これからを共に「オーバーフロウの特効薬の必要性は分かるし、実際直近であんなこともあった。薬の性能自体もまあ、期待していいとは思う。でもやっぱり、その研究を独断で薦めて倫理を無視してた人が、今のうのうと元の椅子に収まってるのは気に入らないんだよ」
「追放したらしたで、技術が外に漏れるだろ。それこそ、イクリプスにでも渡ったら面倒じゃないか」
「そうだけど。降格でもすればいいのに、元々、あの人何考えてるか分かんないしさ、今講師してたり雰囲気が柔らかくなったなんて言われてるのもなんか、気味が悪い」
ヴィクターがその会話を聞いてしまったのは偶然だった。
講習を終え、講義で使った資料を保管庫に戻しに行く途中だった。
盗み聞くつもりはもちろんなかったが、会議室の扉が僅かに開いていて、中の声が漏れていて思わず足が止まった。
会話の内容は、十中八九彼のことで、ずきりと胸の奥が痛むのをやり過ごそうと努めた。
部屋の向こうの彼らの意見も最もだ。そもそもヴィクター自身、こうして復帰できるなんて思っていなかった。優しくて物好きな仲間が、見捨てずにいてくれたからここにいる。だからヴィクターは、必要としてくれる限りは彼らの力になると決めた。自分を偽らないと決めた。
それを受け入れられない者がいることだって、重々承知している。
対面では普通に接するのに裏で叩かれているなんてこと、幼い頃から幾度となく経験してきたことなのに、言わせておけばいいと分かっているのに、この痛みはいつまでも慣れない。
「グレイ……だっけ? あの子もまあ、いくらヒーローになりたかったとはいえ未完成のものに手を出すからいけないんだ、そこに漬け込んだあの人には嫌悪感がするし」
「13期だってどうせ、ロビンみたいに表沙汰になって面倒になるのを避けたかったんだろ。どうせ皆あの人を嫌って恨んでるって」
「それに気づかないでいるんだったらとんだお花畑だな、天才(笑)じゃん」
「! げ……」
声が近づいてきて、中にいたスタッフが現れ、ヴィクターに気づいて露骨にしまったという顔をした。
「ヴィ、ヴィクターさん……」
「あ! そ、それ講義の資料ですか? 俺たちが直しておきますよ」
あからさまに態度を変えたスタッフに、ヴィクターは努めて平静を装った。
「ありがとうございます。せっかくですが、危険物も含まれるので遠慮しておきます。失礼します」
取り繕うことは得意だ。笑顔の仮面を貼り付けて、なんでもないように振る舞う。幼い頃、マリオンへの読み聞かせのために学んだ演技メソッドがこんなことで役に立つとは思っていなかったし、もう役立てたくはなかったのだが。
足早にその場を去る。
「まだ危険物なんて扱ってるのかよ」
小さく聞こえて声は無視した。
保管庫につき、資料を定位置に戻したところで、彼らの言葉がフラッシュバックしてヴィクターは動けなくなってしまう。
「……、」
よく知らない彼らの悪意ある言葉よりも、13期の仲間のことを信じたかった。
たとえ憎まれていたって、同然のことなのだから受け入れられる。
そのはずなのに。
よぎるのは、今日も質問をしにきてくれた、巻き込んでしまった第一の被験者であるあの子。
彼は自分を恨み、許さない権利がある。彼は優しいから、表立ってそういう態度をとらないだけだ。
そういえば、明日は彼の誕生日だった。
何か贈り物をと考えて、数日前から手配はすませている。優しい彼はきっと喜んでくれる。けれど今さら、不安がよぎる。
元々そういった情緒が足りていないと、何度もマリオンに苦言を呈されてきていた。
「……渡さなくても、いい、ですかね」
きっと沢山プレゼントを貰うから、自分からの分がなくたって気づかない。
本当は、彼にすくわれたのは自分のほうだった。だからいつの間にか自分で引いた一線を越えていたのだ。
だから、勘違いしてしまって。
エリチャンに更新されたグレイの写真を見て、ほっとしたと同時に、ずきりと胸が痛んだ。
結局、ヴィクターはグレイにプレゼントを渡すことはおろか、祝いの言葉をかけることすらできなかった。
自分からの贈り物がなくても最高の笑顔で写っている姿に、渡さなくて良かったと、痛むのをこらえて思い込んだ。
用意した包みを手に取る。包みにつけられたHappy Birthdayのメッセージカードが、いたくてたまらないのはどうしてだろう。
「……もう要りませんね」
