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    hidari

    イラストまとめ→https://www.pixiv.net/users/383295
    ウタホノタタリ→https://twitter.com/utahonokousatu

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    hidari

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    ウタノを主人公とした現作(哥欲祟1・2)準拠の二次創作小説
    pixivに投稿したものです。
    https://www.pixiv.net/novel/show.php?id=20147433

    第一改変  たすけて 


     確かにそう聞こえた。

     私は私の家族を失い、正気では無かったのかもしれない。
    もし私が正気であったなら、母の遺体を見つけてすぐに警察へ向かっていただろう。
    なのに私はそうしようとせず、何かに駆り立てられるように家中を探った。


    1.
    1997年8月20日、祖母が失踪した。
    近所にある神社の掃除へ出たきり、行方が分からなくなったのである。
    その日を堺に、私の家では奇妙な現象が起こり始めた。
    妹のリノは「どこかから声が聞こえる」のだと言い、母は「勝手に椅子が動いた」と主張した。
    私と父も天井裏からの奇妙な物音を耳にする事が度々あった。
    ギシギシと軋む張りの音に、時折カカカという何かを爪で引っ掻くような音が交じる。
    「鼠だろうね。」
    仕事から帰った父は、革靴を脱ぎかけた手を止めて天井を見上げた。
    「パパ、明日ネズミ捕り買って来てよ。」
    「うん。でも、天井裏への入り口なんて合ったかなぁ。」
    パパの部屋には無いなぁ、と父が後ろ頭を書く。
    私は父のビジネスバッグを胸に抱きながら、上がり框に座り直した父の後頭部を見つめた。
    「今日は家で寝たら?」
    靴紐を結ぶ父の手が一瞬止まって、すぐにそれを締めた。
    「そういうわけにもいかないよ。」
    父は勢いよく立ち上がると、笑顔でこちらを振り向いた。
    「……パパ、縮んだ?」
    「上がり框だから!」
    父が吹き出す。
    私達はわざと明るく笑い合うと、父はバッグを高く持ち上げ、私は手を降ってそれを見送った。

    玄関が閉ると、キイと音を立ててリビングのドアが開いた。
    首を回すと柱の影から首だけを出した妹が虚ろな目でこちらを見つめていた。
    「お姉ちゃん。」
    「……リノ。どうしたの。」
    「怖いよ、お姉ちゃん。」
    涙目で座り込んでしまったリノを抱きしめ、頭を撫でる。
    「パパがね、良いお医者さんを見つけてくれるんだって。」
    「……。」
    「だから、きっと大丈夫だよ。」
    「……。」
    車のエンジン音が徐々に遠ざかっていく。
    二人の息遣いだけが響く廊下で、妹は静かに涙を流し続けた。
    青い隈に縁取られた灰色の瞳が静かに虚空を見つめ、微かに息をしている。
    祖母が居なくなった事が余程ショックだったのだろう、妹の精神は限界のようだった。
    私は指先で妹の頬をそっと拭うと、肩を貸し、私の部屋の布団に一緒に入った。

    母は今日も警察署に出かけている。父は知人の伝手を便り良い精神病院を探している。
    私は妹の耳を塞ぐように毛布を被せ、目を閉じた。

    誰もそうとは言わないが、家族の誰もが家で起きる怪奇現象に祖母の影を感じていた。
    虫の知らせとでもいうのだろうか。
    誰もいない部屋からの異音、何者かの視線。
    家長でもある祖母の失踪は私達家族に少なからぬ動揺を与えたが、中でも妹の怯えようは酷いものだった。
    恐怖で眠れない日が続いているらしく、このままでは体も壊しかねない。
    それは父にも母にも言える事だ。
    そんな中で、私だけがいつも通りに振る舞い、いつも通りに生活をしていた。
    何も祖母の事が平気だったわけじゃない。
    ただ、私は一日も早く家族の日常を取り戻したいと、それだけを願っていた。
    そんな私にできる事は、いつも通り元気に振る舞う事だけであった。
    玄関の方から微かな物音がし、母の小さな声が聞こえる。
    「おかえり。」
    私はリノが起きぬよう口の中だけでそう呟くと、深い眠りに落ちた。

