七月十三日の刻印「えー、うむ。と、隣の人はいますか?」
いつになく上ずった煉獄槙寿郎の声が響いたのは、大型バスの中だ。
それに対して、
「はーい!」
と満席の子供達が一斉に声を揃えた。
中ほどの席に着いている杏寿郎も両手を挙げて答える。
槙寿郎はそれでも慎重に人数を確認した上で、運転手に出発の合図をした。
子供で満載の大型バスはそろそろとサービスエリアを出て、まもなく高速道路に合流した。
今日は子供会の遠足、夏休みには一足早いが、子供達には待ちに待った遠出だった。
今年の子供会の世話役を引き受けた槙寿郎は最前列でシートベルトをしめつつ、バスガイドよろしくマイクを握っていた。
剣術道場とは勝手が違い、何度もつっかえながら、それでも手元のカンペ(次男と留守番の妻が書いてくれた)を読み上げる。
「あー、もうすぐ目的地につきます。着いたら自由時間ですが、えー、12時からバーベキューをするので、時間になったら集合してください。それから……帰りは午後三時に水族館の門に集合です」
必死の槙寿郎をよそに、子供達はお菓子を食べたり隣の車に手を振ったりと忙しい。
杏寿郎も隣席に座る幼馴染に声をかけた。
「小芭内はあの水族館に行くのは始めてだろう?」
小芭内と呼ばれた小柄な少年は、色違いの瞳を瞬かせて頷いた。
「うん、水族館なのに、着替えがいるのか?」
膝の上に抱えるリュックサックの中身が気になるようで首を傾げる。
小芭内の知識によれば、水族館とは水槽の魚類を通路から眺める施設のはずだ。
「そうだ、なんなら水着を着てきてもいいくらいだぞ」
杏寿郎は腕組みしてニッコリ笑った。
バスは高速道路を下りて、炎天下の国道を進む。
やがて道路の幅が狭くなり、両側に果樹園が広がった。
様々な果物のイラストの看板が立ち並び、果物狩りの観光客を呼び寄せている。
不意に前方の席から「ああっ!」と声が上がった。
子供達が一斉に見つめたその先には、海が見えた。
「えー、もうすぐ水族館に、あー、到着します。皆さん、その、忘れ物のないように」
たどたどしい槙寿郎の話は、水族館の建物を見て上がった歓声にかき消された。
窓ガラスに張り付くようにしていた小芭内が、杏寿郎を振り向いた。
「あれが水族館なのか?」
道路の下の岸壁の土地に建つ水族館は、道沿いにこそ四角い大きな建物があるが、他はいくつもの小さな建物が点在し、中央には大きな長方形の日除けが見えた。
自分の想定する建物とは全然違う、と小芭内は頻りに首をひねる。
「そうだ、小芭内は魚にさわったことがあるか?」
「それは、あるけど」
「生きている大群だぞ」
杏寿郎の言葉に小芭内は色違いの瞳を丸くした。
「さあ、行こう!」
道沿いの建物は水族館の一部ではあったが、入場口の他は土産物店とトイレしかなかった。
子供達は一気に通過して外に飛び出す。
杏寿郎は握りしめていた小芭内の手を一際力強く引いた。
「わぁ……」
そこには日除けの下に長さ10メートルほどの長方形のプールがあり、その底には水深こそ浅いが中には無数の小魚が泳ぎ回っていた。
「入るぞ!小芭内!」
杏寿郎は下駄箱にサンダルを脱ぐやいなや、底に降りる階段に向かう。
小芭内も言われるままにリュックを棚において後に続いた。
「冷たい……!」
深い所で子どもの膝くらい、裸足で入ると海水の冷たさが心地よい。
杏寿郎はすぐ後ろの海を指差した。
「海水がどんどん入ってるんだ!気持ちいいぞ!」
「それで、魚がこんなに元気なんだな」
