バナサみたいな文「大英帝国政府、情報大臣のジョン・マンドレイクを殺せ。期限は明日の午後六時までだ」
くだされた命令はいたってシンプルだった。
見知らぬ部屋に見知らぬ仮面の男。いつもどおり小僧に召喚されたと思ったらこれだ。
聞き間違いようもない命令を投げつけられたのち、すぐさま強制送還されそうになる。男の口から呪文が紡がれ、全身を引っ張られる感覚。
「待った! 明日はさすがに無理だ! 残り何時間ある? マンドレイクを侮らない方がいい。大体なんであいつを殺す必要がある? その変な仮面もなんだ?」
おれが早口にまくし立てると男は抑揚を殺した声で返答した。
「おまえはなにも知る必要がない。期限も延ばせない。明日の午後六時きっかりだ。それまでにマンドレイクを殺せないのであればおまえには相応の罰が待っている」
仮面で素顔を隠した魔術師はそれきりおれに口を挟む間も与えずに、強制的にロンドンの一画へとおれを送り込んだ。命令の内容以外はなにひとつわからないなんてことはそうめずらしいことでもないが(魔術師としてはわざわざ自分の身分をジンに明かさないのは当然のことだし、基本的には雑談もしない)、さすがに今回ばかりは事態についていけずおれも驚いていた。
ジョン・マンドレイク違いならありがたかったが、大英帝国政府で情報大臣を務めるジョン・マンドレイクなんておれもよく知るあの“ジョン・マンドレイク”以外にはいないし、これはまいったことになった。
おれはつい先日小僧に解放され、束の間の休みをもらったばかりのところだった。まったく、たまにの休みを邪魔されたと思ったら即刻暗殺命令を下されるなんてまるでツイてない。しかも相手はマンドレイクときてる。普通に考えりゃかなり手強い相手だ。やつの前に散って行った敵は多い(その敵を蹴散らしたのはこのおれでもあるから、強いのはやつなのかはたしておれなのか) 一週間は休みをもらえる予定だったのにどうやらそうも言っていられなくなったらしい。
なぜ今回の主人がおれを選んだのか。明白だ。おれならマンドレイクを殺すのが容易いと踏んだからだろう。にしても、おれと小僧は客観的に見てもさほど親密な関係ではないはずだし、小僧がおれを解放したタイミングで運良くたまたまおれを召喚したとは考えづらい。なにせ普段のおれはめったに休みなんか与えられず働かされてるからな。となると今度の主人は、小僧がおれを懇意にしていることを知っていて(こき使ってると言ってもいい)、小僧がおれを解放したタイミングを知っているやつなはずだ。仮面で顔を隠していたことや、おれとの接触を最低限に留めようとしてることから考えてもおれと面識のある人間か、あるいは一度くらいは見かけたことのある人間の可能性が高い。
外の景色は夜だった。夜間外出禁止令のせいでどこも店仕舞いが早く、今が宵の口なのか深夜なのか一目じゃわからない。おれにわかるのは期限まで二十四時間もないってことだけだ。
なんにせよ、おれの任務はおれを召喚したやつを特定することじゃない。命令どおりに動かなければ罰が待っているというなら、そりゃ当然そのとおりに動くしかない。
おれはクロウタドリに姿を変え、馴染み深いウェストミンスターの方角へと向かった。
⭐︎
ウェストミンスターの一角を守る見張りたちの定位置も、マンドレイク邸の造りも警備の配置も警報のセンサーがどこにあるのかもよーくわかってる。なにせおれがつい最近までいた場所なんだから。とはいえ、やつに召喚されていない今のおれは完全に部外者だ。
こりゃさすがに骨が折れるぞ、と思ったのも束の間、結論から言うとおれは自宅に帰るのとそう変わらない手軽さで屋敷内への侵入を果たした。
一階に入り、目立たぬよう小さな蜘蛛の姿で階段を上がっていく。階段を巡回しているインプがいるからそいつも上手くかわしつつ、おれはあっという間に小僧の寝室の前に辿りついた。あまりにもあっけない。決して警備が薄いわけじゃないが、手の内を知り尽くしているこのおれ相手にはなんの役にも立たない(小僧の名誉のために言っておいてやると、おれ以外にこの警備を突破するのはまず無理だ。普段ならおれもいるから余計に難しい。単に今回はおれがちょっとばかし優秀すぎたってだけの話だ)