    翌朝目覚めると既に妹の姿は無く、時計の針は真上近くを指していた。
    眠すぎて眠い目を擦りながら起き出すと、リビングにいた母から「休みだからって」と軽い小言を頂戴する。
    私は遅い朝食を食べながら、父と妹が先程出かけた事を聞かされた。
    妹は精神病棟を併設する病院へ今日から数日間の入院が決まったらしい。
    そこは父の勤め先である佐藤総合病院の系列で、院長の計らいにより、父もしばらくそこで診療に当たるという事だった。
    2人共大丈夫かしらねぇ、と母がため息交じりにこぼす。
    その顔は憔悴しきってはいたものの、妹の入院が決まった事でどこかほっとしているように見えた。
    私は母の淹れてくれた紅茶を飲みながら、大丈夫だよと答えた。

    その日の夜、母と私が二人分の夕食を済ませた頃に電話が鳴った。
    父の勤務先の佐藤総合病院からである。
    何でも父が今朝病院へ挨拶に立ち寄った際、私物を忘れていったとの事だった。
    私は洗い物中の母に代わり、父の忘れ物を受け取りに行く事にした。


    「ただいまー!!
    誰もいないのかな?」

    元気よく玄関扉を開け、時間帯に思い至り声を潜める。
    病院を出た時には既に日付が変わっていたから、今はもう深夜1時頃だろう。
    応対してくれた父の同僚であるという医師は、父とは旧知の仲らしかった。
    私とは初対面だったが、彼は家の事情も知っていたため、ついつい話し込んでしまったのである。
    車で送ろうかと何度も聞かれたが、夜勤中の彼を煩わせるわけにもいかず、私は一人帰路に着いたのだった。
    玄関で靴を脱ぎ揃える。
    振り返った家の中はしんとしていて、やはり人の気配は無い。
    外から家の明かりが見えたから、てっきり母がまだ起きているものと思ったが、もう寝てしまったのだろうか。
    上着をコート掛けにかけた所で、肝心の忘れ物を受け取っていなかった事に気がつく。
    だが、今から病院へ戻る気にはなれなかった。
    私は小さくため息をつくと、リビングへ向かった。

    近場で手を洗ってしまおうとリビングに面した台所に向かう。
    柱の陰から覗き込むと、シンクには汚れたままの食器類が積まれたままであった。
    よく見れば、それらの食器は私が出かける際に母が洗っていたものだった。
    (もしかして、警察から何か連絡があって出かけたのかな。)
    頭の中を都合の良い想像と最悪の想像が同時に過り、私は小さく首を振った。
    これを洗って母を待とうと、シンクの隅から泡の残ったスポンジを取り蛇口をひねる。
    だが、いくらひねっても何故か水は出なかった。
    蛇口の故障だろうか。
    母から何か書き置きでも無いかと辺りを探すが、特に変わったメモは無い。
    私は適当に手を拭くと仕方なく台所を出てリビングに戻った。
    ソファに手をつき、リモコンを手に取る。
    だが、いくら電源ボタンを押してもテレビは点かなかった。
    近付いて見ると、コンセントは入っているのに主電源のランプが消えていた。
    故障だろうとリモコンをソファの上に放り投げたところで、ふと時計が9時のまま止まっている事に気がついた。
    丁度私が出かけた位の時間帯だ。
    揃いも揃ってついていないなと思いながら、とりあえず時計の変えの電池を探す。
    当たりをつけて棚の扉を開けようとした所で、隣の壁に掛かっていたカレンダーと壁の間に何か紙のようなものが挟まっているのが見えた。
    何の気無しにそれを引き抜くと、ザラリとした古い紙の質感が指先へと伝わった。

