茨が壊れてしまった 茨が壊れてしまった。
夜のしじまに、茨のうわごとだけが響く。
「たすけ、て……手錠とって……ねえ、おねがい……かっ、かどこ……やだ、やだ……おくすり、ちょうだい……こわいよぉ……かっか……シよ……たす、けて……」
「私はここだよ、茨……」
犯人に監禁され、酷い陵辱を受け、薬漬けにされて洗脳催眠された。助け出した茨は酷く傷付いていて、壊れていた。
「だあれ……?」
「……凪砂だよ。きみの閣下だよ、茨」
「かっ、か……?」
ぼんやりした海色は死んでいて、私を認識しない。犯人が認知領域をいじって、茨の『閣下』を簒奪した。犯人が『閣下』に見えてしまう茨は、簡単に犯人を愛した。
私が茨に、愛の告白をした、翌日だった。
「かっか、じゃ、ない、……おれ、の、かっかはぁ、おれ、を、たーくさん、あいして、くれ、るの……♡ ほら、もうすぐ、あかちゃん、うまれるから……♡ たくさん、種付けしてもらってぇ……♡ あかちゃん、いーっぱい、産んで……♡ 家族になるんだぁ……♡」
茨は空虚な笑顔を浮かべて、いつわりの幸せをくちにうかべる。強い催眠によって、現実と空想がぐちゃぐちゃになってしまった。
「茨、それは嘘だよ……」
「うそじゃ、ない、ほんとう、……おれ、おれ、閣下と、しあわせになる、だって、かっかが、そう、いってた、……かっかは? かっかはどこ……? ねぇ、ねぇ、おれの、かっか、……あんた、閣下に似てんね」
「茨」
「……『閣下』……?」
その刹那、ピントがあったように、正気が海色に宿る。そうして狂気を知ってしまう。わずかばかりのまともな茨の顔が、歪んでいく。
「ちがう、ちがう、こんなの、ちがう、おれ、おれ、ああ、いたい、やだ、たすけて、みないで、おれ、は、やだ、やだ! ちがうう……、ぜんぶ、うそ、うそだ、ちがう、かっか……ちがうんです、ちがうから、かっか、かっかぁ……っ、ころして、ころして、みないで、あ、あっ! あああ! あああああ!」
「茨、おちついて、大丈夫だよ、いばら」
暴れる茨の命を守るために、やってきた看護師たちが体を押さえつける。舌を噛み切らないように、開口器をくちに嵌め、鎮静剤を投与した。
「……大丈夫だよ、茨、もう、大丈夫……」
力が抜けた茨の瞳から、涙が溢れて頬を伝った。
深い闇が、私と茨の間に横たわっていた。
***
宵に染まる海辺を、茨と二人で歩いていた。満月が登って、夜にくっきりと影を作る。茨のつくってくれた夕食を食べてから、散歩に行こうと連れ出したのだった。
「閣下、お体が冷えますよ」
「……うん、そうだね」
茨を振り返って、きれいな海を覗く。そうして、その手を拾い上げた。
「……手、つめたいね」
「すみません、早急に温めます」
「……ううん、こうすればあったかくなる」
ぎゅ、と茨の手を両手で握りしめて、体温を交わらせた。
そうして、その指先に、そっとキスをする。
「茨、私ね」
静かな茨の顔が、少しだけこわばって、私を見ていた。
ざんざんと、波が押し寄せては引いていく。
「……私、茨のこと、好きだよ。……大好き。愛している、といったほうがいいのかな」
やっと言葉にできた。ずっと募らせた思いが沸き立っていく。握りしめた手はすっかり温かくなって、やわらかい。
「……だから、ずっとそばにいさせてね。……それだけ。それをいいたくて、ここまで来た」
茨は海色を潤ませていた。静かだった。何も変わらない日々が続く気がした。ばたばたと海風が二人の服をはためかせた。
いつもおしゃべりなくちが、この時だけ静かなのがなんだかおかしい。呆れられて、当たり障りなく流されると思っていたのに。
「おれで」
手が握り返される。
「俺でいいんですか……」
捨てられた猫みたいに、茨は不安げに、つぶやいた。
自分に価値があるなんて知らない、いのちのかたまり。
「茨がいいんだよ」
打ち寄せる細波が、茨の表情を変えていく。
「俺も、ずっと、おそばにいられたら……」
「うん」
「好きなんて、いって、……ゆるされますか」
茨が普通の人間みたいに、世間を気にしているのがおかしかった。
「……好き?」
「すき、……です」
「……うれしい」
私はたまらず、愛しいきみを抱き寄せた。愛がかち合って、はまる音。それがひろい海にこだましていった気がした。
二人の熱が混ざり合って、何かを形成していく。随分長い時間、そうしていた。
「茨、帰ろうか」
「はい……閣下」
呼ばれるこえがむず痒くて、体の芯が震える。くらい夜道、人通りが少ない路地を通って、手と手をひっそりとつないで歩いた。静かだった。何も変わらない日々が続く気がした。
ESまで帰って、茨はオフィスに用があると入り口で別れた。
「……明日、またね」
「また、明日」
そんな顔でわらう茨をしらなくて、私は確かに幸せだった。
茨の消息は、その時から途切れている。
続く
(220603)