俺の好きなやつに好きなやつがいる 三郎が好きだ。
俺が世界で一番三郎のことが好きなんだ。
でもこれは知られちゃ駄目だ。バレたら絶対に嫌われる。そうなるくらいなら、普通の兄弟のままで……。
「おつかれ!」
兄ちゃんの声で俺はスマホから目を上げた。
夕飯の片付け当番だった三郎と兄ちゃんが皿を洗う傍ら、ダイニングテーブルに頬杖をついてだらけていたら、二人は俺が思ったよりも手早く仕事を済ませたらしい。
「一兄もお疲れさまでした」
俺には絶対に使わない声音で返事をしてから、三郎がこちら側を向いた。
「おい二郎、お前用もないのにいつまでここにいるんだよ」
いつもならそんな悪態が頭上から降ってくる頃だ。
それはお前、三郎がフリーになるのを待ってたからだよ。
……なんて言えるはずもない。
一人でぐるぐる思考したが、実際には三郎は俺に目もくれなかった。肩透かしというよりどこか寂しい気持ちを覚えた俺は、三郎をゲームに誘おうと声をかけた。
「なー三郎この後……」
「勉強あるから」
三郎はぴしゃりと俺の言葉を遮り、さっさとエプロンを外して階段を上って行ってしまった。
なんだよ、冷たい奴だな。思えば二週間ほど前からだったか、俺に対する態度がこれまで以上によろしくない。
もしかして俺に原因があるのだろうか。まさかバレた? 三郎に悟られたら、嫌われたら、俺はおしまいだ。そんなことにだけはなりたくない。
「三郎あいつ、好きな子でもできたのか? 二郎何か知ってるか?」
「えっ」
不意に俺の右手からスマホが滑り落ちて股間を直撃した。
「〜〜〜〜!!」
俺は二重の衝撃でテーブルに突っ伏し苦しみ悶える。
「すまんすまん。唐突だったな」
兄ちゃんが苦笑いしながら向かいの椅子に腰掛けて、続ける。
「最近あいつ俺らと居るのを避けて、一人になりたがること多いじゃねえか。かと思えば、事務所やここでぼーっと考え事してて、声かけても気づかなかったりな。とにかく、様子がおかしい。あれはなんかあったな」
たしかに、最近上の空だったり妙に素っ気ないのはそういうことか!? 信じたくねー! 俺は動揺を隠すために、床に落ちたスマホをわざとゆっくり拾い上げた。
「だ、だからって、そうとは限らないんじゃない? てか兄ちゃんがそんなこと話題にするなんて珍しいよね」
「あー、まあそうなんだがあいつも年頃なんだって実感したらなんだか感慨深くてだな……」
まったく、兄ちゃんてば人の気も知らないで。まあ、知られても困るんだけど。
でも人間観察に優れた兄ちゃんの言うことだ。間違いではないのかもしれない。このところで三郎の雰囲気が変わったのは事実だしな。
正直なところ、三郎に好きなやつがいたって俺は素直に応援してやれる自信がない。三郎は兄ちゃんと俺の三郎だし、今では俺の好きな人だ。あいつのことをよく知りもしないやつにかっ攫われるのなんて御免だ。
でもだからといってあいつの恋路の邪魔なんかしたらいよいよ俺は愛想を尽かされるだろう。兄貴として、ここは上手くいくよう見守ってやるのが筋なんだとは思う。
俺の気持ちはずっと、墓に入るまで隠したままで。
いやいやいや。諦めるにはまだ早いだろ。俺らしくもねえ。
まずは本当に三郎に好きなやつがいるのか、確かめねーと……。
***
コンコンと三郎の部屋のドアを叩くと、数秒待たされた後不機嫌そうな声が返ってきた。不機嫌なのだがとりあえず、部屋に入る許可は下りたようだ。
「いやー今日は夜になってもあちーなー!」
うまい切り出し方が分からず俺は部屋の入り口でTシャツの首元をぱたぱた揺らした。まずい。これじゃどう見ても不自然だ。
「何の用? なにもないなら出てけよ」
「コンビニ行かね? なんか奢ってやっから」
「……?」
三郎はここで初めて俺を振り返ると怪訝な顔で見つめてくる。だが一言だけ、「いいけど」と返してくれた。