    【山野家戸籍表】

    「なにこれ?おばあちゃんのかな?」
    『山野家戸籍一覧』と記されたその紙には、一九四八年当時の私の家族の名前が連ねられていた。
    かつてこの家は、祖母とその夫に二人の娘、それに犬の5人家族で暮らしていたらしい。
    祖父の名前の一部と母に当たる長女の名前の文字が滲んで読めなくなっている。
    この中で私が知っているのは、祖母である『百合』と、消えてしまっている母の『カホ』という名前だけだ。
    祖父は私が生まれる前に既に鬼籍に入っており、叔母の『沙世』も幼くして亡くなったのだと聞いている。
    だから私はこの二人の事をほとんど知らない。
    戸籍に犬の『ゴロウ』が入っている事から、これは誰かの手作りなのだろう。
    何かの記念だろうか、後で母に聞いてみようとそれを大事にポケットに仕舞う。
    ……それにしても、何故今になってこんな物が出てきたのだろうか。
    私はカレンダーの裏を捲り何の変哲もない壁を見つめ、それを元に戻した。

    何やら家の中の様子がおかしい。
    テレビや時計の故障はまだ良いとしても、水が使えないとなると話は別だ。
    トイレは普段祖母が使っている廊下の突き当りのものを借りれば良いが、古い便槽の上に洋式便器を設置しただけのそこを使うのは少し抵抗があった。
    私は洗面所と浴室を確認すべく、リビング奥の扉を開く。
    開きっぱなしの浴槽の床に転がるあれは…………。
    2.
    それを母と認識した瞬間、私は反射的に嘔吐した。
    胃の中のものが喉に向かってせり上がって来るのを抑えきれずに、口から溢れ出た汚物が血塗れのタイルに広がる。
    全てを吐き切って尚えずき、引きつりそうになる喉を必死で抑えながら母であったものの前に跪く。
    吐瀉物が血と混じり合いながらなだらかな傾斜を下り、排水溝に投げ出されていた母の腕を汚していく。
    その薬指に嵌められた指輪が汚泥に沈むのを見て、私は酷く後悔していた。
    「外れないのよ」とどこか幸せそうにぼやきながらも、いつも着けていたあの指輪。
    私は震える手を蛇口へ伸ばし、やっとの事でカランをひねる。
    だが、どんなにそれを回しても吐水口から水が出てくる事は無かった。
    蛇口が空回りを始めた頃、私はようやく諦めてそこから立ち上がった。
    視界の端に厚みのある赤黒い液体をぼんやりと捉えながら、どこか遠くでガラスの割れるような音を聞いた気がした。

    どこをどう歩いただろう。
    気がつくと私は自分の部屋の前に立っていた。
    私の右手がごく自然にノブを握り回すのをテレビの中の出来事の様に視界に捉えながら、手の中に感じる冷たい感覚だけがリアルだった。
    室内を数歩歩いた所で靴下越しに妙な感触を覚えて視線が下る。
    見慣れたフローリングの床には、一面を覆い尽くすように紙の御札が貼られていた。
    「……なんなのこれ。」
    酷く驚いたはずなのだが、私の心は静かなままだった。
    現実感が無く、まるで夢の中にいるようだ。
    私は疲れから固く目を閉じてベッドへ倒れ込み、額を壁に押し当てるようにして背を丸めた。
    私が見てきた事が全て現実だったとしても、夢であればと願わずにはいられない。
    暗い瞼の裏には真っ赤な浴室の光景や先程見た御札、家族の笑顔や幸せだった頃の思い出が去来する。
    まるで明滅するように切り替わる記憶を眺めながら、私はそれらがやがて暗闇になるのを待った。

    ……どれくらい時間が過ぎただろう。
    1分か、それとも1時間か。
    時計が止まってしまっているため正確な事は分からないが、まだ夜は明けていないようだった。
    私は伸びをするように上半身を起こしひねると、御札で白くなった部屋の床が見えた。
    こうも一面に貼ってあっては、避ける事等出来やしない。
    私は仕方なくそれらを踏みつけながら、祖母の部屋へ行ってみようと思った。

