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    ファルディア

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    ファルディア

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    『人魚の情権』

    人魚の情権買い出しで六分街へ向かおうと準備をしていると、ついでにこれをパイセンに届けてくれと大将から荷物を託された。
    なんでも義手と相性のいい部品が手に入りパイセンにも使えるかもしれないから渡してほしいらしい。
    断る理由はないのでバイクに荷物を積み、俺は都市までバイクを走らせることにした。
    あの件以降パイセンとまた関われるようになったが、お互いそんなに暇ではない。
    そう頻繁に顔を合わせる機会もなかったが、荷物を渡すという名目は呼び出すのに都合がよかった。
    大将にはきっとそんな意図なんてなかっただろうが、俺としてはありがたい話だ。

    六分街に到着し、バイクを停めて荷物を抱える。
    パイセンに連絡をしようとスマホを取り出したが、そのタイミングで目立つピンク色の髪をした女が歩いているのを見つけた。
    ニコ・デマラ、親分と呼ばれているパイセンの上司。
    六分街に顔を出したときに紹介されたことがあり、お互い顔は知っている。
    パイセンの居場所を知るには手っ取り早いなと思い声を掛けようとしたが、その前に向こうが俺の姿を捉えていた。

    「あ〜、あんた確かビリーの後輩の」
    「ああ。パイセンが世話になってるな」
    「お世話してやってるわよ。で、どうしたの?ビリーに用事でしょ?」
    「そうだ。これを渡してくれとうちの大将から頼まれてな」

    持っている荷物を見せると、興味有りげに見つめてくる。
    この女のことはパイセンから聞いているが、まさか売る算段でもつけているんじゃないだろうな……?

    「ちょっと!今失礼なこと考えたでしょ!滅多にしないわよ、従業員のもの勝手に売るなんて!」
    「滅多にって言わなかったか?」
    「気のせいでしょ。で、渡しておくから預かったげる!って言いたい所だけど、そんな重そうなもの持ちたくないわ。ビリーは今あそこの……ビデオ屋はわかるわよね?その隣のTURBOってお店にいるの。直接渡してやって」

    ニコ・デマラはその店の場所を示すと、もう俺には興味がないといった様子で去っていってしまった。
    言われたTURBOという店は何度か行った事があるし、最近はパイパーがよく足を運んでいるから知っている。
    メインでやっているのはボンプの修理やカスタマイズだったはずだが、家電から車まで機械類のメンテナンスや改造も一通り行っていたはずだ。
    パイセンがそこにいると言うことは何か身体でも弄らせているのか。
    それに対して言いようのない感情が胸の奥に滲むが、それを振り払って俺は足を進める。

    TURBOまでやってきて軽く扉を叩いてから中に入ると、オーナーである片腕が義手の大柄の男が出迎えてくれた。

    「お!走り屋の兄ちゃんか!」
    「いきなりすまないな。ここにパイセ……邪兎屋のビリーは来てないか。ちょっと渡したいもんがあって」
    「ビリーか!悪いな今ちょっと取り込んでて……」

    取り込んでて?
    一体何を、それを聞く前にオーナーは工房に繋がる扉を開けた。
    中の様子を伺おうと視線を向けたとき、俺は持っていた荷物を落としていた。
    中に見える作業台の上に見知った脚が乗っているが、乗っているのは脚だけ。
    上半身が、ない?

    「おいビリー!今お前の知り合いの走り屋の兄ちゃんが来て、」
    「ッ、パイセン!!」

    サァっと血の気が引くのを感じて、俺はオーナーを押しのけて工房の中に押し入る。
    まさか大破でもしたんじゃないか、あいつがそんなことになるわけが!
    嫌な想像が頭の中を駆け巡るが────俺の視界に飛び込んできたのは、予想もできないもんだった。

    工房の奥に大きな水槽があって、その中の水に知っている顔が沈んでいる。
    当然パイセンではあったが、その腰から下が脚ではなかった。
    まるで魚のような、尾鰭?とでも言えばいいのか、そんなものになっていて、水槽の中で揺れている。
    これは、なんだ?
    どうにも処理が追いつかないでいるとパイセンは水槽越しに俺に気付いて、ざぶ、と水から顔を出した。
    水槽の縁に腕を引っ掛けて僅かに乗り上げると、不思議そうに首を傾げて俺を呼ぶ。

    「ライト?」
    「……なんすかそれ」




    【人魚の情権】




    「人魚モジュール?」
    「そうそう」

    水槽から出されたパイセンは作業台の上に座らされると、水を拭きながら事の経緯を俺に説明してくれた。
    少し前までTURBOに短期バイトに来ていた女子高生のシリオンがいた。
    そいつがサメのシリオンで、その尾の動きから着想を得たオーナーは機械人に装着できる水中用パーツを作りたくなった。
    それで制作されたのが今パイセンが装着している魚みたいなパーツだ。
    人魚モジュールという名前らしいが、人と魚で人魚ってのはそのまますぎないか?

    「なんでパイセンがそんなことになってるんすか?ここ、結構機械人住んでますよね」
    「ああ。でも俺が1番防水性能が高かったからな。あとは……当面の間のメンテナンス料金マケてくれるっていうから……」
    「はぁ……」
    「まぁでも、水ん中自由に動けるってのは新鮮だったな!いくら俺が完全防水性能といえど水中での活動に向いてるかっていったら微妙だし」

    最初から水中作業用に作られたわけでもないかぎり、機械人っていうのは大半が水を不得手としている存在だ。
    完全防水性能を備えているパイセンですら、あえて水の中に沈むようなことはしない。
    機械人にわざわざそんな機能付ける必要があるのか……という疑問には、そんな存在が自由に水中を泳げたらロマンがあるだろ!というオーナーの意見が返ってきた。
    まぁロマンはわからないでもないが。

    「……こんなもんまで作っちまえるのはすげぇなとは思うが、何故わざわざこの形に?魚なんて動きづらいだろ」

    と、俺はオーナーに聞いてみる。
    パイセンが着けている魚のパーツはピチピチと本物の魚のように動いている。
    水中での活動でならともかく、陸上では自力で移動できない。
    サメのシリオンを参考にしたと言うなら脚をそのままにして尾としてそのパーツと付けてやればよかったんじゃないか。
    こんな無防備な姿でいるときに戦闘にでもなったら?
    いくらパイセンが強くても上半身だけでは戦えない。

    「あー、それは俺も思った。水中で動きたいだけならこんな大掛かりな換装パーツじゃなくてモーターボートのパーツ背負うとかのが楽だったんじゃねぇか?」
    「え……お前さん達は人魚にロマンを感じないのか……?うちの娘には人魚姫みたい〜!って好評だったんだが……」
    「ニンギョヒメ?なんだそれ。ライトは知ってるか?」
    「いや、知らないっすね」
    「は!?人魚姫知らないのか!有名な童話だぞ!?」

    そんなもんは知らない。
    オーナーはちょっと待ってろ!と言うと慌ただしく出ていって、本を片手にすぐ戻ってきた。

    「ほら、これだ」

    渡されたのは、何度も読まれたんだろう角が少し潰れた絵本だ。
    娘が、と言っていたからオーナーの娘のものなんだろう。
    表紙には『人魚姫』と書いてあって、上半身が人間の女で下半身が魚になっているキャラクターが海を背にして描かれている。
    これが人魚、たしかに今のパイセンの状態は似ている。

    「人魚姫……姫ねぇ……パイセンは姫って感じじゃないすけどね」
    「いや、気にすんのはそこじゃなくねぇ……?ライト、ページ捲ってくれ」

    濡らすとまずいから、と俺はパイセンにも見えるようにページを捲る。
    大の男2人で絵本を読んでる光景は異様ではあったが気にしないようにする。
    サッと目を通した内容はこうだ。




    昔々、海の底に人魚達の住まう王国がありました。
    その国には6人のお姫様がいて、15歳の誕生日を迎えると海の上の世界を見に行くことができました。
    末のお姫様である人魚姫は姉達から海の上の話を聞きながら、その日が来るのを楽しみに待っていました。

    ようやく15歳の誕生日を迎えた人魚姫は海の上へ行くことができました。
    海の上に出た人魚姫は大きな船を見つけ、その上に美しい王子様がいるのが見えました。
    人魚姫は王子様に恋をしてしまいました。
    しかしその時嵐が来て、王子様の乗っている船は壊れて海に飲み込まれてしまいます。
    人魚姫は海に沈んでいく王子様を助け、砂浜まで運んであげました。

    海の底に帰ってきた人魚姫は王子様のことを忘れることができず、王子様と同じ人間になりたいと思いました。
    海の魔女に相談すると、美しい声と引き換えに人間になれる薬を貰うことができました。
    海の魔女は言います。
    「この薬を飲んだら2度と人魚に戻ることはできないよ。もし王子様が他の人と結ばれてしまったら次の日の朝、お前は海の泡になって消えてしまう。それでもいいのかい?」
    人魚姫は薬を飲みました。

    人間の姿になった人魚姫は、砂浜で倒れていたところを王子様に見つけられ、お城で暮らすことになりました。
    話すことができない人魚姫は自分が王子様を助けたことを伝えることができません。
    ですが王子様は人魚姫を家族のように大切にしてくれました。
    人魚姫は、とても幸せでした。

    そんなある日、王子様は隣の国のお姫様と結婚することになりました。
    そのお姫様が自分を助けてくれたひとなのだと王子様は言います。
    王子様は、とても幸せそうでした。

    結婚式の前の晩、このままでは海の泡になってしまうと悲しむ人魚姫の元に、5人のお姉さん達がやってきました。
    お姉さん達の長かった髪がバッサリと短くなっています。
    お姉さん達は美しい髪と引き換えに海に魔女から魔法のナイフを貰ってきたのです。
    お姉さん達は人魚姫にナイフを渡して言いました。
    「このナイフで王子様を刺しなさい。そうすればあなたは人魚に戻れるわ!だから私たちといっしょに帰りましょう」
    人魚姫はナイフを受け取ると、王子様が眠る部屋へと向かいました。

    ベッドの中にはすやすやと眠っている王子様がいます。
    人魚姫はナイフを振り上げましたが、それを王子様に突き立てることはできませんでした。
    愛する王子様にそんなことはできなかったのです。
    人魚姫はナイフを捨てると、夜明け前に海へと身を投げました。

    朝日を浴びると人魚姫の体は泡になってしまいましたが、その心が消えることはありませんでした。
    王子様を愛したその心が、人魚姫を空気の精へと生まれ変わらせたのです。
    空気の精になった人魚姫は王子様とお姫様を祝福すると、風となって人々に幸せを運んでいくのでした。