日付が変わる数分前だ。今後渡す機会もない。未練たらしく持っているわけにもいかない。
ゴミ箱に押し込んで、深く深く震えるため息をつく。密かに芽生えていた思いも、この包みと共にゴミ箱に捨ててしまえと念じながら。
そのとき、入り口の扉が開いた。どうせノヴァだが、ノヴァに見られたらそれはそれで面倒だと、ヴィクターは平静を装って振り返り、息がつまる。
「こ、こんばんは………夜遅くに、すみません。ヴィクターさんなら、起きてるかなって………」
「………あ……もうすぐ日付も変わってしまいますが、お誕生日おめでとうございます、グレイ」
かろうじて、祝いの言葉をかける。グレイは照れ臭そうに笑った。
「ありがとうございます…。って、なんか、催促しに来たみたいですね……すみません、そういうのじゃなくて………えっと」
グレイはどこか落ち着きがないようすできょろきょろとあたりを見ている。ヴィクターのほうも、こちらはこちらで気が気ではないのだが。
「……すみません。忙しくて、プレゼントを用意できていなくて……。代わりといってはなんですが、コーヒーをいれます、ね」
苦しい嘘をついた。嘘をつくのは慣れているはずなのに、いたかった。
「あ、ほ、ほんとに、催促とかじゃないので、お気になさらず………ヴィクターさんが忙しいのは、分かってますから。あの。僕、ヴィクターさんに言いたいことがあって」
誤魔化すようにコーヒーメーカーの前に移動していたヴィクターの肩がびくりと跳ねた。
「なん、でしょう」
「ありがとうございます」
「………、あ、コーヒーのこと」
「だけじゃないです。すぅ………」
深呼吸をしたグレイは、ヴィクターをまっすぐに見つめた。
「僕がヒーローとして今ここにいるのは、あなたのおかげです。ありがとうございます」
「………、え…」
優しく微笑むグレイは、ヴィクターにゆっくりと近づいた。
「なんだかんだで、そのあたりがうやむやになってたなって思って……。ちゃんと、お礼を言いたかったんです。僕というヒーローを誕生させてくれて、ありがとう」
「………そん、な、恨まれこそすれ、感謝されるようなことは、なにも」
「恨んでなんかいません。あなたがいなかったら、研究をしていなかったら。僕はヒーローにはなれなかったんです。それだけは、絶対に変わらない事実です。誰にも否定されたくない……あなた自身にも」
「!」
逃げようとする手を取って、戸惑って揺れる翡翠の瞳を見上げた。
「………昨日、嫌なことを言われたんですよね」
「………、なぜ……」
「あの会話、僕も聞いてたんです」
「え?」
「僕、というか………タワーのスタッフなら、大体は知ってると思います。あの部屋、というか、二人が使ってたツールのマイクがオンになってたままだったんです。昨日の二人は、今朝司令が呼び出してましたよ」
「………そんなこと、ノヴァも司令も、誰も……」
「気を遣ったんだと、思います。僕も、迷ったけど………ラボにこもってるって聞いて、言わなきゃって。お礼をしたかったのは本当ですけど。…陰で悪口言われるの、嫌、でしたよね」
「…!……あ………」
「僕もわかります。すごく嫌で、痛くて。ひとりぼっちになった気がして。マイナスな意見があるのは色んな人がいるから仕方ないことかもしれなくても、やっぱり痛いのは嫌ですよね。だから、僕は恨んでなんかないって言いに来ました」
「………グレイ………。………、…」
言わなければいけないことが山ほどある。ごめんなさいを、ありがとうを、おめでとうを。
それなのに言葉が喉の奥で絡まってしまう。素直に、感じたままに息をすることはまだ、こんなにも難しい。
それでもこの優しい手を離したくなくてほんの少し握り返したら、グレイはそれに気づいて嬉しそうに微笑んだ。
「………ヴィクターさん。誕生日だから、ひとつだけ、わがまま。いいですか?」
「……私にできることなら………」
「これ………、いただいてもいいですか?」
グレイはゴミ箱に捨てられていた包みを取って、大事そうに抱えた。
「っ、それは………、すみません、用意できていないなんて………ですがそれは、渡せません。一度捨ててしまったものを渡すわけには」
焦るヴィクターに、グレイはふるふると首を横に降る。
「これがいいんです。だってヴィクターさんが、僕のために選んでくださったものでしょう? 僕はその気持ちが嬉しいから」
「………、」
カチリと、備え付けの時計が控えめに日付が変わったことを告げた。