まだ大丈夫部屋の空気は乾いていた。
銃火の痕跡を微かに残した、硝煙とタバコの匂いが、壁や天井にこびりついている。
長く使われている隠れ家ほど、そういった臭気を吸って育つものだ。
悪党の巣らしい匂いだと、誰かが言っていたのを思い出す。
僕にとっては、日常の香りそのもの。
──けれど、今日はその空気の中に、君の吐息が混じっていた。
丁度風呂上がりだった。
身体についた血と煤を落とし、ようやく彼女を抱きしめて一息つけるかと思ったとき。
僕は視界に写してしまった。
ベッドに座り込んだまま、壁にもたれて僕のコートに包まって眠っている彼女を。
──……駄目だ。
まず真っ先にそう思った。
これは、いけない。
とてもだめだ。
理由は簡単だ。
それを“可愛い”と思ってしまったから。
それを“守りたい”と思ってしまったから。
タバコの匂いと、火薬の匂い。
誰かの血が跳ねた裾、焦げた裾。
僕のコートは、殺しと火の匂いでできている。
まともな人間が、安らぐ香りじゃない。
それを今、君は身に纏っている。
まるで、僕に抱きしめられて眠っているかのように。
……だめだ。
ほんとに、だめだ。
君は、本当ならこんな場所にいるべきじゃない。
僕が仕掛ける罠も、撒き散らした毒も、踏み越えて笑ってくれるけど。
本音を言うと、そんな世界とは無関係でいてほしかった。
こんな匂いに包まれて、眠るような人であってほしくなかった。
……全部己のエゴだと分かっている。
ソファの肘掛けに腰を落とす。
君の寝息が静かに聞こえる。
……睫毛が長いな。違う。見るのはそこじゃない。
こんな場所にいて、どうしてその顔で眠れるのか。
どうして、そんなに無防備でいられるのか。
ねえ──自分が、誰のコートに包まってるか、分かってる?
僕は君を手にするために何人も殺したよ。
君を庇った仲間の指を落としたこともある。
君の背後に立った誰かの目を潰したこともある。
君は知らない。
僕が君に手を伸ばす前に、どれだけの人間を消してきたか。
この匂いは、そういう“仕事”の上にある。
僕の背負ってきたもの、全てを纏って、君は安らかに眠ってる。
(これはいけない)
(とても、だめだ)
君が僕のコートで眠りに落ちるようになったら──それが常になってしまったら……
僕はもう、後戻りできない。
その手を握って、離せなくなる。
この匂いを“安心”だなんて錯覚してしまったら、君は僕に染まってしまう。
そして、君が染まれば染まるほど、
僕はもう、君を手放せなくなる。
「……君は、馬鹿だね」
静かに呟く。寝言のように、優しく。
こんな時間に、こんな場所で、
こんなふうに僕のコートで眠ってくれるなんて。
優しさのつもりかい?
僕を受け入れてるつもりかい?
それとも──ただ、無知なだけかな。
肩にずり落ちかけたコートを、静かにかけ直す。
君の鼻先に、タバコの香りが触れた。
微かに顔がしかめられる。
──良かった。まだ、慣れてない。
なら、もう少しだけ猶予がある。
まだ染まりきっていないなら、今は─我慢できる。
でも。
もし、君がこの匂いを心地いいと言ったら。
もし、君が「朝尊の匂いがする」なんて笑ったら。
その時は。
この世界に君を閉じ込める準備を
僕は既に済ませている。
──ねえ、お願いだから、起きないで。
今だけは、何も知らない君でいて。
君の無防備を前にして、僕は“まともな人間”を演じるのが、もう限界なんだ。
だからせめて、もう少しだけ。
この破滅的な幸福を、見逃してほしい。