    これを読み終えたとき、俺はなんとも言えない心境になっていた。
    世の中全てが報われるとは思わないが、子供向けの話でこの結末なのか。
    美談のように思えるが人魚姫の恋があまりに報われない。
    王子に恋をして、王子の命を救い、声と尾鰭を失ってまで人間の脚を手に入れて会いに行ったのに。
    王子は自分じゃない相手を恩人と思い込んで結婚してしまった。
    パイセンはどう思ったのか聞こうとしたが、パイセンも俺と同じような少し納得がいかないような顔をしている。

    「な、イイ話だろ?」
    「俺にはちょっとよくわかんねぇなぁ……ライトはどう思う?」
    「俺もわからんっすね。気になる点はちょいちょいあるし。最初助けた段階で王子が起きるまで一緒にいたらそこでハッピーエンドにはなってた気がする」
    「ま〜今はシリオンや機械人もあちこちにいて種族の違いなんて気にならんかもしれないがなぁ、人間しか居ない世界で人魚なんてファンタジーな生きもんすぐ受け入れてくれるかはわからんだろ。もし目を覚ました王子に変なもん見るような目で見られたら怖いだろうよ」
    「それは確かに。俺も最初は怖がられたことあったからなぁ。そう考えると、人魚姫の心境ってやつはわかる気がするぜ」

    パイセンは思い出したようにそんなことを言う。
    パイセンの事を恐れるものは多くいたが、それは“カリュドーンの子のチャンピオン”として他の陣営に恐れらていただけだ。
    この男が“人”として周囲の奴らに好かれていたのを俺は知っている。
    機械人は今やもう珍しい存在ではないが、この男は機械人という括りにいるものの失われた技術とやらで生み出された戦闘兵器で、普通の機械人とは違う存在だ。
    パイセンが人魚姫に理解を示したのは、“人ではないもの”として恐れられたことがあるからだろう。
    人間の扱いをされなかった経験は俺にもあるが、きっと俺には理解してやれない。

    「でもよ、なんで人魚姫は王子様に自分が助けたって伝えなかったんだ?やりようはあったんじゃねぇかなぁ。声が出なくてもなんか……筆談で伝えるとか、身体で表現するとか。見た感じ隣のお姫様が居なかったら結構良い雰囲気っぽいしよ……」
    「ははっ、お前さんは優しいな。うちの娘も似たようなこと言ってたぞ。確か人魚姫は原作がちゃんとあって、こういった絵本になってるのは子供が読みやすいように少し弄られた内容だったはずだ。そっちを読んだらわかるかもしれねぇな」

    この内容で更に原作があるのか。
    流石にかなり内容が異なるなんてことはないと思うが、あちこちの不可解な箇所もわかるかもしれない。
    帰って忘れてなかったら調べてみるか。
    スマホで検索してもいいし、ルーシーあたりなら知っているかもしれない。
    読み終えた絵本を閉じてオーナーに返す。
    オーナーは絵本を元の場所に戻す為にまた出ていってしまって、俺はパイセンとその場に残された。

    「そういやライトはなんで来たんだ?俺に何か用があるんだったよな?」
    「そうだった、忘れるとこだった。あれ届けに来たんすよ」

    俺が落とした荷物はオーナーが拾って作業台の上に置いてくれていて、それを示す。
    危ない、忘れるところだった。

    「大将の手と相性の良いパーツが手に入って、パイセンにも使えるんじゃないかって」
    「マジか!ありがとうなライト、アネゴにも礼言っといてくれ。とりあえず一通りオーナーに見てもらって、いけそうだったら早速使わせてもらうぜ!」
    「そうしてください。じゃ、俺はこれで」
    「おう。気をつけて帰れよ」

    そう言ってパイセンは俺に手を振って、手の動きと連動するように尾鰭もピチピチと揺れる。
    俺はそんな見送りをされながらTURBOを後にした。




    拠点に戻り、大将にパイセンが礼を言っていたことを伝え、武器やバイクのメンテナンスや食事も済ませて今日すべきことを全て終えた夜。
    興味のないことはすぐに忘れる俺が珍しく忘れていなかった『人魚姫』、それの原作をスマホで検索していた。
    出てきたページは結構な文量で少し読むのが億劫になる。
    普段小説なんて読むことも無いからな。
    たかが童話の話だし別にいいか……と普段なら思うのに、今日見たパイセンの姿とか人魚姫の結末だとかが頭から離れなくて、俺は眉間にシワを寄せながら字を辿っていく。
    出だしはほぼ同じだ。
    海の底に人魚の6人姉妹がいて、末の姫が人魚姫と呼ばれる主人公で、海の上を見たがっている。
    結末を知っている身としては王子なんて見ずに海の中で幸せに暮らしていてほしいもんだが、それを言ってしまえば物語が進まない。

    「ライト?」

    話をゆっくり読んでいると、不意に名前を呼ばれた。
    その方向を見るとルーシーがいて、俺に近づいてくる。

    「どうしたんですの?そんな険しい顔でスマホを見ているなんて、珍しいですわね」
    「ああ、お嬢様、良いところに」
    「何か?」
    「あんた、人魚姫ってわかるか?」

    俺の口から童話のタイトルが出たことにルーシーはかなり驚いていたが、茶化すこともなく俺に近付き、スマホを覗き込んでくる。
    人魚姫のあらすじが表示されているのを見ると、不思議そうに俺を見上げた。

    「まぁ、本当に珍しい。あなた、童話に興味がありましたの?」
    「今日色々あって絵本を見せられたんだが、ちょっと気になる箇所があってな。それなら原作調べてみろって言われて」
    「そうでしたの。人魚姫ならわかりますわよ。原作の方も大体は」
    「それなら良かった。俺は字を読むのには向いてなくてな、教えてくれるか」
    「しょうがないですわね……童話にしては少し長いお話ですから、ちゃんと聞くなら話し聞かせてあげても宜しくてよ」
    「ああ、頼む」

    ルーシーはそのへんの座れそうな場所に腰を下ろすと、頭の中で絵本を開くように目を閉じる。
    そのまま子供に読み聞かせるような話し方で、俺に人魚姫の内容を語った。




    海の底にある人魚の国には、妻を失ったばかりの王と6人の美しい娘達がいた。
    人魚の娘達は一日中お城の中で遊んだり、自分の花壇を弄ったり、魚と戯れたり、海に沈んだ珍しいものを集めたり、歌うなどをして過ごしていた。
    中でも末の人魚姫は1番美しい歌声を持っており、誰からも愛されていた。

    彼女達は15歳の誕生日を迎えると海の上の世界を見ることが許されていた。
    上の世界には海の中にはない素晴らしいものがたくさんあるのだという。
    人魚姫は、先に誕生日を迎え上の世界を見てきた姉達の話を聞きながらその日を楽しみに待っていた。
    15歳の誕生日を迎えた人魚姫は海の上へ昇ると、大きな船とその上に立っている美しい王子を見つけた。
    人魚姫は彼に恋心を抱いたが、夜にやってきた嵐で彼の乗っている船が壊れて、彼は海へと放り出されてしまった。
    人魚姫はすぐさま彼に近付き喜ぶも、水中では人間は死んでしまうことに気が付き、彼を抱えて一晩中海面を泳ぎ、温かい浜辺まで運んだ。
    陸に王子を寝かせると人魚姫は岩陰に隠れて様子を見ていたが、近くの修道院からやってきた女性が王子に気付いた。
    王子は女性に付き添われて連れられていき、人魚姫は海の底へと帰っていった。

    人魚姫は王子のことを忘れることができず、毎日海の上に行っては王子の姿を探した。
    王子の姿を見るたびに彼への想いは強くなり、人間のことも好きになっていった。
    人魚姫にとって、人間の世界は海の中よりも素晴らしいものに思えたのだ。
    人魚姫は祖母に尋ねて人間のことを教えてもらった。
    人間は、300年生きる人魚と比べてとても短命だが、死んだとき泡になって消えてしまう人魚とは違い死なない魂というものを持っており、天国という美しい場所へ行くことができる存在なのだという。
    どうすればそれを手に入れることができるのか、どうすれば人間になれるのか。
    生きていられる300年をあげても構わないから1日だけでも人間になり、その後は天国にいきたい。 
    人魚姫の願いを聞くと、祖母は言う。
    人間の誰かが自分達を愛し結ばれればその人間の魂の半分が自分に流れ込み、人間の幸せを得ることができる。
    だが、人間が異型である人魚を愛することはないだろう。

    人魚姫は人間になることを諦めることができず、海の魔女を訪ねた。
    魔女は人間の姿を得られる薬を作ることができたが、これを貰うためには海の中で最も美しく歌うとされた人魚姫の声を引き換えにしなければならなかった。
    薬で人間の姿になっても声は出せず、歩く度にナイフで抉られるような痛みに襲われるのだという。
    さらには王子の愛を得られなければ、海の泡になって消えてしまうのだと警告をされた。
    人魚姫はそれでも魔女から薬を受け取った。
    海の上へ昇ってから薬を飲むと、体を裂かれるような痛みとともに意識を失った。

    目覚めると、人魚姫は人間の姿になっていた。
    人魚姫は砂浜に倒れていたところを王子に保護され、王子の宮殿に招かれた。
    魔女に言われたとおり、人間の足で歩くたびにナイフで抉られるような痛みを感じたが、人魚姫は喜んでそれを我慢した。
    王子様に手を引かれながら滑るように軽やかに歩くその姿は、人々を驚かせた。
    美しく着飾られた人魚姫は、宮殿の中で誰よりも美しかった。
    人魚姫は話せず歌えないかわりに見事な踊りを披露してみせた。
    王子に気に入られた人魚姫は、宮殿で生活することを許された。

    王子は人魚姫を慈しみ、家族のように大切にした。
    人魚姫の為に服や馬を用意して、森や山や、たくさんの場所へ連れて行ってくれた。
    足は燃えるように傷んだが、王子と過ごす時間は幸せだった。
    人魚姫は自分を1番に愛してほしいと訴えたが、王子の心の中には強く想っている人がいた。
    それは浜辺に打ち上げられていた王子を介抱してくれた女性で、彼女は命の恩人なのだという。
    王子は彼女のことを愛していたが、修道院にいる彼女とは結ばれることはできない。
    いつか花嫁を選ぶことになったら、人魚姫のことを選ぶと王子は言った。
    人魚姫は自分が王子を助けたことを伝えられないでいたが、王子の想い人は修道院から出てくることはないだろう。
    人魚姫はずっと王子の側にいることを誓った。

