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    新刊予定文からの抜粋

    どこからか、かすかに煙草の匂いが漂ってきた。
     禁煙家の増えるこの時代には珍しい匂いだ。人によって好き嫌いが分かれるであろう、香ばしい香りが辺りに充満する。街のいたるところがそうであるのとは違い、このマンションは禁煙を義務づけられていたわけではなかったと思うが、それでもやはり壁の色は変わってしまうし匂いも付いてしまうので、あまり良くはない。加えて寒くもなく、月の綺麗な夜ともなれば、喫煙家がベランダに出てくるというのも頷ける。
    「……右か?」
     匂いはどちらかと言うと右隣から漂ってきている。白い煙が見えるのだ、間違いない。しかし燐音は確信をもつことができなかった。なぜなら入居してから二年以上が経つが、隣はずっと無人のままだったからだ。隣に誰かが引っ越してきたなど、今までまったく聞いたことがない。
     このマンションはあまり住民同士の交流が活発ではない。それは都会だからというだけではなく、仕事の関係でプライバシーに気を遣う人間が多いからである。それは燐音とて例外ではない。ESに近い場所だから、おかしなことではないと思う。自分が住んでいる場所を知られたら困る人間もいるのだ。
     それでも、隣にくらい挨拶に来たっていいじゃねェか、と心の中でつぶやく。もしも困ったことがあった時、助けられるのは隣人くらいだ。そうでなくても物音など色々あるだろうに。社会常識を説ける身ではないが、知らなかったという不満がある。
     どれ、隣人の顔を一目拝むくらいは許されるだろう。月を見るふりをして、そっとベランダから身を乗り出した。怪しまれない程度に、少しだけ。二センチ、三センチ、そろりそろりとわずかに体勢を変えていく。安賃のアパートとは違うから、そう簡単に隣を見ることなどできない。多少不自然なほど身を乗り出して初めて、燐音はついに隣人の顔を捉えた。
     一人の青年が、煙草を吸っていた。
     暗い夜に、小さく色白の顔が浮かんでいる。ひどく整った容姿の青年だった。自慢ではないが自分自身も美形と呼ばれる人間であることは自覚しているし、仕事柄もあって優れた容姿の人間は数えきれないほど見てきた。しかし、隣の青年はただ綺麗なだけでない。まるで筋肉の一つ一つが特上の繊細さをもって調整されているような、思わず振り返ってしまうような憂いを含んだ表情をもっていた。
     目立って高いわけではないが、シュッと通った鼻筋を携えた小ぶりな鼻、霧を吐き出す赤く色づいた薄い唇。細くやわらかそうな桃色の髪を後ろで無造作にくくり、まるで計算し尽されたのではないかと思うほど完璧なおくれ毛が、彼の顔周りでわずかに風になびいている。
     そして、なにより印象的なのはその目だ。
     舞台役者のように雰囲気のある視線。ただ遠くを眺めているだけなのに、そこには何か強い感情が込められているように見える。色の薄さに対してどこまでも深い。透き通っているからこそ見える海底のような、誘い込まれる薄紫の瞳だ。今まで何人もの人間がこの薄紫の海に沈んできたに違いない。
     桜河こはく。
     燐音は以前にも、この瞳に射抜かれたことがあった。この世には似た容姿の人間が三人いると言うが、ただ姿形が同じというだけでは、この既視感はないだろう。いや、彼のような人間が、この世に二人といては堪らない。
     記憶の中の彼よりも、少し背が大きくなっていた。髪も少し伸びた。昔は煙草なんか吸っていなかった。でも燐音は彼を知っている。
     パサ、と音がして、洗濯物が下に落ちた。無意識のうちに手元がおろそかになっていたらしい。その音をきっかけに、青年がこちらに気づく。
    「すみません、嫌ですよね。ベランダで煙草なんて」
     青年は煙草から口を離して、言葉ばかりの気遣いを口にした。火を消すつもりはないようだ。声帯を広くやわく震わせる、落ち着いた声。独特の関西風の訛りはなかったが、燐音は確信する。
     何十分とも感じられる間、燐音はじっと彼を見つめていた。ベランダの手すりから身を乗り出して、相手を見る。これはもう、ただの隣人に対する踏み込み方ではなかった。もしも彼がまったくの他人だったならば、燐音は警察に突き出されてもおかしくない。後に彼は「穴が開くかと思った」とこの時のことを笑う。不審な動きを見せた燐音に対して、青年はわずかに嫌悪感を滲ませた視線をこちらに送った。
     次の瞬間、その表情が驚愕に染まっていく。
    「燐音はん……?」
     大きな目が見開かれて、海のような瞳の中に、燐音の顔がいっぱいに広がった気がした。
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    OVER 2M USERS!新刊予定文からの抜粋どこからか、かすかに煙草の匂いが漂ってきた。
     禁煙家の増えるこの時代には珍しい匂いだ。人によって好き嫌いが分かれるであろう、香ばしい香りが辺りに充満する。街のいたるところがそうであるのとは違い、このマンションは禁煙を義務づけられていたわけではなかったと思うが、それでもやはり壁の色は変わってしまうし匂いも付いてしまうので、あまり良くはない。加えて寒くもなく、月の綺麗な夜ともなれば、喫煙家がベランダに出てくるというのも頷ける。
    「……右か?」
     匂いはどちらかと言うと右隣から漂ってきている。白い煙が見えるのだ、間違いない。しかし燐音は確信をもつことができなかった。なぜなら入居してから二年以上が経つが、隣はずっと無人のままだったからだ。隣に誰かが引っ越してきたなど、今までまったく聞いたことがない。
     このマンションはあまり住民同士の交流が活発ではない。それは都会だからというだけではなく、仕事の関係でプライバシーに気を遣う人間が多いからである。それは燐音とて例外ではない。ESに近い場所だから、おかしなことではないと思う。自分が住んでいる場所を知られたら困る人間もいるのだ。
     それでも、隣にく 1864

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