白うさぎと稲荷狐 何の変哲もない部屋の一室。幼い子供と、その母親はそこにいた。
「白兎、もう少しでお兄ちゃんになれるね」
ソファに座り、笑う母親。そのお腹はとても大きく膨れており――恐らく、臨月なのであろうことが容易に想像できる。
その隣、母親の丸い腹を撫でながら。白兎と呼ばれた、五歳ほどの子供は、「うん!」と、首を縦に振った。
「赤ちゃんが産まれたら、お兄ちゃんとして。大事にしてあげてね、白兎」
と母手が白兎の小ぶりな頭を撫でる。柔らかくて白い、大好きな手。沢山褒めてくれて、美味しいご飯を作ってくれる――大好きな手。
そんな手に褒められたのも、自分が“お兄ちゃん”と言われるのも、とってもうれしくて…………「うん。おれ、あかちゃんたいせつにする!」と、弾む声で頷いた。
「あ、でもね……」
「? どうしたの?」
「おれ、あかちゃんだいじにするから。ママもおれのこと、あかちゃんとおなじくらいだいじにしてね?」
口を少し尖らせ、まあるい頬を強ばらせながらちらりと母親を見上げる。産まれてくる赤ん坊に、親の愛情がぜんぶ盗られないか。少しだけ不安なのだ。
「うふふ、なぁにいってるの」
くすくす笑いながら。母親は、白兎の頭を撫でる。
「大丈夫、あなたは私たちの大事な大事な、白うさぎちゃんなんだから。赤ちゃんが産まれても、あなたのことを大事にするよ」
母親は微笑み、柔らかなほっぺたをふにふにと揉む。
暖かい手と、言葉に。白兎は嬉しくなって。その手に頬をすりつけながら、再び母親の腹を撫でた。
「おかあさん、赤ちゃんのお名前ってもう決めてるの?」
どん、とお腹を蹴る赤子の元気さを感じながら、白兎は母親に問いかける。
「名前? うん、決めてあるよ。名前はね――」
白い病院。小さなカプセルみたいなのに入れられた、くしゃくしゃの顔した、赤っぽい新生児。
「パパ、あかちゃんうまれた?」と、隣にいる父親に声をかける。
「ああ。かわいい、おまえの弟だよ」
普段見ないような笑顔で、父親は答えた。
……白兎は期待に胸をいっぱいにする。――おれのおとーとは、とんなこどもになるんだろう。おれにいっぱい、にてるのかな。あのヒーローはみるのかな。みるなら、たくさんヒーローごっこがしたいな。おやつもはんぶんわけてあげて。たくさんないてたら、いっぱいよしよしってして――
「ねえ、パパ」
「なんだ? 白兎」
「おれね、おれ。たくさんたくさん、いいおにいちゃんになるよ」
「……そうか。――じゃあまずは、ピーマンとニンジンを克服するところからだな。あと夜に一人でトイレに行けるようにもなれ」
「う、それは…………どれも……ちょうなんもんだな…………」
むむ、と考え込む仕草をした白兎を見て、父親は微笑ましさに失笑する。
「はは、冗談だ。いきなりじゃなくていいから。少しずつ、大きくなりなさい。パパもママも、お前が立派な大人になるまで……大人になっても、ずっと見ているから」
微笑みかける父親に、
「……うん! おれ、いつかりっぱなおとなになる!! ピーマンも…………がんばる…………!!」
「そうな、期待してるぞ」
父親は笑顔で返し、ぽん、と。白兎の背を叩いた。
「パパ、ねえ、あかちゃんのおなまえ、しってる?」
「何言ってるんだ、俺はパパだぞ、子供の名前は知ってるって。おまえは聞いていないのか?」
「ううん、しってる! あのね、このこのおなまえは――――」
月日は流れ、時は過ぎ。おおよそ九年ほどの時間が経った。
「にーちゃん! にーちゃん起きてってば〜!!」
ゆさゆさガクガクと、子供――骸寺三狐。は、ベッドで寝ている高校生の兄――骸寺白兎を揺さぶる。
「んが……なに……三狐……今日、日曜日だよ……」
「ねー、起きてー!! 起きておれと遊んで〜!! ていうかライダー見ようよライダー!!」
「キミ本当に好きね……わかった、起きる、起きるから兄ちゃんを落とそうとしないで……」
こんなにゆすられたのでは寝られたものじゃない。なんなら少しずつベッドのそとにずらしてきやがった。観念して白兎はベッドから降りた。
「ライダー……今何話だっけ?」
「五十六話!」
「即答だ……話数までよく覚えてるなあ……」
笑顔の弟を先に行かせ、白兎は目を擦りながら部屋から出る。もこもことしたうさぎのパジャマ。前に着たのはパンダ。たいそう可愛らしいそれは母親の趣味だ。
「あ、そうだ、兄ちゃんそこで待ってて!」
少し先を走っていた三狐が、はたと思い出したように、パタパタと部屋にかけていく。
なんだろう、とぼんやり立ち止まってその背中を見ていると、何かを持ってこちらにやってきた。
「はいこれ、プレゼント!」
と、目の前に突き出された、小さな袋で梱包された何か。白兎は訳が分からないと言った顔で目をぱちくりとさせた。
「え? プレゼント、なんで?」
「だって兄ちゃん、も少ししたらコーコーセーでしょ?」
「うん……そうだけど……」
「だからね、プレゼント! 進学祝いってやつ!」
そんな急に……? と思いながら、白兎は袋を開ける。……中に入っていたのは、透明なプラスチックの、クリスタルのように見せた、如何にも安っぽい。うさぎのストラップ。
まじまじと見つめている白兎に、三狐は得意げに手を掲げて。
「おれのね、おれのお小遣いで買ったんだよ! おれとおそろい!」
掲げた手を見ると、なるほど確かに、同じような狐がある。
――この弟のことだ。凡そ、たまたま立ち寄った雑貨屋で『兄ちゃんとおれがいる!』とか言って買ったのだろう。と、白兎は考えた。
「三狐」
「なあに兄ちゃん! 感謝なら今日の兄ちゃんのおやつはんぶんでいいよ」
「お金は大事に使いなさい」
「でぇっ。嘘でしょ!? 今の流れでそういうこと言う?」
わざとらしく体制を崩した弟をみて、白兎はくすりと笑う――もっとも、顔が硬すぎる故に、よくよく見ないとわからないものであるが。
「冗談だよ、ありがとう。でもおやつはあげないからね」
「ええ〜、ケチ〜」
「家族へのプレゼントにそもそも見返りを求めるなって、ほら、ぶーたれてないで。ライダー見ようよ」
くすくす笑いながら、弟の背中を押す。1階に降りれば、父と母の「おはよう」の声。
きっと今日は、日曜朝の番組たちを見て。どこかに出かけて、昼に弟とおやつの取り合いをして。そんな平和な日曜日になるんだろうな。と、安っぽいストラップを握りしめながら、思った。
――昨日と同じ今日、今日と同じ明日。
絶対なんてないはずなのに、ずっと続くと疑わなくて
少年は、自分の日常と平和が、薄皮でしかないと気付かぬままで。
その終わりは、もうすぐそこまで来ていた――