    ところがある日、王子に隣の国の姫とのお見合いの話が舞い込んだ。
    王子は縁談を断るつもりだったが、その姫は砂浜で自分を介抱してくれた女性だった。
    王子はすぐに姫と結婚を決めてしまった。
    あっという間にその日が来て、豪華に飾られた船の上で王子と姫は結婚式を上げた。
    人魚姫は2人の為にこの上ない程に美しく踊った。
    まるで足を切り裂かれるようだったが痛みを感じなかった。
    胸が張り裂けそうな痛みの方がずっと痛かったのだ。

    王子と姫が眠ったあと、やってくる死を悲しむ人魚姫のもとに5人の姉達が現れた。
    姉達は美しい髪と引き換えに海の魔女から人魚に戻る事ができるナイフを貰っていた。
    姉達は人魚姫にナイフを渡すと魔女からの伝言を伝える。
    このナイフで王子を刺し、その血を足に浴びれば人魚に戻ることができるだろう。
    人魚姫は王子の寝室へ向かい、夢の中で幸せそうに花嫁の名前を呼ぶ王子にナイフを構えた。
    しかし、人魚姫には愛する王子を刺すことなど出来なかった。
    人魚姫はナイフを捨てると、夜明けの海へ身を投げた。
    その体は、朝日を浴びると泡へと変わっていった。

    人魚姫の体は泡になってしまったが消えることはなく、空へと昇っていった。
    王子を想う真心が、人魚姫を空気の精へと変えたのだ。
    空気の精は300年善行を積むことで死なない魂を授かり、人間の永遠の幸せを分け与えられるのだという。
    下を見ると、船の上が騒がしくなっていた。
    王子が花嫁と共に人魚姫を探しているのが見えた。
    人魚姫は悲しむように海の泡を見ている2人の元へそっと近づくと、花嫁の額にキスをして、王子には微笑みを贈った。
    2人の幸せを願いながら、人魚姫は薔薇色の雲の方へと向かっていったのだった。




    「……と、まぁ、こんな感じですわね」

    語り終えたルーシーは目を開けると満足そうに言った。
    確かに絵本で読んだやつよりは長く、子供向けの絵本で端折られた部分も聞くことができた。
    最初に読んだ時はただの異種族間の叶わない恋の話かと思ったが、作中に出てきた魂の概念。
    そっちがこの話の本質になるんじゃないのか。
    300年生き死後は泡になり何も残らない人魚という存在が、恋をきっかけに人間になろうとする過程。
    人魚は恋を実らせることこそできなかったが、魂を得られる資格を与えられた。
    ハッピーエンドとは呼べないだろうが報われる結末ではある気がした。
    それを知ったところで、この話を良い話だとは思えなかったが。

    「なんか虚しい話だな」

    これが俺の率直な感想だった。
    王子に選ばれず悲しいでもなく、姫に奪われて悔しいでもなく、虚しい。

    途中までは、王子の縁談が来るまでは上手く行っていた。
    目覚めて王子に保護されたこと、王子に気に入られたこと、王子と共に暮らせたこと。
    ここまでは相当運がよく事が運んでいる。
    パイセンが言っていたとおり、何故自分の正体を明かさなかったのか。
    本当に王子の命を救ったのは自分だと伝えなかったのか。
    それさえ伝わっていれば王子は人魚姫を選び、人魚姫は魂を得ることができただろうに。
    得ようとしたものを全て得られていただろうに。
    そう思うから虚しいのか。

    「そうですわね。結局、人魚姫の恋は叶わなかったわけですから」
    「なんで人魚姫は正体を伝えなかった?声以外にも手段なんてあったと思うが」

    オーナーから回答が貰えなかったパイセンの問を投げてみた。
    ルーシーなら俺が考えつかないような答えを持っているような気がした。
    こんな質問が俺から出るとは思っていなかったんだろう、真剣な顔で物語を辿り直して考えてくれている。

    「その考えには至りませんでしたわ。声が出せないから伝えられない。そういう物語なのだと思って受け入れていましたから。確かに、長く王子と過ごしていたのなら話せずとも伝える術はあったでしょうね。人間に興味があった人魚姫が、人間の世界で生きようとしている人魚姫が、言語を放棄するとは思えませんし」
    「……なんか一気に難しい話になったな。気にしなくていい。これはパイセンが気になってたみたいだから聞いてみただけだ」
    「ビリーが?」
    「ああ、実は……」

    別に口止めをされているわけじゃないから俺は今日あったことをルーシーに話した。
    あの人魚の姿のパイセンの事を。

    「……似合っているのでは?」

    どんな想像をしたのか、ルーシーがパイセンに対してどんな印象を持っているのかは謎だったが、そんなことを言った。
    そうか?
    人魚姫なんてお伽噺の肩書はあいつに似合わないと思うのに。

    「彼に人魚の設定を加えるなんて、エンゾウおじさまは粋ですわね」
    「なんだそれは」
    「いいえ、なんでも。それで、人魚姫は何故王子様に真実を伝えなかったのか……でしたわね。あくまでも私なりの考えですけれど」

    この短い時間で、ルーシーは自分なりの答えを導いたらしい。
    内容次第ではパイセンにも教えてやろうか、なんて思っていたが……ルーシーが出した答えは意外なものだった。




    「────“人間”になってしまったからではないかしら」




    物語をひっくり返しかねない言葉だった。
    人間になったからなんて、人間になる条件を満たせなかったから泡になったのに。
    それに、なって“しまった”という言い方が少し気になるな。

    「どういうことだ?」
    「人の定義ってなんだと思います?」
    「質問に質問で返すのは感心しないな」

    俺は咎めるように返すことしかできなかった。
    人の定義なんて言われても自分がそれを満たせているかも怪しいのに、ルーシーに聞かせられる答えなんて持っているわけがない。

    「何を以てすれば“人間”と呼ばれるものに成れると思いますか」
    「さぁ。物語に準ずるなら、死なない魂とやらを持っていることが条件なんじゃないか?」
    「そうですわね。でも私はそうは思いませんのよ。そんな曖昧なものの有無なんてわかると思います?人魚姫も泡に変わってから、それを得る資格を与えられたわけですから。ならば何を以て“人間”だといえるのか」
    「哲学じみた話だな」
    「そう、きっと正解なんてないんでしょうけど、私は“情”を学べることではないかと思っていますわ」

    ジョウ、つまり感情の“情”?
    人魚姫は最初から王子に恋をしていただろうに、それは愛“情”ではないのか。

    「人魚姫の行動は単純なものでしたわ。美しいものが欲しくて、王子様も、魂も、美しいと思ったから欲しがって、そのことしか考えていない。人魚姫はとても幼くて一途で、愚かだった。お祖母様の忠告も海の魔女の警告も聞いておきながら、大きすぎる代償を払い、後戻りのできない薬を迷わず飲んだ。人魚姫はきっと、王子様はすぐに自分を愛してくれる思っていたのでしょう。人魚の世界で愛されて育ったお姫様ですから、望みが叶わない未来なんて想像できない。けれど、今回ばかりは思い通りにはいかなくて、そのもどかしさに苦しめられる。あなたの命を救ったのに。あなたと同じ人間になりたくて人魚の身体と声を捨てたのに。この足は歩く度にナイフで抉られるように痛むのに。あなたと結ばれなれば泡になって消えてしまうのに。どうして私を選んでくれないの?……って。それって、王子様への愛“情”からくるものかしら?」

    そう言われると、人魚姫は王子のことが本当に好きだったのか?
    人魚姫にとって王子からの愛は“人間”になるために必要なもので、それだけのものでしかなかったのだとしたら。
    俺がその考えに至ったことをわかったのか、ルーシーは目を細めて笑う。
    俺より随分と若いくせに大人びたその顔は、普段大将に噛み付いている時とはまるで印象が違う。

    「人魚という生き物は、海の中でただ楽しく歌い泳ぎ過ごしている。生きていくことに社会的な煩わしさなんて何もなく、300年という長い寿命を生きられる。人魚達は、自分たちの方が人間よりも優れている生き物だと思っていたことでしょう。けれど、人魚姫は違った。人魚姫が人間に焦がれたのは、王子様の存在もあったでしょうけど、人間の方が自分達よりも優れていると思ったのではないかしら。300年の寿命を捨てて1日だけでも人間になって天国に行きたい、美しく聞こえますけど、300年よりも死なない魂の方が優れていると思ったのでは?それを考えると、子供みたいに身勝手に思えてきますのよ」
    「随分手厳しい意見を言うんだな」
    「あなたはちゃんと考えられる大人ですもの。問題ないでしょう?」
    「嬉しいね、そう思ってくれてんのは」
    「褒めてますのよ」
    「あんたはもう少し子供らしくしていてもいいんじゃないのか」
    「ここにはもう手のかかる子がいますでしょ」

    同じ人物のことを思い浮かべる。
    大将の前でこんな夢を壊すような話はできないな。
    大将はきっと泣きながらこの物語を読む人間だろうから。

    「話を戻しますけど、そんな幼くて身勝手な人魚姫が、何故命を救ったという自分が有利になる事実を伝えなかったのか。それは、人魚姫が人として成長してしまったからではないかしら。王子様は身元のわからない人魚姫をとても大切にしてくれた。自分にとって最大の武器だった歌声を失っている人魚姫に優しかった。王子様からたくさんの愛“情”を貰ったのではないかしら。たくさんの“情”を学んで、王子様を愛した」
    「それがあんたの思う“人間になってしまった”か」
    「ええ。伝える術を得たときには真実を言えなくなっていたのでは?だって、王子様はお姫様と結婚できてとても幸せそうだったから。王子様が自分を選んでくれなくても、最後は王子様とお姫様の為に美しく踊ってみせた。痛みも悲しみも死への恐怖見せずに、ただ美しくあった。人魚に戻れる救済を目に前にしてナイフを捨てた。その行動を選べるまでに、彼女の心は成長したのではないかしら。これは間違いなく愛“情”と呼べるものでしょう?」

    それがルーシーの考えた答え。
    俺も童話でこんな深い話になるとは思っちゃいなかったが、ルーシーの言っていることは間違ってはないんだと思う。
    納得できる部分は確かにあるのに、まだどこかに腑に落ちない何かがあるみたいだ。
    それを上手に言葉に出せるほど頭は良くないし、これ以上引っ張ったらルーシーに悪い。
    その証拠に、ルーシーは小さくあくびをしていた。
    郊外の環境だろうが美容に気を遣っているお嬢様は、睡眠時間をなにより大切にしている。

