離さない手を
「おじちゃんだあれ?」
二人のマンション、仮眠から起きた茨は私の方を見てぽつりとそうつぶやいた。
「茨?」
「ここ、どこお? せんせいたちは?」
タオルケットに包まってきょろきょろとあたりを見回した。何かがおかしい。
「……あたらしいせんせい?」
茨は大きな目を揺らして私に尋ねた。
「私は乱凪砂。先生じゃないかな」
「ふうん」
「……茨、いま何歳?」
そう聞くと指を三本立ててニコニコ笑った。
「よんさい、あのねたんじょうびがね、あったからね、よんさいなの」
どうやら記憶も人格も幼児の頃に戻ってしまったらしい。幼児退行というものだろうか。過度のストレスで起こるものらしいが、記憶まで退行するのも珍しい。茨は大きな海色の目でじっとこちらを見つめていた。
「もしかして、おれの、おとおさん?」
「……お父さん?」
「うん、あのねサンタさんにてがみかいたの、おとおさんとおかあさんくださいって、おれもうひらがなかけるの、すごいでしょ、かいてあげるね」
ベッドサイドに置いてあった茨のメモ帳から紙を引きちぎって、ペンでふやけた文字を書いていく。おとおさん、いばら。幼児の筆跡だった。
茨にとっての"父"、になる、私。
「そう……私、茨のお父さん」
「ほんと?」
「うん」
大きな目を潤ませて、十七歳の体で、茨は私に抱きついてきた。
「おとおさん」
あどけなく笑う。茨がこんな表情も出来ることを知らなかった。
「一緒にあそぼ」
「いいよ」
「たかいたかいして」
「うん」
抱き上げて放り投げると茨はこえを高めて笑った。喜んでいる。喜んでいるならよかった。
午後三時、明日はオフの日だ。茨のスケジュール帳を覗いて、今日のマスト項目をチェックする。メールの返信が一件あったから、茨になりすましてログインし、途中まで作成してある文面を整えて送信した。多分これで困らない。
「なにしてるの?」
「お仕事かな」
「おとおさんおしごとなに?」
「アイドルだよ」
「あいどる?」
「お歌を歌ったり踊ったり泣いたり笑ったりしてみんなを笑顔にする。……わかる?」
「ふーん。じゃあおうたうたって」
「いいよ」
We Wish You a Merry Christmasを歌う。茨も一緒に歌った。茨は謎の踊りを踊って、ベッドの上を飛び跳ねた。私も踊る。四番まで歌い終わると茨は飽きたのかタオルケットにくるまって遊んでいた。
「おかあさんは?」
「お母さん……」
なるほどお母さんもお願いしていたのならここに居なければならない。私は思案して、端末を取り出して操作した。
***
「僕がお母さんだね!」
「うるせえ」
茨は私の後ろから二人を伺っていた。日和くんとジュンは最初は驚いていたけど、茨の様子を見て理解してくれた、と思う。
「……こっちのおじちゃんは?」
「こっちはお兄ちゃんだよ、茨」
「おにいちゃん」
「はいはいお兄ちゃんですよぉ~~?」
「やっ! こあい!」
「ジュンくんもうちょっと可愛い顔しないと幼児に受けないよ! お歌のお兄さんでしょ! しっかり!」
「うるせえ」
「怖かったね、お母さんが守ってあげるからね、おいでおいで」
茨は私の後ろに隠れてモジモジしていたが、手を広げた日和くんの胸に歩み寄って抱きしめられに行った。
「よしよし、いいこいいこ。茨はかわいいね」
「かっこいいがいい」
「うんうんかっこいいでもいいね」
強張っていた表情が緩んでいく。茨はぎゅうと日和くんに抱きついて、朗らかに笑った。
「……おかあさん」
それがあまりにも幸福そうに笑うから、私は一枚写真を撮った。待受にしよう。
「つーか茨大丈夫なんすかぁ? 元に戻らないと厄介なことになりますよぉ」
「……わからないけど、寝て起きたらこうなったから、寝たら元に戻るんじゃないかな」
「うんうん、それだね! 茨、ねるといいね!」
「ねむくない」
日和くんの胸に顔を埋めて、いやいやと頭を擦り付ける。駄々っ子とはこういうものだろうか。
「まー子供の寝かしつけは大変っていいますもんねぇ」
「あ!」
「おひいさんうるせえ」
「僕に名案があるね! 絶対寝ちゃう方法」
「なんすか」
日和くんがキメ顔で云った。
「遊んで、お腹いっぱいにして、お風呂に入って寝る! 完璧だね!」
「めちゃくちゃオーソドックス……」
***
マンションの空中庭園は誰もいなく、冬空の下、裸の木々が静かに立っていた。茨は私と日和くんに手を繋がれて嬉しそうに揺れている。
「子供が遊ぶと云ったら鬼ごっこだね! ジュンくん鬼!」
「えぇ……いいっすけど」
「茨、鬼ごっこわかる?」
「たっちするやつ?」
「そう」
「やる!」
「十数えたら追いかけますよぉ」
駆け出した茨と、それを追いかけるジュン。
身体能力は十七歳のままだから、追いかける方も真剣だ。茨が鬼になって、日和くんが鬼になって、私も鬼になった。冷たい空気が頬をなぞって、熱くなる。私もはしゃいでいた。概念では理解していたが、こうやって多人数で鬼ごっこをするのは初めてかもしれない。
追いかけていたら茨が躓(つまず)いて転んでしまった。
転んだ茨のそばに寄って、体を起こす。
「茨、大丈夫?」
「う、ん」
茨は体を強張(こわば)らせて何かに耐えていた。膝を擦りむいたらしい。少し血が滲んでいる。
私は茨の背中を撫でた。
「茨、痛いときは泣いていいんだよ」