おれは煙の姿で鍵穴から中へと侵入した。もう夜も更けているから眠っているかと思ったが、小僧はベッドの上で身体を起こして本を読んでいた。なになに、『召喚における言語の置換方』……あくびが出るほどつまらなさそうなタイトルだ。小僧は寝室周りにこそ警備を配置しているが、中への立ち入りは原則禁止していた(寝室の中にまで警備を置きたがらないのはなにも小僧に限った話じゃない)
さて。本来なら向こうがこちらに気付く前に済ませた方が当然いいわけだが、情けというか好奇心というか、小僧がおれのことを見てどんな反応をするのかかなり興味があった。「おれこそがおまえの死だ」とでも言っておどろおどろしい登場とともに現れてやるべきか? それともいたって普通に現れて、やつが真実に気付くまで様子を見るのでもいいかもしれない。うーむ、どっちも捨てがたい。
結局おれは普通に現れることにした。そっちの方が小僧の素の反応が見られると思ったからだ。ナサニエルはすっかりジョン・マンドレイクという魔術師らしい魔術師になったし、おれが現れたって一切顔色を変えずに警備を呼ぶかもしれない。そのときのために、おれは煙の姿のままなるべくやつに近付いた。警備を呼ばれても問題なく仕留められる位置だ。
そしてやつが読んでる本の中身もじゅうぶんにわかる距離になってから、おれはプトレマイオスの姿をとった。これなら一目瞭然、さすがのやつもおれだとすぐにわかるだろう。
小僧は真横に現れた闖入者に気付き、びくりとわかりやすく身体を跳ねさせて本を落とした。そして、闖入者がおれだと気付くや否や、驚愕の表情から怪訝な表情へと変わり、すぐに状況を悟ったのか表情をこわばらせた。その間、おそらく二秒程度の出来事だ。思いのほかやつが事態に気付くのが早かった。ま、それもそうか。
「……バーティミアス」
「よう、ナサニエル。おっと、妙な真似はするなよ」
おれが気さくに笑いかけてやつの肩に手を置くと、小僧はますます青ざめた。全身に力が入ったのが手のひらから伝わってくる。自分以外の人間に召喚されたおれが目の前にいるんだから当然の反応だろう。それが自分の家の寝室にこっそり侵入していたっていうんだ。まさかただ挨拶しに来たとは思うわけもない。
「……誰に召喚された?」
「答えられない」
小声で交わされるやり取り。おれはやつの肩から手を離さずにそう告げる(正確には「答えられない」というよりは「おれも知らない」というのが正しい。なにせおれは召喚されてすぐ命令を言いつけられ、その場所がどこで、相手が何者なのかまるでわからないまま送り出されたんだから。それを正直に言っちゃ格好がつかないのでおれはあえて意味深に答えたわけだ)
小僧は唇を舐めたり噛んだりしながら、忙しなく視線を動かして、指先も落ち着きなく本をなぞっている。今夜は涼しい夜だというのに、やつの額には脂汗が浮かんでいた。おれの隙をついて警備を呼ぶつもりなのかもしれないが、警備が駆けつけるよりおれがこいつの首を折る方が早いだろう。
「……ぼくを殺しに来たんだな」
「まあ、そうなるな」
「よりにもよっておまえだなんて」
真っ青な顔に脂汗を浮かべながら、小僧は自嘲気味に笑みをこぼした。それで緊張が切れたのか、自暴自棄のような、笑いを噛み殺すような、なんとも言えない笑い方で肩を揺らし始めた。あまりのショックに頭がおかしくなってしまったのかもしれない。そうしてひとしきり笑ったあとで、やつはふうと長く細いため息をついた。
「その命令の期限はいつまでだ?」
「明日の午後六時」
「まだ猶予があるな」
「おれは仕事が早い方だ」
「抵抗はしない。ぼくはもうすでに詰んでる状況なんだ、最期に話すくらい別にいいだろう。おまえだって、さっさと殺す気だったならもう殺してるはずだ」
おれは肩をすくめた。小僧の言うとおり、こいつはもう詰んでるし、時間を稼いだところでどうにかなる状況でもない。殺す気だったらとっくに殺してるというのも当たってる。標的がこいつでなかったなら、おれはとうに仕事を済ませて次の召喚を待っていたはずだ。ましてや寝室に忍び込んだこの絶好のチャンスを他愛のないおしゃべりなんかで棒に振るはずがない。
何度かの深呼吸のあと、小僧はいつもの落ち着きを取り戻して唇を開いた。
「おまえの現主人は男か?」
「ああ」
「若い男か? 背丈は?」
「訊いたって無駄だ」
「明日の午後六時までにおまえの主人の正体を突き止める」
おれは大笑いしないよう声を押し殺すのが大変だった。これまでは小声でのやり取りだったからよかったものを、さすがにマンドレイクの寝室から休暇中であるはずのおれの声が聞こえてきたら警備が来るだろう。