    「なんだかこんな話をあなたにするとは思ってませんでしたから、有意義でしたわ。もう良い時間ですし、水を飲んだら私は寝ますわね」
    「ああ、付き合わせて悪かった。……なぁ、最後にこれだけ聞いてもいいか?」
    「ええ、どうぞ」
    「……あんたはこの話をどう思う?」

    結局のところ、俺はこの話が好きじゃない。
    ルーシーは俺の意見をわかっていて、相反する答えを返してきた。

    「私は好きですわよ。結果はどうであれ、どんな対価を払ってでも得たいもののために突き進んだ根性は立派でしょう?」
    「根性か、あんたらしい言い方だな。あんたが人魚姫なら、大将が王子ってところか?」
    「あんなガサツな王子様がいるわけありませんわ!……けど、あながち間違ってはいませんわね」

    ルーシーは立ち上がる。
    その足で立てることを見せるように。

    「私を人間に変えたのはきっと、シーザーだった。学んだのは根“情”といったところですわね」
    「ははっ、違いない」
    「ライトにとっての“王子様”はいまして?」
    「そんなもんは居ない。俺は姫じゃあないからな」
    「じゃあ、あなたを“人間”にしたのは誰?」

    ……脳裏過ぎったのは、赤いマフラーを靡かせてバイクで駆けていくあの男の姿だった。




    ルーシーの回答をパイセンに話そうかと思っていたが、次に会った時の話題に上がれば言おう。
    そう思いながら数日が経過したある日、パイセンから連絡が来た。
    パイセンから連絡がくることは滅多にないし、来ても大将あたりにしか寄越さないから、嬉しいのを表に出さないようスマホを耳に当てる。

    『今日の夜空いてるか?』
    「お、ついに決闘のお誘いすか」
    『違ぇ〜よ!この前のアレ、覚えてるか?人魚のやつ』

    いきなり本題か。

    「あー何でしたっけそれ」
    『え……?』
    「冗談っすよ、覚えてます。人魚がどうかしたんすか?」
    『あれから色々調整かけてこれで完成って感じまで持ってったんだけどよぉ、流石にあの水槽だけじゃ全力で動けないから今度プールで泳いでみるかって話になったんだよ。で、オーナーの知り合いに市民プール管理してるやつがいて、今日の夜中なら貸し切って使っていいって言われてんだ』
    「なるほど?」

    あれが完成したのか。
    前に見たときで充分な出来だったのに、あのオーナーのことだから更に弄られているに違いない。
    興味はあるが、なんで関係ない俺に連絡してきたんだ?

    「それでなんで俺に?」
    『オーナーが良かったらお前にも来てほしいっていうからよ……』
    「そうなんすね」
    『まぁ無理にとは言わねぇし、別に来なくても』
    「行きますよ。全然空いてるんで」
    『…………わかった』

    なんだその間は。
    どっか歯切れの悪い話し方をしてくる。
    オーナーに言われたから連絡を寄越してきたんだろうが、パイセン個人としては俺には見られたくないのか?
    それなら行かない、わけがない。

    『じゃあ住所な。場所は九分街の────』

    場所は六分街から少し離れた九分街にある市民プール。
    時間は0時だ。
    配送の仕事を手早く済ませて、夜中に拠点を空けることを仲間達に伝えておく。
    パイセンに呼ばれて、というと快く了承してくれた。
    23時を過ぎたあたりに拠点からバイクで出て、新エリー都まで走っていく。

    九分街に足を運んだことはほとんどないが、市民プールで検索を掛けるとわかりやすいマップがすぐに表示された。
    時間も時間だし、今日は“走り屋”として来ているわけじゃなからあまり騒がしくしないように道路を走っていく。
    市民プールの建物までやってくると、入口の前にTURBOのロゴが入った大きいワゴン車が停まっているのがわかる。
    俺はバイクをその隣に停めると、降りて建物の中に入った。

    パイセンがどこにいるのかは聞いていないが、パシャ、パシャ、と水が跳ねる音が聞こえてくる。
    その音を辿って廊下を歩いていくと、Cプールと書かれた扉の前に着く。
    このプールにはプールが3つあって、Aプールが子供向け、Bプールが一般、Cプールはシリオン向けらしい。
    今のパイセンはシリオン枠に入るのか。
    扉を開けると、大きな水面が見えた。
    プールの縁に立っているオーナーが俺に気付いて手を振ってくる。

    「お!来てくれたのか兄ちゃん!」
    「……どうも。パイセ……あいつは?」
    「ほれ」

    オーナーが示したのはプールの中。
    プールに近付き覗き込むと、底が見えないくらい深い水の中を大きな黒い魚のようなもんが泳いでんのが見える。
    オーナーが水面を軽くパシャパシャと叩くと、それが合図なのか黒い魚は水面に近付き、頭を出した。

    「ぷはっ!」

    黒い顔と白い髪、黄色く光る目を瞬きするように短く点滅させると、パイセンは俺を捉えて手を振ってくる。
    水を含んでいるはずなのに髪は立ったままで、どういう原理なんだか。

    「お、ライト!来たんだな!」
    「来ましたけど」

    電話の時とはテンションが違うなこいつ。
    オーナーがいるからなんだろうが、指摘する気はない。
    パイセンはスーッとこっちに近付いて、縁に手をつき乗り上げて器用に座る。

    「見てくれよこれ!めちゃくちゃカッコよくねぇ!?」

    そう言って自慢するよう尾鰭を水面から上げて見せてくる。
    完成形になったらしい人魚のパーツは前に見たときとはあちこちが違う。
    細かいパーツの変化とか、色も塗装されたんだろう、パイセンの元のボディの色と合うカラーリングになっている。
    加えて、頭や腰の左右に鰭のような装飾も加わって、絵本の人魚姫とはイメージが違うがちゃんと『機械の人魚』といった雰囲気になっていた。
    手には水掻きまであってこだわりを感じるな。

    「いいんじゃないすか?」
    「だろ〜!」

    パイセンは機嫌が良さそうに尾鰭で水を弾いている。
    この姿をオーナーは俺に見せたくて、パイセンは見られたくなかった。
    どっちの意図もわからないな。

    「ってか、あんた泳げたんすね。それとも何かプログラムかなんかいれたんすか?」
    「いや、エレンに……オーナーのとこにバイトに来てたサメのシリオンからコツ聞いたんだよな!あとは魚がいっぱい出る映画を店長とアンビーに見せてもらった!」
    「そんなんでここまで泳げるんすね」
    「すげぇだろ!泳ぐの初めてだけどめちゃくちゃ楽しいぜ!オーナー、ありがとな!」

    その泳ぐってのはバイクで走るより楽しいことなんだろうか、なんてガキか俺は。




    パイセンはオーナーに何かを調節されては一定時間泳ぐといったことを繰り返している。
    俺から見たら何がどう変わったのかわからないが、パイセンは動きがこうなっただの重さが違うだのと感じた変化をオーナーに伝えて、オーナーはそれに応じて何らかの数値や回路を弄る。
    その不思議な光景を、俺はただ眺めていた。
    俺は自分のギアやバイクは弄れるが、ああいった機械について専門的に詳しいわけじゃない。
    何かを手伝えるわけもなく、泳ぐパイセンのことを見ている。
    何度目かの調整をしてパイセンが水の中に潜ると、そのタイミングでオーナーが俺に話しかけてきた。

    「前から気になってたんだが、お前さんはビリーのことパイセン呼びなんだな」
    「……一応は」

    店長にも同じことを言われたな。
    あいつが先輩の肩書を持ってんのがそんなに意外か?
    パイセンがどんなキャラで振る舞ってんのかは知ってるが、あの男の本当の強さを誰も知らないみたいで少し苛立つ。
    何も知らないくせに、なんて、俺だって何もわからないのに。

    「前の……職場、とでも言えばいいのか。そこではあいつが俺の前任だったんでな」
    「そうかそうか。ビリーは良い先輩だったか?」
    「どうだろうな」

    俺は大したことを話しちゃいないのに、オーナーは何故か嬉しそうだ。

    「あいつは、ここではあんまり昔のことを話さない。でも最近少し変わったんだよ」
    「……変わった?」
    「ああ。わかりやすいのは最近使うパーツの質だな。前までは安さ重視のB級品とかよく使ってたくせに、この頃戦闘技能に直結する部分はかなり良いやつを使うようになった。今まで見なかった細かいところまで調整するようになったりな。どうしたんだって聞いたら、昔の知り合いに“なまった”って言われたから、だと。それってお前さんのことじゃないのか?」

    なんだそれは。
    強化素材だから噛まれてもしばらく保つとかふざけたことを言ってはぐらかしてきたくせに。
    俺が言った軽口を真面目に受け止めているなんて、あいつ。

    「俺は少し安心したんだ。六分街には結構ワケアリの連中がいて、ビリーもそうだ。でも俺達は本人が何も言わない限り聞かないし、聞いちゃいけねぇ。邪兎屋の仲間連中だってビリーの素性なんてきっと知らんだろう。だから、あいつのそういった部分に触れてやれるやつがいて、ビリーにお前さんみたいな後輩がいて、俺は良かったと思う」
    「それを言うために、俺を呼んだのか?」
    「まぁそれもあるが……」

    オーナーは品定めをするように俺の姿を眺めると、首に巻かれた赤いマフラーを指す。
    六分街に住んでいるならあの噂はきっと知っているだろう。
    一体何を言われるのかと身構えるが、オーナーは微笑ましいものを見るように笑った。

    「俺は人間歴は長いし妻もいる。察しは良い方だ。ちょっとしたお節介ってやつだな」
    「……はぁ」

    俺はそんなにわかりやすいのか?
    なんだか気が抜けて、俺ばっかりが馬鹿みたいだ。

    「ビリーは時々、ふらっとどっか行っちまいそうな危なっかしさがあるからな。うちの大事な客、お前さんが捕まえといてくれれば、俺が助かる」
    「とんでもないオーナーだな。私情過ぎないか」
    「だろ?ま、ビリーが居なくなるなんて、可能性が有るとすれば邪兎屋が夜逃げする時とかだろうから大丈夫だ」
    「……っ、はは」

    どんな会社だ、と思いながらも夜逃げに巻き込まれるパイセンを想像したら笑える。
    カリュドーンの子を去っていく姿は悲しかったのに不思議なもんだ。
    俺が笑っているとザパッ!と水面からパイセンが飛び出して、驚いた顔でこっちを見ている。

