キスの日 らくがき文 ノックの音に答えると、赤い頬をしたリサが神妙な顔をして部屋へと入ってきた。
「あらリサ。どうかしたんですか?」
「この前借りてた本読み終わったから、返しに来たんだ」
「わざわざ返しに来てくださるなんて、ありがとうございます」
出迎えたリイラに本を差し出しながら、瞳を伏せたリサの様子はなんだかぎこちない。
「どうしました? 何かありましたか?」
リサはぶんぶんと首を横に振る。
「なんでもない! 本、面白かったよ」
「まあ、それはよかった。好きなお話なので、そう言っていただけて嬉しいです」
「面白かったん……だけど……」
なんとも歯切れの悪い反応だ。不思議に思ったリイラは問いかける。
「ラブストーリーはあまりお得意ではございませんか?」
「そ、そんなことはないけど! ただ、ちょっと、普段あんまりこういうのは読まないから……慣れなくてむず痒いというか……」
「あら、そうなんです? 素敵ですよ、ラブストーリー。まるで自分が登場人物になったかのように心を重ねて、主人公と一緒になってドキドキしたり、苦しくなったり。心の機微を味わえますし。それに、日常では体験できないようなドラマティックな展開に浸ることだってできてしまいます。手に汗握るような波乱の展開も良いですけれど、恋愛小説でしか味わえない胸の高鳴りがあって、それが何よりも最高なんですよね」
「リイラは大好きなのね、そういう話」
「ええ!」
リイラは力一杯に頷く。
「特にこの本は、初めて読んだときから私の憧れなんです。この二人のような、過酷な宿命にも揺らがない、運命のような恋がしたいなって。ずっとずっと、憧れているんです」
「運命のような恋、ねえ……」
「ええ。特に私、二人がキスする最後のシーンが大好きなんです。時代に翻弄されてすれ違っていた二人の心が通い合って、再び重なるあの場面が。二人がやっと結ばれた喜びもそうなんですけれど、その愛が運命なんだと象徴するような、世界のすべてに祝福されながら交わす口づけがとってもロマンティックで……」
「キ、キス……!」
その単語を聞いた途端、リサは急にあたふたとしはじめた。身体をぎくしゃくとさせて、頬も再び赤みを帯びてくる。ああ、なるほど。その様子にピンときた。
「ええ、キスです。ロマンティックなキス。憧れちゃいますよね」
「そ、そうね……」
口では同意しつつも、リサは気まずそうに視線を泳がせる。ちぐはぐな反応はわかりやすく初心だ。その様子が微笑ましく感じられて、リイラは口元をゆるませた。同時に、もう少し突っついてやりたい悪戯心が芽生えてくる。
「リサにはありませんか? そういう経験」
「うえっ あ、あるわけないじゃないそんな……キス……とか……」
次第に語尾を小さくしながら、リサは唇をもごもごさせている。
「あら、レオさんが言ってましたよ。小さい時のリサはよくキスしてくれたーって」
「はあああ してないし! したとしてもほっぺ! ほっぺだもん! ノーカン! しかも、よくって言うほどやってないし……ていうかレオの奴、なんでそういう話をするのかな……まったく……」
「うふふふ」
「うふふ、じゃないわよ。人のことからかってるけど、そういうリイラはどうなわけ?」
自分だけ一方的にからかわれては堪らないと、リサは負けじとリイラへと反撃を試みる。
「私ですか? 頬や手に、親愛の意味を込めて。というのはありますけれど。本に書かれているようなものはまだですね」
「なんだ。ないんじゃない」
拍子抜けだというように肩をすくめるリサ。対してリイラは、ふわりと瞳を細めた。
「ええ、だからこそ、憧れなんです」
その時だった。コンコンと二回、ノックの音が聞こえてくる。答えて開いた扉から顔を出したのはディーナだった。
「にぎやかな声がきこえるなと思ったら、二人ともここにいたのね」
「あら、ディーナ。何かありましたか?」
ディーナは首を振る。
「気になって覗いてみただけ。特にはないよ。何を話していたの?」
「ふふ。恋バナ、ですよ」
「恋バナ」
楽しげなリイラに、きょとんとするディーナ。先ほどの話を思い出したリサは再び頬を染めてもじもじとしている。
「せっかくですからディーナの話も聞きたいです。キスのご経験は?」
「えっ、キス」
突然投げられたストレートな速球に、当然ながらディーナは戸惑う。そんな彼女を、床に置いたクッション掌で指し示し、おいでませとリイラは誘う。
彼女の誘いからは逃れられない、そう諦めたディーナは困ったようにはにかみつつ、厚みのあるクッションに腰をおろした。
「っていうか、何の話なのよ……」
「ですから、恋バナ、です」
「なんか、恋バナと言うには圧が強くない?」
「気のせいです。さあ、教えて下さい。私、ずっとディーナの話を聞きたかったんです」