    シンと静まり返った廊下に、ドアを閉める音だけが響く。
    かつては祖母の部屋へ向かう度に遠ざかっていった賑やかな喧騒も今は無い。
    5日前に祖母が失踪するまでは、いつもリビングから漏れ聞こえる音を遠くに感じながら廊下を曲がったものだった。
    家族が増える度に増改築を繰り返してきた家の中で、祖母の住まう区画だけが建設当時のままの様相を呈していた。
    薄暗くひっそりとしたそこを訪れる度に私が足音を忍ばせていたのは、何も祖母からの躾のためだけでは無かった。
    今日もいつもの癖で静かに廊下を歩く。
    私はこれまでに何度もここを通ったが、祖母の部屋の中を見た事は一度も無かった。
    祖母は母以外の家族に部屋への立ち入りを固く禁じており、私達が外から呼ぼうとも決して中を見せようとはしなかったのである。
    何故だろう、と疑問が頭をもたげかけた時、一瞬右目の奥に鋭い痛みが走り視界が赤く染まったような気がした。
    ギシリと床板を鳴らして立ち止まると、そこは丁度開かない襖の前だった。
    祖母の部屋への入り口は二箇所あり、廊下の手前側の襖は長年使われていなかったためか開かない。
    試しに引き手を引こうとしたが、やはり扉は固く閉ざされたままだった。
    疲れのせいか、額にじっとりと嫌な汗が滲む。
    無意識に胸元に触れた左手に、内ポケットに潜ませたお守りの硬い感触が伝わった。
    思えば、私は祖母について何一つ知らないのだ。
    祖母がくれたこのお守りのご利益も、祖母が熱心に信仰していた神様や神社の名前さえ。
    私の胸に仕舞われているこのお守りだけが、私と祖母の失踪とを繋ぐ唯一の手がかりのように思えた。
    私は目の前の襖を諦めて、廊下の奥へと進み襖へ手を伸ばした。

    (おばあちゃんの部屋だ。
    入ってはだめときつく言われていたから、入るのは今日が初めてだ。)

    スーッという敷居の擦れる音と共に襖は難なく開いた。
    開けた視界の先には、真正面からこちらを見返すように黒漆の仏壇が置かれていた。
    仏壇の左隣の壁には天井裏への梯子が伸びており、右側には床の間のような板張りの空間が設けられていた。
    その板の間は畳より一段高い位置に作られており、天袋の上には大和絵に描かれるような丸い房飾りの付いた豪華な簾が巻き上げられていた。
    手前には床を照らすように背の高い燭台が置かれていたが、板の間自体は空で現在使われている様子は無かった。
    板の間の左側には立派な屏風が立てられており、その奥には空の古い書棚が設置されていた。
    仏壇を覗き込むとそこに先祖を思わせる位牌の類は無く、上段の開いた扉の奥に御本尊と思しき木札が祀られているのみであった。
    家は神道系のはずなので、仏教の仏壇とは仕様が異なるのかもしれない。
    私は少し迷ってから、きっと祖母がそうしていたように仏壇の前で手を合わせて拝んだ。
    ……祖母が家族にこの部屋への立ち入りを禁じだ理由は何だろう。
    私は顔を上げ、天井板の一角に空いた深い穴を見つめた。
    その穴は墨を流したように暗く、梯子の先さえ見えない。
    (何かあるとすれば、神棚だろうか。)
    私は意を決して、天井から降りた梯子に手をかけた。
    登りながらふと振り返った部屋の片隅に、内側からびっしりと御札が貼られた開かない方の襖が見えた。