    「!?邪兎屋って夜逃げすると思われてんのか!?」
    「変なタイミングで出てこないでくださいよ」
    「絶対そんなことにはならな……ならないよな……えぇ……?」

    店長にツケがあるうちは逃げられないとか、まだ大丈夫とか、近々デカい依頼がとか、面白いことを言っているが、夜逃げの可能性がなくはない事を裏付けていて笑うしかない。
    何があってそんな面白い会社にいるのか、そのうちちゃんと話してくれたらいい。
    そんな俺とパイセンの様子を見ていたオーナーは思いついたように俺に言う。

    「悪い、ちょっと必要なもん店に忘れてきた。取ってくるから、ビリーのこと見ててくれるか」

    そんな雑で突発的な気の使い方があるか?
    まぁ俺は構わないが、パイセンが慌てる。

    「ちょっ、オーナー!?おい!」
    「すぐ戻るし、なんかあったら連絡しろ。ビリーのスマホに俺の番号入ってるから」
    「了解」
    「オーナー!?おーい!!」

    パイセンはオーナーを引き止めようとするが、足が無いから無理だった。
    オーナーは颯爽とCプールから出ていってしまって、この場所には俺とパイセンだけが残される。
    この状況は前にTURBOを訪れたときに似ているが、足がないパイセンはともかく、オーナーからパイセンを見ておくように頼まれている俺にも帰る選択肢がない。
    オーナーの足音が遠ざかって何も聞こえなくなると、大騒ぎしていたパイセンは静かになって、俺も何も言わなかった。




    「……あのよぉ」

    暫く間を置いた後、先に口を開いたのはパイセンだった。
    プールの縁に座って、俺を見ないまま、独り言みたいに言う。

    「なんすか?」
    「……お前、前に人魚姫の絵本読んだの覚えてるか?」

    覚えてるも何も、その日の夜にルーシーから聞いている。
    ここでそんなもん覚えてないって言ってやったら、こいつは多分もう人魚姫の言葉を口に出すことなく、スターナイトライトやらモニカ様やらの話でオーナーが戻ってくるまで繋ぎにかかってくるんだろうが、踏み込まないのは逃げだろう。

    「覚えてますよ」
    「そっか」
    「ルーシーが知ってて、原作ってやつの方聞いたんすよ。パイセンは?」
    「俺もアンビーから聞いた。人魚姫ってやつは結構有名な話で、モチーフにした映画も何本かあるらしい。それで、1番原作に忠実らしいやつを見たんだ」
    「へぇ。どうでした?」

    最初に話を聞いたときは、俺もパイセンもよくわからないという感想をもった。
    恋は叶わなかったが少し報われたような結末に対し良いも悪いも判断できなかったから。
    ちゃんと話を聞いた後は、俺はこれを虚しい話だと思った。
    多分パイセンも同じ感想を持ったんじゃないかと勝手に思っていたが、返ってきたのは違う答えだった。

    「俺は……良い話だと思った」

    はっきりと迷いなく言い切る。
    良い話、気に入ったのなら良いことだろうが、ルーシーが言った共感からくる『好き』とは意味合いが違う気がした。
    感動を示しているわけでもない、目の前にあるものを見たままに言っているだけみたいな、そんな言い方だ。

    「……あんな結末の話を良い話だって?」
    「ああ。オーナーも良い話だって言ってただろ?最初聞いた時にはなんでかなって思ってたんだが、ちゃんと聞いてみたら、良い話だって思えたんだ」
    「へぇ……意外っすね。あんたは絵に描いたようなハッピーエンドみたいな話が好きだと思ってたのに」
    「あー、そういうのも好きだぜ。王子様と結ばれる結末に改変された映画なんかもあるらしかったし。でも……なぁ、最初にオーナーのところで絵本を読ませてもらった後、俺は聞いたよな。何故自分が王子様を助けたことを伝えなかったのか」
    「そんなこと言ってましたね」
    「人間にだって言葉を話せないやつはいる。方法なんていくらでもあったのに最後まで言わなかった理由。これは俺なりの答えだが」

    人間になったからとか、本当の意味で王子を愛しただとか、ルーシーが言っていたようなことが続く気がしていたが、俺に届いたのは、人工音声で読み上げただけみたいな温度のない言葉だった。




    「────人間にはなれないってわかったからじゃねぇか?」




    一瞬息が止まった気がした。
    しんとした水面をパイセンの尾鰭が叩いて、弾かれるように呼吸が再開する。

    「なんでそんなことを思ったんすか?」
    「なんだか人魚姫ってやつは、俺に似てるなって思ったんだよ」
    「うわ、ヒロイン気取りすか」
    「茶化すんじゃねぇよ……」

    茶化されててくれよ。
    次にこいつが何を言うのか、もう想像がつく。

    「人の定義ってなんだと思う?」
    「……それは」

    物語に準ずるのなら、死なない魂とやらを持っているのが人間。
    前にルーシーに言ったことだ。
    それをそのまま言えればいいのに、俺はこいつにだけは言ってはいけない気がした。
    俺が言葉を詰まらせると、パイセンは言った。

    「俺は“権利”を得られることだと思ってる」
    「“権利”?」
    「ああ」

    ルーシーが“情”を入れた枠に、こいつは“権利”なんて言葉を持ってきた。
    そんな堅苦しい単語を使えたのか、あんたは。

    「……それって人魚姫に関係あります?」

    権利、真面目にその言葉を考えたことなんてなかったが、それを持たない存在なんているのか?
    人権という単語を使うなら、生まれたばかりの赤子にだって与えられている。
    人間だろうが人魚だろうが、存在している以上は、相応の権利とやらを持っていると思うが。

    「“権利”ってやつは、対等を許してもらえる事だと俺は思うんだ」
    「その例えだったら人魚姫は持ってるんじゃないすか、“権利”ってやつを。海の底ではお姫様、陸の上でも王子の客扱いでしょ」
    「そうか?俺にはそうは思えない。人魚姫って結構都合よく扱われてるだろ。人間の世界に興味だけを惹かせておいて、憧れたら咎められて、ずっとここにいなさいって言われて。王子に愛されるなんて普通に考えたら難しいってわかりそうなもんなのに上手い言葉で声を奪われてる。足を手に入れてからもそうだ。綺麗な見た目と綺麗な足をもった女の子。会話ができない、何も知らない、帰る場所もない。それでいて王子様に愛されないと死ぬっていう条件がついてる。王子様に好かれるように振る舞って、痛い足を我慢してでも笑ってなきゃならなかった。終いには本当に好きな人が手に入らないから代わりに花嫁に選んでもいいなんて、結構酷い話だろ。人魚姫って、最初から“人”魚でも“人”間なかったんじゃないか」

    ……こいつが話してるのは、人魚姫の話か? 
    既に気付いてしまっているが、俺はまだ、こいつの言葉を大人しく聞いていてやる。

    「王子にとって人魚姫は、従順な所有物みたいなもんだったんじゃないかと俺は思う。確かに人魚姫は王子様を助けたが、それはお姫様も同じだった気がするんだよ。お姫様が来なかったら、王子様は死んでいたかもしれないだろ。人魚姫には人間の介抱の仕方なんてわかんなかったわけだから。人魚姫が仮に伝えていても、意味なんてなかった。王子様にとってはどっちも助けてくれた存在ではあるが、“人間”なのは、お姫様だった。王子にとっての“人間”にはなれないって、同じ生き物にはなれないんだって、その“権利”がないことを、王子様と並んでいるお姫様を見たときに気付いて、それで言えなかった」
    「だったら、刺せば良かったのに。そんな奴」
    「刺したところで、人魚に戻ったところで、同じ日々に戻るだけだろ。しかも1番価値のあった歌声を失ってる状態で。だったらもう、どうしようもなかったんじゃねぇかな。15歳の人魚姫が300年生きるとして、残り285年。そんな長い時間を、これから生きていられるのか?もう王子様がいないのに」
    「……」
    「…………あとはまぁ、“愛”ってやつじゃねぇかな!人魚姫が王子様を好きだったの間違いないし、陸の上でしか見れないもんも見せてもらったし!な?」

    急に声をいつものトーンに戻すなよ。
    何が愛だ、適当なこと言いやがって。

    「随分、自分の話みたいに言うんすね」

    みたい、じゃない。
    実際そうだ、人魚姫の視点を騙りながらこいつは自分の話をしている。
    自分の話なんて殆どしてくれたことがないくせに、このタイミングで俺に言うのか。
    自分の価値が無意味みたいな話を、よりによって俺に言うのかよ。

    「……ま、他人事じゃねぇ部分あるからな」
    「自分に“権利”とやらがないと思ってます?」
    「いや?新エリー都の市民権はあるぜ。他にも運転免許証、邪兎屋の社員証、スターライトナイトファンクラブのプラチナランク会員証。機械人保護協会にも一応登録してあるし、それから……」
    「パイセン」
    「…………お前も、茶化されてはくれねぇんだな」

    強く呼んだら、困ったように笑われてしまった。
    パイセンは遠くを見たまま、俺を見ないままで、普通の世間話をするような声で言う。
    沈黙が生まれないように時折尾鰭で水面を揺らす音を混ぜながら。
    尾鰭が掻き回した水に空気が混ざって、小さい泡を踊らせている。

    「法に従った話をするんなら、知能構造体にも一定の人権は定められている。知能構造体って結局のところ人工的に作られた都合のいい存在で、博愛主義者みたいな奴らは同じ命ですみたいなことを掲げるけど、その同じであるはずの命の優先順位は低い。仮に、人間、シリオン、知能構造体が同時に危機に陥っていた場合、最初に切り捨てられるのは知能構造体だ。でもそれに対して不満を持つ奴なんてほぼいない、というか不満を持つ奴なんてほぼいないと思われてる。人間側が望めば喜んで自らを差し出す……そのくらいには思われてるし、そうであれと望まれていて、こっちに対して全部決定権がある気でいる。知能構造体ってそのくらいのもんなんだよ」
    「そんなことないでしょうよ。あんたはいろんな奴に大事にされてる。俺だってそんなこと思っちゃいない」
    「知ってる。それは充分わかってんだ。俺はきっと、めちゃくちゃ恵まれた知能構造体だってこと、充分わかってる。みんな優しいからな。お前らも、親分達も、店長達も、オーナーも、六分街の連中も、俺に優しい。きっと俺は上手いこと“人間”をやれているんだと思う。わかってるけど……なんだろうな、どうにも、地に足が着いてないみたいな、何かが足りない気がするんだよ。その足りないものがなんなのか、人魚姫を読んでわかった」
    「なんすか」
    「死なない魂ってやつが、俺にはないからなんじゃないか?」