手のひらくらいの大きさの鯛やキジハタが勢いよく行き交う。中には脚にぶつかる魚までいる。
捕まえるのはご法度だが、歩き回るだけで楽しい。
水族館のイメージとはまるで違う体験に、小芭内は珍しく海水を蹴立ててはしゃいだ。
「そうだ!エサも売ってるんだ!」
杏寿郎にならって、小芭内もポケットから小遣いの入った財布を取り出し、100円玉を箱に入れる。かわりにポケットティッシュほどの大きさのパックを冷蔵庫から取り出した。
「エビ?」
「そうだ、魚が寄ってくるぞ!」
ごく小さなエビがみっちり入っていて、それをひとつまみ水面に落とすと、魚が我先に突っ込んでくる。
小芭内が掌に載せて差し出せば、さながら手乗りのように直接食べに来る。
「すごい……」
感嘆した小芭内は水面にしゃがみ込んで、餌付けに熱中した。
杏寿郎の背中に水がかかった。
「おォい!」
振り向くと不死川実弥が、楽しそうに足踏みしていた。
「やったな!」
杏寿郎も笑顔で水を掛け返す。
実弥の後ろにいた弟の玄弥も、参加しようと駆け寄って水底に足を取られた。
派手に尻もちをついた弟を実弥が助け起こす。
「大丈夫かァ?玄弥」
「うん、どこも痛くないよ」
「そうかァ、でもそろそろ昼だしなァ」
首にかけたタオルでびしょ濡れになった弟の顔を拭いてやっていた実弥が、「あれ」と声を上げた。
「あいつもずぶ濡れだぞォ」
視線の先にはまだうずくまる小芭内がいて。夢中になるがあまり、ハーフパンツが完全に水に浸かっていた。
「ハハッ!小芭内にしては珍しいな!」
「ああ……」
ようやく気付いた小芭内が肩を落とすと
「よっぽど楽しかったんだろォ」
「そうだ!午後も遊ぶからそのままでも大丈夫だぞ!」
二人に口々に言われて、小芭内は照れ笑いを浮かべていた。
濡れねずみの子供達が席につき、海風が心地よく吹き付けるバーベキュー場は賑やかだった。
さしもの槙寿郎も今日は屋台のビールには目もくれず、忙しくテーブルの間を歩き回って、子供達の世話に明け暮れている。
「みんな、たくさん食べてるか?」
「はいっ!」
元気に返事をしたのは玄弥だった。
早くもデザートのスイカにかぶりついている。
そのそばで、兄貴と我が子が口いっぱいに焼きそばを頬張っていた。
「そうかそうか、良かったなあ」
槙寿郎が思わず目を細めたのは、杏寿郎の隣に座る小芭内がいつになく楽しそうに箸を動かしていたからだった。
午後からもまた水遊びに興じ。
そろそろ時間という所で、槙寿郎が全員をシャワー室へと引率する。
『あの水族館に行くなら、タオルと着替えは必須です』と厳しく言った、妻の慧眼に感服しつつ、全員を着替えさせ、最後はお楽しみのお土産選びだ。
わりとコンパクトな店内で、子供達は押し合い圧し合いしつつ、自分へのぬいぐるみや文房具を吟味していた。
「小芭内、買ったか?」
「うん、家族に持って帰る」
はにかみながらクッキーの詰め合わせを抱いている小芭内の手を杏寿郎が取る。
「もし、おこづかいが残ってたら……」
「えー、これから、バスは高速道路に入ります。なので、あー、必ずシートベルトをしていてください」
槙寿郎の言葉をよそに、玄弥が通路に身を乗り出して、向こうの席に声を掛ける。
「ねえねえ、……あれ」
窓側にいた実弥も重なるように覗き込んで、忍び笑いをした。
「寝かせといてやれェ」
傾いた陽のあたる座席で、杏寿郎と小芭内が互いに寄り掛かって眠っていた。
身体の下で繋がれた手には、今日の日付が刻まれた、揃いの記念メダルが握られていた。