七夕文「そういや、今日は七夕じゃん」
誰かがそう言い出したのがきっかけだった。なぜか定番になりつつある、戦いの後の俺の部屋での勉強会の時だった。シャーペンを動かす手を止めて、皆がスマホの日付を確認する。
「七夕かあ、今日は天気がいいから、ひょっとしたら天の川みれるかもしれないね」
「おっまじ? じゃあさっそく見に行かねえ?」
「この時間じゃまだ早いでしょう」
夏も近くなり日も伸びた、梅雨明けを待つ今日この頃。現時刻は六時をまわった今でも、カーテンで仕切られた向こう側はまだほんのりと明るかった。
「七時をすぎた位になれば日も沈むんじゃないか? テスト前だしもう少し勉強していこうか」
「オッケー!」
若干一名を除いて、高校生たちはやる気満々だ。しかしながら、居場所の提供者である俺は全く大丈夫ではない。今日は八時からは愛好しているネットゲーム内で、バーチャルアイドルによる七夕限定ライブがあるのだ。アーカイブで視聴可能とはいえ、リアルタイムで楽しむことこそファンの務めと言うもの。回線の混み具合も考えて、早めに待機しておきたいので、皆には早いところおうちに帰ってもらいたいところなのだ。とはいえ、そんなことを言えるほどのコミュ力は俺には存在していない。ぐっと心の中で「早く帰れ」と唱えながら、パソコンの画面へと意識を戻す。
そうこうしているうちに時計は進み、時刻は七時を過ぎた頃。日が沈んだ空が暗くなり、ようやく皆が帰る雰囲気をみせはじめる。よかった、これならライブに間に合う。そう思った矢先。
「――なあ、由良さんもいこうぜ」
「へ」
そう言い出したのは早々に勉強に飽きてスマホをいじっていた長谷淳平だった。いや、俺はいい、これから予定があるし。そう言って断ると、
「予定って、どうせネットゲームでしょう? いいじゃない、晴れてる七夕なんて、そうそうないんだから。こんな時くらい現実を楽しんだらどう?」
悪戯に微笑んだのは前園たまき。モデルとしても活躍しているこの圧倒的人生勝ち組美女は俺のような陰キャには特攻がすぎる。卑屈にねじ曲がったプライドに棘のある言葉がゴリゴリと刺さる。
「夜くらいならあなたでも出かけられるでしょう」
(何を言う、俺はひきこもりだが、昼にだってコンビニに行けるレベルの行動力はあるわい。舐めてもらっちゃこまるわ)
平然と投げかけられる言葉に、俺は負け時と反論する。もちろん内心で。
「たまにはいいんじゃないですか。行きましょう」
「天気もいいし、行かなきゃもったいないと思います!」
残る二人の後押しもあり、断るに断れず。半ば強引に外へと連れ出される。
七月とはいえ夜はそれほど熱くない。生ぬるい風がよれたスウェットの皺をのばすように吹き付ける。商店街はまだ人通りが多く、学生や会社帰りの社会人が行き交っている。なんだか居心地が悪くなって。忙しない心地に、意味もなく背筋が伸びる。
アーケードに覆われた商店街からは当然ながら夜空はみえない。少し離れた所へ行こうと、河川沿いの土手まで歩くことになった。夜の町を学生たちに囲まれ進む。通常なら年長者の俺が引率者になるのだろうが、どうみても引っ張られているのは俺の方。まるで連行されているかのようだ。
「わあ……すごい!」
たどり着いた河川敷。見上げた夜空に、明るい声が飛ぶ。
雲一つない夜闇の空に、きらきらと輝く天の川。銀河を紡ぐ星々が織りなす、極上のミルキーウェイ。
最初に漏れた感嘆。その後は静寂に包まれる。天井の宇宙。遙かから届く光。その雄大さ、美しさに皆一様に息をのんで、見上げて言葉を失った。
「……すっげーなあ。こんなきれいなの、俺初めて見たかも」
「これだけの夜空なら、織姫と彦星はきっと出会えるだろうな」
「ふ、やっぱり託仁って乙女よね」
「ぷっ……確かに……」
「う、うるさいな! みんなも思うだろ、それくらい」
隣で少年少女が盛り上がる声を聞きながら、俺は唇を結んだまま。上空を見て、目を細めていた。
いつだったろうか。ふと、小さいころの思い出がよみがえる。あの日も確かこんな風に強引に、手を引かれて星空を眺めたのだった。
これが俺の生きてる時間なんかじゃ到底たどり着けないほど、遠くの彼方にある無数の銀河の集合体なんてことも知らずに、無邪気に瞳を輝かせていたあの頃。星空は澄み渡り、悠然と煌めいていて。その美しさは穢れない思い出と共に心に刻まれて、今でも鮮明に残っている。
それと比べて。今眼前に広がる夜空はどうだろうか。
狭い世界を見つめすぎてすっかり悪くなった目は、視界のほとんどを霞ませて。そこにあるはずの夜空もすっかりぼやけて、鮮明になんて見えやしない。ぼんやりと淡く光る靄がうっすら白く広がっているだけ。目を凝らしてようやく、光の粒となった星々の輪郭が感じられる、その程度。
あんなにも美しかった乳白色の空は、この瞳にはもう映らない。
それが無性にやるせない。伸ばした背筋も、気付けばいつのまにかいつもの猫背にもと通り。
情けない背中に、明々とした声がかかる。
言葉を交わし、きらびやかな夜空を胸に抱いて、満ち足りた心地と共に鞄を背負い、それぞれの日常へと帰って行く学生たち。
「また明日」
そんな言葉で約束できた目映い日々が胸に迫るようで、静かに再び背筋を伸ばした。