抜け出す。一般人の入り込めない水路から直接船で海へ出るもので、フリーナは「スパイみたいだね」と呑気なことを言っていた。シグウィンからもらったケーキを携えているので、ピクニック気分でいるのかもしれない。目的地に着くまではそのくらいの気持ちでいても良いだろう。
ヌヴィレットが水元素を操って操舵する小型船は波を切るように揺れもなく進む。朝の澄んだ空気が清々しい。自身で水を蹴って進めればもっと良かった。いまのフリーナであれば水中散歩に誘っても、そのまま受け入れて楽しんだかもしれない。神の目がなくてもヌヴィレットの力で水中での呼吸くらいどうにでもなる。
しかし水の中ではケーキは食べられない。船の上での朝食を兼ねたティータイムは優雅さに欠けるが、手掴みのケーキとボトルに入った紅茶はそれはそれで趣があった。フリーナはクリームが手につかないよう苦戦しながらケーキを頬張り、キラキラと色の違う瞳を輝かせた。
「とっても美味しいよ。ヌヴィレットはケーキは好きかい?」
「私は水気の多い食べ物を好む。ケーキ自体は然程好きだと思わないが、こうして紅茶やコーヒーとともに味わうのは好きだ」
ティータイムの楽しみ方は君から教わった。そう続けるとフリーナは曖昧に返事をして気まずそうに紅茶を啜った。一晩明けて怯えの表情はすっかり薄くなったが、本来の彼女に比べるとぼんやりと、頼りなく見える印象は昨日から変わらない。なにかを思い出した様子もない。今の言葉に圧を感じただろうかとヌヴィレットは些かの申し訳なさから言葉を続けた。
「……今日の作法は君から教わった楽しみ方からは逸脱している」
「えっ、うん……。ちょっとお行儀が悪いよね」
「昔の君は、誰に見られていない時でも自らの立場に相応しい振る舞いをすべしとしていた。君はもう水神ではないから問題ないが、私は怒られるかもしれない」
「手掴みでケーキを食べちゃ駄目だって? ふふっ、僕って君のお母さんみたいだね」
「お母さん?」
「ええっと、そんなことで口出ししてくるなんて家族みたいじゃないか。まあ自分の家族のことも覚えていないからイメージでしかないけれど……」
もしかして失礼だったかな、とフリーナが上目遣いで様子を伺う。
「母親や家族、とはとても言える関係ではなかった。だが自分達の認識と外から見える距離は違うものだな」
ケーキを食べ終えると、気持ち悪そうにしていたフリーナの手を濡らした布巾で拭ってやる。家族ではなかったが、フリーナにしかしないこともあった。こうして触れることもそうだ。400年でフリーナに躾けられた結果でもあり、ヌヴィレットの意思でもある。不用意に他人の、特に女性の肌に触れてはいけない。手袋もプライベートな場以外では外してはならない。窮屈だった筈の嗜みも今では当たり前になっていた。数百年単位でヌヴィレットが直接触れたことのある人間の肌はフリーナくらいのものだ。それが家族と言えるのかヌヴィレットには疑問だった。
「どちらかというと君の方がお母さんだ」
「私は君の母ではないが」
「でも僕は君に初めて会った時、てっきり家族なんだと思ってた」
拭き終わったフリーナの指がヌヴィレットの指を弱々しく握った。幼い子供のようだ。ヌヴィレットはフリーナの指を軽く握り返し、数秒してから離した。躊躇いがちな少女の仕草が哀れだった。
その後もフリーナはヌヴィレットを見つめ、なにか言いたそうにしていたが、言葉にならないまま少ししてエリニュスの方へ視線を移した。もう対岸まではそう遠くない。
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つづく