    ああ、言われてしまった。
    俺が言うのを躊躇った、死なない魂という言葉。
    なんでルーシーには容易く言えてパイセンには言えなかったのか。
    こいつが、300年生きられる側の存在だからだ。
    泡になって何も残らないという虚しさを、こいつに当てはめたくなかったんだ、俺は。

    「はぁ……」
    「ライト?」
    「……その魂をってやつが実際にあると思ったんすか?」
    「だってそりゃあ、有るから、ああいう葬儀になるんだろ?」
    「葬儀」

    その意見は、ある種的を射ている。
    ルーシーも言っていたが、曖昧なものの有無を証明するのは難しい。
    だから“情”というものと結びつけて人魚姫がとった行動から、“人間”になったという結論をだした。
    視覚的に認識できる葬儀という儀式をパイセンが根拠として挙げたのはわかりやすい。

    郊外での葬儀の話をするならば、炎を纏わせて限界まで愛機とともに駆けさせる葬送は清々しくて好きだった。
    死体や遺品を処分するだけならあちこちにあるホロウの中にでも放り込んでおけばいい。
    それをせずに貴重な燃料を使い、ああいった送り方をするのは、魂と言うやつの門出を示すためだ。
    オマエに続くぜ、と大将は祝詞のように言う。
    郊外で死んだときには、誰もがああやって送り出される。
    いつか灰から蘇る、夕陽の彼方で待ってて、それを言えるのは、確かに漠然とした魂の存在が有るからかもしれない。
    有ることを証明できる方法はなくとも、確かにそこに、魂ってやつはあるのだと思わせる。

    そういえば、パイセンはいつも不思議そうにそれを見ていたな。

    「あれを初めて目の当たりにしたとき、正直何やってんだろって思ってた。誰かが死んでも、死んだなぁくらいにしか俺には思えなくて。あれは何をしていたのか、やっとわかった。俺は同じ場所に続いてやれないことも」
    「……そんなことは」
    「知ってるか?都市だと思考のシステムが壊れて人間で言う死亡の状態になった知能構造体は、所有者登録をしている奴がいなかったら即工場に送られるんだぜ。そうやって解体されて仕分けされて再利用されて、そいつはどこにも居なくなるんだ。人間は死んだ後も“人間”のままだが、俺は壊れた瞬間から便利な鉄屑に戻る」
    「なんでそんな話」
    「なんだか、人魚が泡になって海に還るのと似てないか?」
    「詩人に転職でもしたらいいんじゃないっすか?」
    「お前なぁ」

    ゾッとした。
    これが機械人特有の思考なのか、こいつの見解なのかはわからない。
    俺の目にはこいつが人に見えるのに、こいつは自分の事を鉄屑の集まりだと思っているみたいだ。
    壊れた機械の再利用自体はよくある。
    資源の限られる郊外でなら尚更、使えるものは無駄なく使う。
    車も、バイクも、武器も。
    それらと同列にパイセンが自分を並べていることを本人の口から聞かされて、胸の奥がざわついた。

    「『人魚姫』を良い話だって思えたのは、羨ましいと思えたからだ。別に、残った体を好きに使われるのは嫌じゃない。何かの役に立つんなら好きに使えばいい。けど、俺が好きだったものとか大切にしていたものとかと、たくさん考えて生きてきた事とか、“人間”みたいにやってきたことが最後の最後全部無意味だったことの答え合わせをされるのが少し怖くてさ。泡になったあとの人魚姫みたいなもんになれたらいいなって思うんだよ」
    「……あんたは、“人間”になりたいんすか」
    「なりたいというよりは、なれたらわかる気がして」
    「何が?」
    「…………俺の、“王子様”ってやつのことを」

    “王子様”、その言葉。
    ルーシーにとって大将がそうであったように、パイセンにとってもその位置にいるやつがいる。
    パイセンは自分の事を人魚に似ているではなく人魚姫に似ているといった。
    パイセンにとっての“王子様”がいて、そいつに“人間”にして貰いたいと思っている。

    「へぇ、それって誰なんすか」

    俺はそれを、ニコ・デマラなんじゃないかと思っていた。
    だったら笑い飛ばしてやれる。
    あの女はパイセンのことを“人間”にしてやれると思えたし、そんな呪いみたいな認識を解いてやれるだろう。

    「……」

    尾鰭の動きが止まって、漂っていた泡が消えていく。
    全部消えて水面が静かになったとき、こいつは言った。
    自分に言い聞かせるみたいに。




    「俺の“王子様”は、もういない。だから、もうどうにもならねぇんだ」




    人魚姫は、“人魚姫”が“王子様”をきっかけに“人間”になるために全てを捨てていく物語だ。
    それに該当する人物は2人いる。
    まずはルーシー。
    ルーシーにとっての海の底は都市で、郊外こそ陸の上だ。
    大将という“王子様”に出会って、恵まれた生まれも環境も全部捨ててきた。
    次にパイセンだ。
    パイセンにとっては郊外こそが海の底で、都市が陸の上。
    だから都市にいるニコ・デマラこそパイセンにとっての“王子様”なのだと。

    しかし、もういない。
    その言葉が意味する事は。

    「“人間”になりたいとか、そういう話じゃなくて、もうなれないんだよな。だって、“人間”になる前に“王子様”が死んでるから」
    「それって」
    「俺にとっての“王子様”は、俺を買った、最初の持ち主だ」

    こいつにとっての“王子様”は、こいつに名前と居場所と戦う理由を与えた、最初の所有者。
    もうこの世にはいないその人物の事を、俺は知らない。
    知らないからこそ考えられなかった。
    話の前提が変わってくるから。
    人魚姫の物語を知ったのは最近のことで、現状を物語の最中に当てはめて考えていたところがある。
    パイセンが郊外を去るときに告げた理由は“自由が欲しいから”だった。
    そんな曖昧なもんのために全部捨てていくのかこいつはって当時は思っていたが、人魚姫の話を聞いたときに納得できたところがあった。
    人魚姫が人間になりたがった理由に近しいものならと、少しこいつの事を理解できた気すらした。
    実際は違う。
    既にこいつの人魚姫の物語は終わっていたんだ。
    俺と出会うより前に、それこそカリュドーンの子が始まるよりも前に、終わっていた。

    こいつにとっては海の底だろうが陸の上だろうが、郊外だろうが都市だろうが変わらない。
    全部最初から“陸の上”だったんだから。
    今は“王子様”を失ってからの285年の中にいる。
    残った285年の中を、自由を求めるなんて適当な理由で彷徨っている。
    そして、“王子様”がもういないから、“人間”にはなれないという結論を人魚姫の物語から得てしまった。

    そいつに対して持ち主という言葉を使ったのは意図的だ。
    そいつにとってパイセンは、所有物だったんじゃないか。
    少なくともパイセンはそう感じていて、“人間”にはなれなかったという結論をだしたのだ。
    対等を許される“権利”を、貰えなかった。

    「……つまり、パイセンはそいつにとって所持品みたいなもんだったって?」
    「別に酷い扱いを受けていたとかそんなんじゃない。ちゃんと大事にはされてた。あいつの為に戦ってやるのは悪くなかった。でも、あいつにとって俺は“人魚姫”で、最期のあの時まで、“人間”には成れなかったなぁ」

    後悔とか哀愁とかいろいろなものが混ざった“人間”みたいな声で言う。
    そんな声が出せるのか、こいつは。

    「本当は、あいつに着いて行きたかったんだ。違うな、連れて行ってほしかったのか。でも俺はもう置いていかれちまったからさ」
    「……」
    「あー、そっか、そういうことか、やっとわかった」
    「…………何が」

    聞きたくない。

    「俺はあの時泡になりそこなっちまったんだ」
    「……ッ!!」

    反射的にこいつの肩を掴んでいた。
    俺の方を向けさせたくて力を入れると、俺の力が強かったのか、こいつがされるがままだったのか、パイセンの身体は簡単に倒れてしまった。
    陸地に寝転ぶ上半身と、水に浸かっている下半身が、俺達の今の状態を現しているようだ。
    俺は引き上げてやる事も水に落とす事もできないまま、ただ逃げないでいてくれるように体の左右に手をついて、覆いかぶさるように閉じ込めている。
    見下ろしたこいつの姿は昔と変わらないはずなのに、なんだか小さく見えたし、弱くも見えた。
    俺はあの背中とか絶対的な強さとかに焦がれていたはずなのに、腹の奥が疼くような衝動が渦巻く。
    水が側にあるとは思えないくらい、喉が乾くようだった。

    「……、は、」
    「ライト?」
    「あんたは、」

    何を言うべきなのかわからない。
    何を言ってやれるのかも。
    ただこいつが今度こそ本当に手の届かない場所に、それこそ泡になった人魚姫を海から掬いあげるくらい不可能な場所に、“王子様”を追いかけて行ってしまいそうで。
    “泡”になってしまいそうで。
    それを嫌だと言いたいのに、こいつを納得させられる言い方が浮かばない。
    俺には、大将みたいに真っ向から伝えることも、ルーシーみたいに上手に諭すことも、バーニスみたいに勢いで引き込むことも、パイパーみたいに達観して受け入れてやることもできない。
    俺にできることは子供みたいに拗ねて不機嫌な顔を見せるくらいで、それをしたらどうしたんだよって笑って聞いてくれることだけはわかってる。
    今は、それじゃない。

    俺は、こいつが欲しくて堪らない。
    俺を“人間”にしたのは、間違いなくこいつだった。
    ルーシーの言うように“情”が人の定義になるのなら、この欲“情”は俺を“人”にしている。
    “権利”ってやつがこいつの言うままの意味なら、俺もそれが欲しいのに、手に入れる方法がわからなくてもどかしい。
    こいつが人間の体をしていたのならわかりやすい方法で手に入れてしまえたのか。

    「パイセン、俺、」

    体をもう少しだけ近付けてみようとしたとき、遮るように首に巻いていた赤いマフラーが緩まって、半分がパイセンの首元の落ちた。
    首に掛かった赤はやっぱり似合うと思ったし、相応しい。
    これはあんたを繋ぎ止めておくには至らなかったのか?
    俺が大事にしているこれは、こいつにとっての“権利”には成り得なかったのか?
    口にはしなかったその問に応えるように、パイセンは自分の首に落ちてきた赤いマフラーの半分を水掻きのある手で持ち上げて、俺の首に掛け直す。
    俺の首に巻かれた赤を満足そうに見ては、昔これを託したときと同じ顔で笑うのだ。