    耳鳴りがする。
    低く唸るような重低音を頭の中で聞きながら、私は薄暗い屋根裏部屋へ降り立った。
    古ぼけた電球の昏い光に照らされたそこは酷く不気味で、座敷の中央に置かれた古めかしい鏡台が空間の異様さに拍車をかけていた。
    足に体重を乗せる度に腐りかけた畳が頼り無く沈む。
    私が鏡台を覗き込んだ時、既にそれは割れていた。
    細かい線の走った鏡面は私の姿を映す事無く、黒い影を疎らに捉えるのみであった。
    四方の壁には湿気のためか染みが浮き、天井付近には既に主を失った蜘蛛の巣が膜のように折り重なっている。
    薄暗い中でも、ここが相当長い間放置されていた事が窺えた。
    視界が悪いため辺りを手探りで確認すると、指が積もった埃を掬う。
    膝を立てて梯子の付いた天井板を調べれば、どうやらこの梯子は留め具が外れる事で下に降りる仕掛けになっているらしかった。
    下に留め具を外すような道具は見当たらなかったが、ここはいつから何のために開いていたのだろうか。
    這うようにして周囲を探る。
    鏡の台に手を伸ばすと、指先にゴワリと硬い和紙の感触が伝わった。
    顔を寄せて見れば、そこには【魔除け】と書かれた札が貼られていた。
    口元を袖で覆って数度咳き込む。
    どうやら驚いた拍子に埃を吸い込んでしまったらしい。
    私はますます酷くなる耳鳴りに、ここでの探索を断念する事にした。
    息を止めたままどうにか梯子を降りきると、仏壇の前で息をつく。
    呼吸が整うにつれ先程までの酷い耳鳴りも鳴り止んだ。
    梯子を登った前と後とでこの部屋の景色がどこか違って見えるのは、神経が過敏になっているせいだろうか。
    絡まった思考を追い出すように、深く深く息を吐く。
    息を吐ききって落とした視線の先に、今更おりんがある事に気がついた。
    (おばあちゃんも、仏壇の場所を移してくれれば良かったのに。)
    私は一族から仲間外れにされたような一抹の寂しさを覚え、ろくに作法が分からないながらもそれを鳴らしてみた。

    リンリーン。

    凛とした音色が空気を震わせながら辺りに広がっていく。
    その音響は、家の中の重苦しい空気をいくらか浄化してくれたように思えた。
    おりんが鳴り止み静寂が訪れると同時に、私の頭に「通報」という当たり前の考えが閃いた。
    どうして今まで気が付かなかったのだろう。
    母の遺体を見つけた時に、真っ先にするべき事だったろうに。
    腰を上げて走り出そうとする私の耳に、カタンと。
    上の方で物音がした。
    3.
    屋根裏部屋からは鏡台が消え、畳一面に貼られた御札の中央に古びた棒鍵が落ちていた。
    私は鍵を拾い上げ、指先に微かに残っていた魔除けの札の感触と擦り合わせる。
    それはどちらも確かなもので、この不可解な現象が間違いなく現実のものである事を思い知らされた。
    スカートのポケットに鍵を捩じ込む。
    薄暗い照明の中でも、鏡台の部屋を調べた際に煤けた膝が確認できた。
    私が最初ここに来た時、鏡は既に割れていた。
    部屋に変化が起こったのは、恐らく階下で物音を聞いた時だろう。
    両指でこめかみを押さえ、その時の状況を思い出す。
    屋根裏部屋から聞こえた音は、どんな音だっただろうか。
    閂の抜けた音、箪笥の引き出しを開ける音、床に落とした棒を引き摺る音……。
    「……どこかの襖が開いた音。」
    思い至った答えに顔を上げて辺りを見回すが、そこには四方を壁に囲まれた小さな座敷があるだけであった。
    私は試しに右手の壁を軽く叩いた。
    劣化した壁面は存外柔らかく、パラパラと塵を落としながら鈍い音を立てた。
    少し位置をずらして再度壁を叩くと、また同じような音がする。
    何度かそれを繰り返すうちに、正面の壁の柱に行き当たった。
    左右の柱を避けて中央の壁を叩こうとした時、突如として心臓が粟立った。
    急速に脈を早めた鼓動に悪寒が全身へと駆け巡る。
    構えた右腕は胸の前で静止し、そこだけが金縛りに遭ったかのように動かない。
    自分の浅い呼吸が狭い室内に反響し、壁の向こうに恐ろしい幻覚を描いていく。
    それはまるで壁の向こうからこちらを窺っている何者かの気配のように思われた。
    私は煩い心臓を押さえつけ、ふっと息を止めた。
    (恐怖は思考を鈍らせる。)
    私は右手を僅かに動かすと強く拳を握り直し、正面の壁に叩き込んだ。
    重く鈍い音が響き、天井からパラパラと埃が舞う。
    だが汚れが染み付いた壁はただそこに有り、それ以外に何の反応も示さなかった。