ディーナの言葉通り、にこにことしたリイラからは有無を言わさぬ気迫が放たれていた。何かしら話をしない限り部屋から出ることは許されない。そんな圧が言外にひしと伝わってくる。
ディーナは小さくため息を付いて、それからきっぱりと答えた。
「期待させて申し訳ないけれど、残念ながら経験はございません」
「あら、ディーナもそうなんですね」
「そっかぁ」
意外、といった顔をして、少しだけ残念そうなリイラ。その横でリサはほっとしたように表情を弛めた。
「やっぱり、こういう生活をしながら小説みたいな恋愛をするのは難しいものなのですね」
「そもそも、あんまりそういう思考にならないってのもあるかなぁ」
「まあ、身近な人間にそういう対象がいないってものあるわよね」
「「確かに……」」
リサの言葉に声が揃う。
三人はそれぞれ仲間たちの顔を思い浮かべてみる。悪くはないが、良くもない。仲間として頼りにしているし、信頼もしているのだが、彼らと恋愛ができるかと思えば……正直首を傾げてしまう。
「でも、ディーナはここにくる前、ディルと一緒に住んでいたのですよね?」
「うん、まあ。そうだけれど」
「一つ屋根の下っていうのは、恋愛小説的には定番のシチュエーションではあるんですけれど……それに関して何かあったりしません?」
「えぇ……」
食い気味のリイラに圧されつつ、ディーナは少しだけ思考を巡らせる。時間にして数秒、答えはすぐに返ってきた。
「特にはないかなあ」
「そんな……本当に? 本当ですか?」
「うん、ごめん……」
男女二人、一つ屋根の下。何も起こらないはずがなく……。彼女達の前ではそのような定番は通用しないらしい。ドラマティックな展開はあくまで物語だからこそ。現実とはこんなものなのだろう。打ち砕かれたロマンを思って、リイラは沈痛に表情を歪める。
「なんというかディルは家族って感じなんだよね。放っておけない弟、みたいな……うまく言えないんだけど。そんな風に意識したことなくって」
「家族かあー、なんか分かるかも。あたしもレオとはずっと一緒にいるけど、今の関係が当たり前で他にどうとか、考えらんないもん。ときめく事とか一切ないし。あったら笑っちゃうわ」
「なるほど。あまりにも近しいと、それはもう家族になってしまうんですね。そう言われれば、仲間を恋愛の対象として考えられないというのも同じ理由だからかもしれませんね。納得です」
ふむふむとうなずくリイラ。小説のような展開が起こりえないことは残念だが、自分自身の経験に置き換えると理解はできる。
「今から誰かを恋の対象として考えろ、と言われても困ってしまいますよね」
「あの男たちにときめきを感じようってのも、厳しいものがあるわよねー」
「小説みたいなロマンティックなエスコートなんて誰一人としてできなそうな気がするなあ」
「「確かに」」
再び声をそろえて、三人は仲良く宙を仰ぐ。
憧れのキスシーン、ロマンティックな恋のときめき。それはやっぱり、物語の中だからこそなのだろうか。現実はそんなものとはほど遠く、ため息がでるほどに平坦で。大きな高低差を一気に駆け降りるような、ドキドキと胸が高鳴る憧れの物語たちとはかけ離れている。
「それでも、いつか素敵な恋と巡り会えることくらいは夢見てもいいですよね」
軽く目を伏せ、祈るように重ねた掌を胸元に当てる。
戦いと平穏を行き来する、忙しない日々。それでもリイラは、そんな日常を塗りつぶしてくれる、そんな奇跡のような物語をどうしようもなく願ってしまう。
それがどんなに甘く儚い夢物語だとしても、焦がれる心は止められないのだ。
「そうだね。いつかきっと、そんな恋に出会えるといいなあ」
「まだぜんぜん想像もできないけどね」
それぞれが胸の内で、いつかの物語に思いを馳せる。今は見果てぬ夢物語だとしても、胸の奥からわき上がる苦しくも甘い情動に身を焦がすことがあるのかもしれない。唇をゆだねる、そんな王子様の存在に気づく日が。
「では、いつか来るそんな未来のために、もっと恋愛のなんたるかをお勉強しましょうか! わたしのおすすめの本がまだまだたくさんあるんです! こちらは先ほど申し上げた一つ屋根の下の王道的シチュエーション、そしてこちらは年上の殿方との危険と波乱に満ちた逃走劇で――」
すくと立ち上がったリイラは怒涛の勢いで言葉を溢れさせながら、本棚からどんどんと愛蔵書をひきぬいて広げていく。
爛々と輝いた瞳、なにやらスイッチが入ってしまったらしい、すっかり昂揚しきった彼女は簡単には止まることはなさそうだ。
「チョイスがなんか嫌なんだけど!」
「もうすこし現実味のない設定でお願いできないかな……?」
あまりに身近すぎる場面設定。二人はとめどなくひろがる蔵書の海の真ん中で苦笑いするのであった。
翌朝、三人が仲良く寝不足であったことは言うまでもない。