やつの肩に両手を置き、何度かなで下ろす。ユーモアのかけらもないくせにずいぶん面白いジョークが言えるようになったもんだと、ひとしきり笑わせてもらった親しみの表れでもあった。笑いの波が引き切ってから、おれはぐっとやつの顔を覗き込んだ。
「ナサニエルおまえ、この状況から自分が明日の午後六時まで生きていられると思ってんのか? ずいぶん舐められたもんだな」
おれが両の手をやつの首にそえて力を込めるとナサニエルの口角が引き攣る。それでもやつはおれの目から視線をそらさなかった。
昔こんなことがあったなと、不意に廃図書館での出来事を懐かしくよみがえってきた。おれからしたらつい昨日の出来事みたいなもんだ。
「ぼくを殺したところでおまえは自由にはならない」
小僧は気丈な態度で言った。
「ほう、なんでそう思う?」
「ぼくが死ぬ前に必ずおまえを道連れにするからだ」
「おいおい、ずいぶんありふれた命乞いをするんだな! 今までに百回は聞いたことがあるぞ。マニュアルでもあるのか?」
「でも、ぼくのははったりじゃない」
「そうかい。で、どうやってそんなことをするっていうんだ?」
「親切に教えてやるとでも?」
「もう少しマシなことを言ってくれ」
「ひとつ言えるのは、ぼくに時間を与えたおまえのミスだってことだ」
「なにを言って」
「この時間にぼくがなにもせずおまえと喋ってただけだと本気で思ってるのか?」
「なんだと?」
小僧が勝ち誇った顔で笑った。見慣れたにやにやとした生意気な笑みだ。さっきまで自信満々だったおれも、なんだか嫌な予感がして居心地が悪くなる。こいつがこの笑い方をするときは本当にろくでもないことが起きるときだ。
「……なにかしたのか?」
「もちろん」
「いや、嘘だな。見苦しいぞマンドレイク」
「嘘だと思うなら殺せばいい。明日の今頃にはおまえはとっておきの銀の容器の中で成分を蝕まれてじわじわ死んでいくことになる。さて死にきるのにどれくらいかかるかな」
「脅そうったって無駄だ」
「じゃあさっさとやれよ。ぼくは必ずおまえを道連れにする。必ずだ」
小僧はふんと鼻を鳴らして目を閉じた。さっきまでの動揺が嘘のように堂々としている。もちろんこれははったりだ。こんな短時間でそんな小細工できるはずもない。
殺される前のやつがよく言う「おれを殺したら後悔するぞ」という類の脅し文句だ。今まで何百回と聞いた言い訳だかわからない。追い詰められたやつらというのは決まってそういうことを言う。
おれは手に力を込めようとした。
……いや、待て。
「この本か?」
おれは右手を小僧の首にかけたまま、左手でさっきまで小僧が見ていた本を手に取った。『召喚における言語の置換方』、呪文を唱える素振りはなかったし唯一なにかしらできそうなことと言えばこれくらいだ。この本でおれが気付かないうちに罠を仕込んだのか? それともあるいは後々おれに復讐させるつもりでパイパーに伝言でも残したのか……そんなまさか。
「さあ、どうかな?」
小僧は薄ら笑いを浮かべている。これから死ぬ人間とは思えない落ち着きっぷりだ。
「ちなみに訊くが、おまえはどうやって明日六時までにおれを召喚した人間を突き止める気なんだ? いや、できると思ってるわけじゃないぞ。ほんの好奇心だ」
「おまえは召喚した人間が男だと言った。これで容疑者はロンドンの全魔術師の五十五パーセントまで絞れる」
「なるほど。とんだバカの理屈だ」
「前におまえが言ってたことだけどな」
小僧は唇を舐め、「それに」と付け足した。
「ぼくがおまえを解放したまさにそのタイミングでわざわざおまえを召喚するような人間だ。確実にぼくの身近な人間が関わっている。もしおまえを召喚した人間が顔を隠していたなら……、これはほとんど確信に変わる話だ。どうだ、ちがうか?」
ぴんぽーん。おれは目を細めて眉を上げた。無論これらは契約違反には当たらない。おれが現主人から命令されたのは「明日の午後六時までにジョン・マンドレイクを殺せ」という命令だけで、「正体について喋るな」なんてひと言だって言われてないからだ。とはいえ、素直におれがこいつにヒントをくれてやる義理もない。
小僧の首に当てた手のひらから伝わるやつの脈拍はいたって落ち着いている。小僧はおれの反応を見て確証をしたのか、笑みを深くした。