今日はやけに蒸し暑い。店やビル群の煌々とした灯りと空気の悪さが邪魔をして、晴れているのに星がよく見えない。
俺たちは小さな公園の入り口の車止めに座って、俺の小遣いで買ったアイスをそれぞれ開封した。
それからの数分間は長かった。
聞きたいことがあるのに、口を開けば「アイスうま!」しか出てこない。アイスの感想にしたってもう少しバリエーションがあってもいいのに、いちいちうま!しか言えない俺は本物のバカなんだな。
悲しむ間もなくみるみるうちにアイスは口の中に吸い込まれて跡形もなくなった。三郎も既に食べ終わっていたようでハズレの棒を口に咥えて退屈そうに弄んでいる。
たまにこいつは行儀が悪い。俺や兄ちゃん以外にも、知ってるやつがいるのかな、三郎の行儀が本当は悪いってこと……。
「ねえなんか話があるんだろ。まどろっこしいことしてないでさっさと言えば」
「……」
さっきまであんなに暑かったのに、アイスのせいかな、腹がひんやりとする。
覚悟を決めて誘い出したはずなのに、情けないことにうまく言葉が出てこない。だが、三郎に俺の企みを見破られていたことに驚きはない。むしろありがたいことに、向こうから発言権を与えられたんだ。言わなければ。言い出さなければ。
「お前さ、今好きなやついんの」
三郎の動きが止まった。口に突っ込んでいた何でもないただの木の棒を、妙に丁寧に空袋の中に戻して、そして黙り込んだ。
「なにかと思ったら、そんなことか」
俺に食ってかかるでもなく、三郎は視線を落として背中を丸める。
俺には分かる。これは図星だ。ショックで口元が引き攣るのが自分でもよく分かった。
「…………」
「…………」
「学校の奴?」
「……違うよ」
は!? 学校じゃねえのか? こいつの交友関係なんてそれくらい……。いや、まさかネットか!? やめとけやめとけ、危ねえ!!
無闇に質問を続けたことで三郎も自分のことも追い詰めたのが苦しくて、心の中の俺が暴れ出した。もはやどうするのが三郎のためで俺のためなのか分からなくなった。顔は火照って、手は冷たくなる。もうどうなっても良いと思った。
「俺にしとけよ」
「…………は?」
「お前が誰かのせいで傷ついたら俺、相手が誰だろーとボコボコにしちまうかも……。だから……俺にしとけば……安心っつーか……?」
自分でも引くほどに口から本音がべらべら出てくる。まさに今、この俺こそが三郎を傷つけた。
どうしよう。もう三郎の兄貴ではいられないかもしれない。やっちまった。俺は思わず三郎の顔から目を背けた。
「…………」
三郎が何も言わないので俺の体温は下がるばかりだ。なんとなく今なら目が合わない気がして、ちらりと様子を窺うと、三郎は潤んだ両目を泳がせていた。心なしか頬が赤いようにも見える。
えっ、その反応、まさか、もしかして?
考えるより先に体が動くのは俺の悪い癖だった。
俺は隣の車止めに座っていた三郎の腕を引っ張ってその体を抱き寄せていた。
「俺お前のことが好きだ。誰にも渡したくねえ」
「ばか! こんなところで人に見られるだろ!!」
即座に俺の体を引き剥がして睨んでくるが、今、三郎は、嫌だとかキモいだとかは言わなかった気がする。
さっきよりも更に赤い顔で三郎は息を整えている。それは十四年間こいつの側にいた俺が、まだ見たことのない顔だった。
「帰ろ。……返事はそれからするから」
「え。それって」
三郎の熱が俺に伝染する。暑い。
「ここじゃできねえ返事ってこと?」
「こ……の、低脳! とにかく帰るぞ」
三郎の瞳が、向かいのコンビニの明かりを乱反射してゆらゆら光っている。それを隠すように踵を返して早足で歩き出す後ろ姿が、たまらなく愛しくて俺は後を追った。
家までの道のりは、世界で一番長い数百メートルだったと思う。
それは俺たちがただの兄弟だった最後の日。