    痛む右手を軽く振って梯子を降り、降りきった所で大きく息を吸い込んだ。
    いくら薬を常用しているとはいえ、喘息持ちの私にとってあの空間は耐え難い。
    明るい部屋の中で確かめた右手は側面が少し擦りむけており、赤くなった皮膚には壁材であろう粉状の汚れが付着していた。
    私はそれを左手で乱暴に払うと、ポケットから拾った鍵を取り出した。
    父の部屋の隣にある【空き部屋の鍵】である。
    この鍵は古いものなのか、他の部屋の鍵とは形が違う。
    私が生まれた時には既に開かずの間だったそこは、鍵を無くして以来ずっと空き部屋と聞いている。
    偶然鍵を落としたにしては、あまりに不自然な話である。
    まるで封印されるように屋根裏部屋にあったこの鍵は、誰かが故意に隠したと見るべきだろう。
    ……だとすれば、畳一面に貼られた御札の役割は目眩ましだろうか。
    私は和室の一方の襖に貼られた御札を眺めながら、まるで「耳なし芳一」のようだと思った。
    (一体誰が、何から、何のために?)
    私は鍵を握り直すと、真相を確かめるべく空き部屋へと向かった。

    途中玄関前の廊下に差し掛かったが、「警察に頼る」という選択肢は私の中から消え失せていた。
    服は埃だらけで、嘔吐のために喉はひりついている。
    屋根裏部屋からは異音がし、壁を殴った右手には数十年前に無くした鍵が握られている。
    この全てが現実に起こっている事ならば、私は私自身の手で真実を探らなければならない。
    東側の廊下に入ると、突き当りの棚に置かれたピエロの人形がこちらを向いて微笑んでいた。
    いつもと何も変わらない、何の変哲もない風景である。
    私は空き部屋へ向き直ると、緑青の浮いた鍵穴に古びた鍵を滑り込ませた。
    4.
    後ろ手に閉まる扉の音を聞きながら、私は息を呑んだ。
    そこはまるでキリスト教の聖所のような、西洋風のごく狭い一室であった。
    床には縁に金糸の刺繍が施された赤い絨毯が敷かれ、その中央には真鍮の燭台を頂いた正方形の台座が据えられていた。
    台座を覆う白い敷布の影に落ちていた【古びた大鍵】を拾い上げる。
    元はこの祭壇に祀られていた物だろうと鍵を翳すが、朽ちかけたようなその鍵は、経年の劣化を感じさせないこの空間に酷く不似合いな物に思えた。
    私は部屋を見回し、聞きかじった聖句の一節を思い出す。
    「時は満ちた、神の国は近付いた、福音を信じよ……だっけ?」
    妹はこういった事に何かと詳しかったが、私はあまり得意では無い。
    ―悪魔による支配の終わりと、神による支配の始まりを表す言葉。
    ―祭壇の四方から世界へ福音が広がるという予言。
    私は考えるのを諦め、いつの間にかぶり返していた耳鳴りに耳を塞いだ。
    耳の奥から聞こているそれに、もちろん大した効果は無い。
    まるで開かなくなった当時から時間が止まっているかのように見えるこの部屋にも、経年の埃が溜まっているのだろうか。
    それにしても家は、少なくとも祖母の宗教は神道系のはずである。
    家に熱心なキリシタンがいたとも思えないが……もし可能性があるとすれば、祖父だろうか。
    私はポケットからリビングで見つけた戸籍表を取り出し、それを祭壇の上に広げた。
    『山野家戸籍一覧 一九四八 夫・重■(旧・新指)』
    入婿であった祖父が婚姻以前に山野家とは異なる信仰を持っていたとしても何ら不思議では無いが、果たして祖母はそれを許したのだろうか。
    厳格な当時の事である。
    いくら信仰の自由が認められたとはいえ、本家の家長である祖母にとってそれは簡単な問題では無かっただろう。
    それにもし祖母が許したとしても、祖父にこのような部屋を作る権限は……。
    そこまで考えて、私の背筋に冷たいものが走った。
    (もし、影響を受けたのがおばあちゃんの方だったとしたら?)