    「うん、それはやっぱ、“人間”のお前に似合ってる」

    なんだか突き放された気がした。
    こいつの顔に反射している俺の顔はなんだかとても惨めだ。
    パイセンはそんな俺のことなんて気にせずに続ける。

    「あー、よかった。お前に話せて。少し整理がついた。ありがとよ」
    「……なんすかその礼は」
    「お前が居てくれて良かったなってことだよ。だから、もし俺が壊れることがあったらお前にやる」
    「はぁ?」

    今なんて言ったこいつ。

    「だから、この先俺が壊れた時には」
    「縁起でもないこと言わないでもらっていいすか」
    「いや、保険だよ保険。俺も結構危険な仕事したりするからさ、万が一に備えてさ。勝手に知らないところで使われるくらいならお前がいいんだ。今度時間あるとき治安局付き合ってくれよ。所有者登録しにくから」
    「……」

    知能構造体的にはそこまで重い話じゃないんだろうが、俺としては焦がれる相手にこんな方法で自分を渡してほしくない。
    パイセンは俺の気なんて知らずにすぐ終わるだの身分証だけあればいいだのともう普段と同じになった声で言ってくる。
    その口を黙らせたいくて塞ぎたいのに、それをしたところで人間のものとは違う発声機能は遮れない。

    「はぁ……」

    ……ああ、こいつは本当に。
    俺はパイセンを閉じ込めておきたかった手を退ける。
    いきなり俺が退いたから、不思議そうな顔でこっちを見てくる。

    「ライト?」
    「……喉、乾いたんで。廊下に自販機あったんで何か買ってきます。パイセンは?」
    「いいのか?えーっと、じゃあコーヒーがいい!今、スターライトナイトとのコラボ缶があってな?それで付いてるシールを5枚集めると」
    「はーいはい、わかりましたよ、大人しく待っててください」




    パイセンを残して俺は一旦Cプールを出た。
    ここまで来る途中の廊下に自販機があったのは見ていたから、入口まで引き返すように自販機まで歩いていく。
    来るときはパシャパシャという水の音を頼りに歩いてきたが、今は何も聞こえない。
    カツン、カツン、という俺の足音だけが響いている。

    「……そういや、戻ってこないな」

    スマホを出して時間を確認する。
    そこそこ時間は経っているはずなのにオーナーは未だ戻ってこない。
    オーナーが戻ってこない限りはパイセンを連れ帰ることもできないし、俺も帰れない。
    ここから六分街のTURBOまでの距離を考えると、とっくに戻ってきていても良い頃合いだと思ったんだが、何かあったのか。
    パイセンのスマホに番号が入っているらしいから、戻ったらそれで一回連絡してみるか。

    ピコン、とメッセージの受信音がした。
    見てみると、送り主はルーシー。
    珍しいな、こんな時間に起きているなんて。

    『ビリーの様子はどうでした?』

    そんな短い文面が入っている。
    メッセージを送り返しても良かったが、向こうが起きてるなら電話してしまったほうが早いか。
    アイコンを触って発信を押すと、1コールも鳴らないうちに通話中に画面が変わる。

    「もしもし。珍しいなお嬢様、肌に悪いんじゃないか?」
    『ぶっ飛ばしますわよ。人が心配して連絡してみれば……!』
    「あー悪かったよ。あんたもパイセンの様子が気になったのか?」
    『……ええ。人魚に興味を持たない女の子はいませんわよ?』
    「そうか。パイセンは楽しそうに泳いでたぞ。TURBOのオーナーは侮れん」
    『流石エンゾウおじさまですわね。私のバイクも1度見てもらおうかしら』
    「ああ、そうしたらいい。で、要件は?」

    パイセンの様子が知りたいだけなら俺が帰ってからにすればいい。
    何か大事な要件があるんだろう。
    恐らく、人魚姫絡みの。
    ルーシーが話しだしたのは、俺が都市に向けて出発した後のことだ。

    『あなたが行ったあと、シーザーと人魚姫の話になりましたの。まぁ案の定号泣でしたわよ』
    「だろうな。それで大将はなんて?」
    『人魚姫が可哀想だ!って』

    少女漫画が好きな大将のことだ。
    やっぱり人魚姫の叶わなかった恋に感情移入して聞いたんだろう。
    俺も難しいことは考えずにそんな感想を持ちたかったもんだ。

    『それで私聞きましたの。あなたが人魚姫だったとしたらどうしました?って。なんて言ったと思います?』
    「大将の場合か……」

    ルーシーの声は嬉しそうで、それを聞いた感じでは相当面白い回答が聞けたんだろう。

    「そうだな……お姫様と決闘して王子を勝ち取ったとかか?」
    『ふふっ!あなたがそんな面白いことを言うとは思いませんでしたわ!違いますわよ』
    「まぁ冗談だ。で、正解は?」
    『人魚のままで王子に会う、と』
    「……へぇ」
    『人魚のままで王子に好きになって貰えるように頑張る、と』

    王子が目覚めるまで待っていたら良かったんじゃないか、最初に人魚姫を読んだときに俺もそんなことを言った。
    ルーシーは大将が言った言葉を俺にそのまま伝える。




    『解釈とか教訓とか美徳とか魂とか人間になったとかならなかったとかゴチャゴチャ言ってっけど、そんな難しいハナシなんて最初から要らねぇだろ。人魚姫は王子様に恋をした。それがこの物語の一番大事な部分だろ?それならまず、魔女の薬に頼る前にそれを伝えるとこから始めるべきだったんじゃねぇか?こいつらは生きてきた世界が違うんだ。片方の価値観に合わせて全部決めるなんてできるわけない。本当の自分を誤魔化して好きになってもらったって意味ないだろ?陸にも海にも綺麗なもんがたくさんあってさぁ、そういうのを話すところから始めてみればよかったんじゃないのか?死んだ後のことを考えるより、大事なのは今だって思うから。それに人魚ってやつは300年も生きるんだろ?とりあえず王子が爺さんになるまで一緒にいたらいいんじゃないか?』




    元の物語なんて残ってないような筋書き。
    たしかに、それを聞いたルーシーは笑うだろうな。
    俺も笑ってしまっている。
    これを聞かせたら、きっとパイセンも笑うだろう。

    「……大将は、救うのが上手いな」
    『私の“王子様”ですもの。当然ですわ』
    「そうか。わかった、パイセンにも」

    伝えておく、そう続けようとしたとき、スマホの向こうからドタバタとした騒がしい音が聞こえてきた。
    なんでこの時間に全員起きてるんだ?
    スマホから聞こえてくる声が一気に4人分になる。

    『!?ルーシーには王子様がいるのか!?』
    『何それ恋のお話〜!?』
    『ほぉ〜、こいつも気になるぜぃ、誰なんだぁ?』
    『は!?別にそんなんじゃ……!!』

    これは面白い勘違いが発生してるな。
    王子様なんて言葉を使ったらそりゃあ食いつくよな……ルーシーも素直に“王子様”を話すとは思えん。
    よかった、現場にいなくて。

    「お嬢様、取り込み中みたいだな。切るぞ」
    『ですから!そんなんじゃ……!あーはいはい、わかりましたわよ!ビリーによろしくお伝えくださいまし!では!』

    通話が終わる。
    この話がどうまとまったのかは帰ってから聞いてみるとして……俺のすべきことは、パイセンに言うべきことの糸口が見えた。
    ルーシーと大将には感謝だな。

    「……さて」

    目の前には自販機。
    自分の分とパイセンの分のコーヒーを買ってから戻ろう。
    パイセンの言ってたスターライトナイトのコラボ缶になっているやつがある。
    俺はそのボタンを押そうと手を伸ばした────が、ボタンに指先が触れた瞬間、視界が真っ暗になった。

    「は……?」

    停電か?
    条件反射的に敵襲を警戒したが、人の気配はない。
    スマホのライトで周囲を照らせば移動はできる。
    配電室にでも行ってみれば原因がわかるか?
    まぁそれより先にパイセンだな。
    廊下だけが消えている、ってことはないだろう。
    プールの中も真っ暗になっているに違いない。

    「パイセンー、聞こえますー?」

    Cプールの方面に向かって声を張ってみるが返事はなかった。
    パイセンの聴覚なら聞こえているはずなんだが、水の中にでもいるのか。
    何にせよ、一旦戻った方が良い気がする。
    俺は自販機から引き返してCプールまで戻ることにした。




    Cプールの扉で戻って中に入ると、俺の想像していなかった空間が広がっていた。
    俺はてっきりここも真っ暗かと思っていたがそんなことはなく、むしろ廊下より明るい。
    明照がある時は気付かなかったが、この部屋の天井はガラス張りで、そこから月とか星とかの灯りが差し込んでいるようだった。
    それがプールの水に反射して水面が星空みたいになっている。
    見える星の数は郊外で見られるものとは比べ物にならないが、それでも目の前にある幻想的な光景を、綺麗だと思えた。
    同じものを見ているつもりで、俺はパイセンを呼ぶ。

    「すごいっすねパイセン……パイセン?」

    返事がない?
    水の中にいるのかと思ったが、泳いでいるのなら相応に水面が揺らいでいるはずだ。
    プールの周囲が濡れているわけでもなく、水から上がった様子もない。
    そもそも脚が無い今、上がったところで自由に動けないはずだ。
    ならば水の中にいるのか?

    「パイセン、おい」

    水の中に居るのか、本当に?
    心臓が嫌な音を立てる。

    もういない“王子様”、持っていない魂、“人間”にはなれなかった結論。
    恋が叶わなかった“人魚姫”は泡になって……その文面が過ぎって血の気が引く。

    「ッ、パイセン!!」

    マフラーと上着を脱ぎ捨てて、俺はプールに飛び込んでいた。
    全身を包む水の感触、一気に重くなる服、自由の聞かない四肢。
    加えてこんなに深い水には入ったことがない。
    反射的に水面に上がろうと体が動いたが、すぐに切り替えて下へと沈む。
    砂嵐の中に匹敵するくらいに悪い視界であたりを見ると、少し鋭利な黒い何かが……人魚の尾鰭の先が底の方に落ちているのが見える。

    「……!……ッ!」

    呼ぼうとしてゴボリと口から空気が漏れた。
    当たり前だ、水中で声は出ない。
    泳いだ経験なんてまともになかったが、必死だったのか思っていたよりもまっすぐに向かっていけた。
    徐々に人魚のシルエットが見えてくる。
    目の光が消えていて、意識がないことはわかった。
    俺の身長の3倍くらいは余裕であるだろう深いところまでなんとか泳いで手を伸ばすと、硬い腕になんとか届く。
    引き寄せようと引っ張ると、逆に俺が引っ張られてしまった。
    相手は金属の塊だ、しかも意識がない。
    俺の力では、人の力では上げきれない!