「……ないていいの?」
不安げな顔でこちらを見る。海の色が揺れていた。
「よしよし。悲しい時には泣いてスッキリするといいね。僕たちがそばにいるからね」
「おかあさん」
ポロポロと大粒の涙を流して茨は泣いた。こえをあげて泣いた。茨の涙を私たちは今日まで知らなかった。
***
茨を部屋まで運んで、傷の手当てをする。夕暮れは短く、外はすっかり夜だ。
「夕飯どうします? 出前?」
「茨、何か食べたいものある?」
「ぷりん……」
「プリンかあ」
「ピザが食べたいね!」
「あんたには聞いてねえ」
「ぴざ!」
茨は目をきらめかせて飛び跳ねた。
「ふふん、お母さんは全て正しいね!」
「うぜぇ……」
ジュンはそう言いつつ、端末を操作してピザ屋のメニューを茨に見せた。
「何が食べたい?」
「ちーずのやつ」
「チーズは全部乗ってるな……」
「私も見ていい?」
「僕はゴルゴンゾーラが入ったクアトロ・フォルマッジのピザがいいね!」
「子供舌、ゴルゴンゾーラ食べられるか……?」
私たちも食事管理でなかなか食べないピザを五枚注文した。お母さんもお兄ちゃんもアイドルということを認識した茨はChristmas carolを歌ってもらい謎の踊りをした。みんなで謎の踊りを踊っているとピザが届いた。
テーブルの上に重ねられたピザを前に、茨は手を叩いて喜ぶ。
「いくつたべていいの?」
「好きなだけ。全部食べていいよ」
「ぜんぶ? いいの?」
「うんうんいくらでも食べるといいね!」
茨は少し考えて顔を上げる。
「おとおさんとおかあさんにもあげるね」
「オレは?」
「うーん、おにいちゃんにもあげる」
「よかったねジュンくん!」
「お兄ちゃんよかったっすよぉ〜〜さ〜〜たべよ」
「あ! ずるい!」
みんなでお皿にピザを乗せて食べ始めた。カロリーの暴力はとても美味しい。茨もにこにこ顔でよかった。
三枚目のピザに手をつけ始めた頃、茨の皿に緑のものが端に寄せられていることに気がつく。
「もしかしてピーマン嫌い?」
「きらいじゃ……ないよ」
「食べてあげようか」
茨は俯いて小さく云った。
「ピーマンもちゃんとたべて、いい子にしてたの。だからおとおさんとおかあさんきた」
日和くんもジュンも、手を休める。
「ずっといいこにするから……いいこじゃないと……またいなくなっちゃう……」
もしかしたら茨は、里親の試用期間に返されてしまった記憶があるのかもしれない。それがトラウマになって、この子を形作っている。最初からなにもないよりも、手に入れて失うことで自覚する喪失感は耐え難い。孤独は、他者を一度受け入れてからではないと認識しない断絶だ。
「僕らはいなくならないね。大丈夫だよ茨」
「そうっすよぉ、良くも悪くも茨は茨だし」
「茨はいい子だから安心して。いい子じゃなくても私たちは茨のそばにいる。そういう存在」
茨は顔を上げて私たちを見つめた。か細い声で小さく云った。
「……ぴーまんのこしていい?」
「うん」
「うんうん! 本音を言えて偉いね! 偉いからプリンでも食べようね!」
「プリンどこにあるんですかぁ」
「ジュンくんがコンビニ行って買ってくるに決まってるね!」
「うげ」
***
私と二人でお風呂に入って、パジャマに着替えて寝室に行く。茨は眠くなったようで、うつらうつらしていた。
「さあ寝ようね! 添い寝してあげるね」
「や、ねたく、ない」
茨は目を擦りながらベッドに座っていた。
「ねたら……いなくなっちゃう」
「大丈夫、居なくならないよ」
「いなく、ならない?」
海色の目が揺れて、日和くんを見つめている。
「うん。僕らはずっと一緒」
茨が目を閉じて、息を吐く。
「て、にぎって、はなさないで」
私と日和くんはぎゅっと茨の両手を握った。呼吸が睡眠のリズムを取る。温かかった。
「おとおさんとおかあさんだいすき。おにいちゃんもだいすき」
「お母さんも大好きだね、茨はとってもいい子だね」
「目えつむってると可愛いっすね」
「茨はいつもかわいいよ」
頭を撫でる。茨は安心したように身じろいだ。
「ほんとうの、おとおさんと、おかあさんと、おにいちゃんに、なって……」
茨は小さくそう云って、眠りに落ちていった。
***
「クリスマスに欲しいものを書いても叶わないことを早々に学んだので、それからは予算内で実用的なものを注文していましたな」
クリスマスプレゼントの話になった十二月二十四日、歌番組の生放送の後だった。
「茨は、今何が欲しい?」
「予算と権力ですかね〜〜」
送迎車の窓を夜の明かりが流れていく。二人のマンションへ向かって、ゆっくりと。
あれから茨は十七歳の茨に戻り、四歳の茨の時の記憶はなくしていた。日和くんが優しくなったり、ジュンがお兄ちゃんムーブをするのを訝(いぶか)しんだが、概ねいつもの茨だ。
だけれど小さな茨は確かにこの子の中にある。
「私、茨のお父さんになりたいな」
「……養子縁組ということですか?」
「ふふ、そういうことにしておく」
「それは――手続きが煩雑そうです」
茨は端末を眺めながらいつもみたいに私を遇(あし)らう。送迎車がマンションに着いて、夜空の下に二人で出た。
「茨」
「はい?」
振り返った海色がきらきらと光る。手を伸ばした、たしかにここに居る。
手を繋いで、その指先を辿る。世界の終わりまで、この手を離さないと強く誓った。
(201127)