    冷静に考えたら1度上がって牽引できるものを持ってくるとか、人を呼ぶだとかすれば良かったんだろうが、こいつから手を離すという選択肢は俺にはなかった。
    俺は力の入り切らない腕で、パイセンの体を叩く。
    トントン、トントン、と鈍い音と感触が伝わってくる。
    反応は無い。

    「……っ、……!」

    ゴッ!!と陸上だったら凹ませているくらいの力で強く殴りつけた。
    その拍子にゴボリと口から一気に空気が出ていって息が続かなくなる。
    マズい、溺れる!
    脳裏に死がチラついた瞬間、腕を強く掴まれたのがわかった。
    目の前には、光の戻った黄色い目。

    「お な やっ んだ!?」

    ごぼぼぼぼぼ、と吸気モジュールから漏れ出る空気と合わせて声がした。
    こいつ水中で話せんのかよ。
    痛いくらいに強く引かれる腕、一気に上昇する体。
    意識が飛びそうになったが、その前に勢いよく水面から頭が出た。

    「っ、ぶは……ッ!!」

    肺に空気を取り込んでから俺を掴んでいるパイセンを見ると、信じられないようなもんを見るような顔をしている。

    「お前なにやってんだ!?」
    「それは俺の台詞だ……!っ、はぁ、何やってんすかあんたは……!」
    「何って……」
    「あんな沈み方されてたら驚くでしょうよ、普通……」
    「……あ、あ〜……それは、悪かったな……」

    自覚はあるのか。
    パイセンは焦った顔から申し訳なさそうな顔に変わって、何故こんなことになっていたのかを話しだした。

    「お前がコーヒー買いに行ったあと泳いでたんだけど、変に体捻ったら脚攣ってよ……」
    「機械人も体攣るんすか?」
    「ああ。人工でも筋肉は筋肉だからな。泳ぐのって普段使わねぇ筋肉動かすだろ?で、脚攣って動けなくなったから、直すのに再起動掛けたんだよ……」
    「俺はその再起動の最中に戻ってきたってことっすね」

    なんだそりゃ……俺が勝手に焦ってただけか。
    それで安心したかったが、拭いきれない不安は残る。
    壊れたらとか縁起でもないことを言ってきたからだ。
    そんな俺の気なんてこいつは知らない。

    「びっくりしたぜ、ゴンゴン叩かれてんなと思ったら目の前でお前溺れそうになってるし……ここシリオン用で水深6メートルくらいあるのによく来れたな?お前、泳げたのか!」
    「泳げねぇよ……必死だったんすよ……」
    「そっかぁ……」

    何笑ってんだこいつ。
    全然笑い事じゃないんだが。

    「なんすかその顔は」
    「いや……なんか、お前のほうが人魚姫みたいだったなぁって思ってよ」
    「はぁ……?」
    「そのくらい必死に俺を助けてくれたのが嬉しかったんだよ」

    ……そうだ、この状況から言えば、パイセンにとって俺が“人魚姫”の位置にいる。
    海に投げ出された王子を助けるその役。
    パイセンは深い意味なんてなくそんな事を言ったんだろうが、ストンと、何を聞いても僅かに残っていた腑に落ちなさが落ちた、ような気がした。

    「パイセン」
    「なんだよ」
    「それならあんたが“王子様”ってことになりますけど、それについてはどう思うんです?」
    「え?」

    “王子様”は、“人間”だ。。
    その単語が自分に向けられるとは思ってなかったんだろう。
    俺も、思っているだけで言わなかった。
    大将の言ったとおり、悩むより先に言ってやるべきだったんだ。

    「あんたにとっての“王子様”のことはわかりましたけど、俺が“人魚姫”だったなら、俺にとっての“王子様”は、あんたなんすよ。ずっと前から」

    少女漫画でも見ないくらいの台詞になっている自覚はあって、笑われるかとも思ったが、パイセンは不意を突かれたようなきょとんした顔をして、首を傾げた。

    「……えっと、お前の言ってること、よくわかんねぇけど……?」
    「あんたは自分を“人魚姫”だと決めてるみたいだが、俺から見たら“王子様”の位置にいる。だから聞きたい。あんたは“人魚姫”と“王子様”、自分にとってどっちの方が良いと思ってます?」
    「それって、俺が決めれるもんなのか?どう考えても人魚側の俺が」

    物語の主人公は人魚姫。
    誰もがきっと人魚姫に何かを重ねて物語を読むんだろうが、誰もが“人魚姫”にも“王子様”にもなり得る。
    ルーシーが“王子様”の大将に“人魚姫”側の意見を聞いたように。
    断言してしまえるのは人魚と人間っていう種族の違いだけだ。
    人間が作った物語故に人間を基準に据えてはいるが、突き詰めれば誰もが“人間”であって“人間”じゃない部分がある。
    人間でも人魚でも、機械人だって等しく。

    「確かにあんたは普通の人間じゃないかもしれない。体は気軽に換装できるし、水中で会話はできるし、何よりクソ重い。寿命もメンテナンス次第じゃ俺の何倍かは長いかもしれないが、それだけの話で、俺から見れば誰よりも“人間”だ。人魚側とかそんなもん考える必要、最初からなかったんすよ。それなら自分の好きなように決めちゃったほうがいいんじゃないすか?物語ってそういうもんでしょ」
    「……お前ってそんな想像力豊かなタイプだったっけ?」
    「多少なりとも影響はされたと思いますよ」

    “人魚姫”達に。

    「それで?」
    「俺は…………お、お前だったら選べるのかよ!」
    「あんたが選ばなかった方っすね」
    「は!?」
    「あんたが“王子様”をやりたいなら俺が“人魚姫”をやってもかまわない。まぁ都合良く使われるつもりはないし、潔く身は引かないな。隣の国のお姫様とあんたを掛けて決闘してやってもいい」
    「いねーよそんな熱血漫画みたいな人魚姫!ちなみに逆なら?」
    「逆なら……“王子様”が埋まってるなら、そうだな……ナイフあるじゃないすか。人魚に戻れる魔法のナイフ。俺があんたの“ナイフ”をやってもいい。あんたが刺せないっていうなら俺が刺す」
    「お前、王子様殺そうとしてる?」
    「まさか。刺されたくらいじゃ死なないっすよ。人魚に戻れる程度の血だけ貰えばいい。大事にしてたやつにいきなり消えられるくらいならそのくらい平気でしょ」
    「……お前が言うと説得力あるんだよな。それにどっちを選んでも一筋縄じゃいかねぇだろ!」

    そんなおかしな応酬をしていたが、一息途切れた時、スイッチを切り替えるようにパイセンは真剣な顔になる。
    結論を出したんだろう。

    「……けど、やっぱ俺は“人魚姫”だと思う」

    所詮は架空の、空想の話だ。
    そこまで深く考えなくたっていい、後で選択を変えてもいい、もしくは両方の良いところを都合良く取ってもいい。
    だが俺はなんとなくパイセンがその答えを出す気がしていた。
    ふざけているようで根は真面目な機械人は、きっと元の物語を大将みたいには壊せないから。
    自分にとっての“王子様”を忘れられないから。
    死なない魂とやらを信じていたいから。

    「悪いな、ライト」

    別に謝る必要なんてなのに、申し訳なさそうに俺を呼んだ。
    俺がまた拗ねるとでも思ったのか。
    大丈夫、わかってる、だからちゃんと俺も答えを用意してある。
    パイセンが選ばなかった方なんて答えじゃない、俺の。

    「いいっすよ、俺としては“人魚”でいてくれたほうが都合がいいんで」
    「なんでだ?」
    「条件的に」
    「……?」
    「あんたがまだ死なない魂ってやつに興味があるなら、それを得る条件は俺が満たしてやれる。そうすれば、“王子様”がいなくてもとりあえず泡にはならない」

    ……はぁ、よかった、この意味はすぐに伝わったらしい。
    人間の顔をしていたら恐らく真っ赤になっているんじゃないか、というような視線の泳がせ方をしている。

    「なぁ……その、勘違いだったら悪ぃんだけどよ、俺今めちゃくちゃ熱い告白されてたりする?」
    「そっすね」
    「ここは茶化しにこいよ……」

    パイセンは俺に顔を見られないようになのか、ただ純粋に触りたかっただけなのか、俺と同じ意図なのかはわからないが、周囲を確認してから掴んでいた俺の腕を控えめに引く。
    そうして俺の右肩に軽く顔を埋めて、今まで聞いた中で1番人間らしい声で言った。




    「…………なら俺、もうちょっと泡になるのは待ってる……」




    しばらくすると停電が解消されてオーナーが戻ってきた。
    どうやら電力管理施設でトラブルがあったらしく、そちらの手伝いに行っていたらしかった。
    だったら一言くらい連絡があっても良かったんじゃないかと思ったが、パイセンのスマホにはメッセージがちゃんと来ていて、俺達が気付かなかっただけだった。

    既読も付かないってことは上手く行ってんのかと思って、俺にだけ小声で言ってきた。
    それに関してはそうだといえばそうで、かと言ってどんな会話があったかなんて流石に恥ずかしくて言えない。
    だが俺とパイセンの様子を見て、流石人間歴が長いというだけある、大体のことを察したらしく、ニンマリとした顔で俺を見てきた。
    勘弁してほしい。

    照明の戻った空間でパイセンを人魚モジュールから元の人型に戻し、市民プールの建物を出たときには、外は明るくなりだしていた。
    こんな長時間居たのか。
    戻ったらすぐ寝るかとか、仮眠とってから戻るかとか、そんなことを考えていると、視界の端に、朝日が映る。
    パイセンは、朝になっちまったなぁ、なんて言いながら呑気にあくびをするみたいな動作をしていた。

    その朝日を浴びてパイセンが泡になることはなかったし、これからも、させない。

    海の底でも陸の上でも、“人魚姫”でも“王子様”でも、関係ない。
    俺はこの“情”と“権利”で、こいつの“人間”で在ればいい。


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