    祖母の部屋で見てきた事を思い出す。
    立派な簾の巻き上げられた空の聖所。
    屋根裏部屋に御札と共に隠されていた空き部屋の鍵。
    位牌の無い仏壇に祀られていた立派な木札。
    ……あれは、あの木札は。

    私の中で点と線が繋がっていく。
    私は震えそうになる指で戸籍表を折り畳み、慎重にポケットの奥へと仕舞った。
    部屋を出ようとノブに伸ばした手の先で、いつの間にか半開きになっていた扉が音を立てて閉まった。
    私は間髪を入れずにそれを開け放ち廊下へ走り出たが、当然のようにそこに人の気配は無かった。
    こちらを向いて微笑んでいるピエロの人形を尻目に廊下を走る。
    玄関前を突っ切り奥の襖から祖母の部屋へ入ると、そのまま反対側の襖へ移動し内側に貼られた御札に爪を立てた。
    経年のためか襖と一体化してしまったかのような御札は、繊維同士が絡みつき一向に剥がれる気配が無い。
    私は襖に指を突き入れ襖紙ごと無理矢理御札を剥ぎ取ると、その紙片を握りしめ仏壇の前へ向かった。
    そこには、梯子を降りた直後に微かに感じていた違和感の正体があった。
    仏壇の上段の扉からは、既に木札は消えて失せていたのだ。
    扉の中の黒い底板に微かに積もった埃は、祖母が失踪してからの日数を思わせた。
    私は古ぼけた紙片を掲げ、その符号が記憶の中の木札と一致している事を確かめる。
    あれは、神の目を盗むための護符だったのだ。
    祖母の日頃の熱心な行いは信仰心から来るものでは無く、恐らくは家族を守るためのものだった。
    それに綻びが生じたのは、いつからだったのだろうか。
    手の中でぼろぼろになった紙片がひしゃげる。
    いずれにせよ、もうこの御札に効力は無いのだろう。

    カタン。

    袖で目元を拭う私の頭上で、再び戸が開く音がした。
    古い畳を踏みしめる微かな振動が、梁を伝って階下の空気を震わせる。
    私は漠然と、かつて祖母が信仰していたであろう神の存在を思った。
    (きっと私は、真実を目の当たりにする事が出来る。)
    やがて姿を表すであろう何者かを、私は穴の下で待ち構えた。
    左から右へ。手前から奥へ。
    それはゆっくりと壁を伝うように移動した後、ようやく梯子に足をかけた。
    徐々に姿を表したその人物の長い黒髪を認めた時、私は叫ぶようにその名を呼んだ。
    「リノ!?」
    静まり返った室内に、私の声が甲高く響く。
    「あ、お姉ちゃんおかえり。」
    彼女は何事もなかったかのようにこちらを振り返ると、梯子を降り、愕然とする私の横をすり抜けた。
    5.
    妹を振り返った時、彼女の姿は影も形も無かった。
    あれは幻だったのだろうか。
    私の気が確かならば、妹はまだ家の中にいるはず……。

    妹の部屋をノックし声をかけるが、当然のように中は無人であった。
    部屋がいつもより殺風景に見えたのは、入院のために荷物を持ち出したせいだろう。
    普段机に置かれている教科書の類も見当たらなかった。
    忘れ物だろうか、ベッドの上に無造作に置かれていたノートを何気なく手に取る。
    パラパラと捲ったページには妹らしい几帳面な文字が並んでいた。
    私はそれを読むともなしに眺めながら、私の字とはまるで似ていないな、と思った。

    私達は双子である。
    性格は全く違うが、二卵性とはいえよく似た姉妹だと思う。
    子供の頃はよくお互いに間違えられたが、今でも服装さえ変えてしまえばそっくりに見えるに違いない。

    小さい頃の妹は、私の物をよく欲しがる子供だった。
    両親は私達を分け隔てなく育てたが、何しろ田舎の古い家の事である。
    長子である私と妹とで扱いに違いが生じる部分も多少はあったと思う。
    今思えば、妹はそういった姉妹の差に敏感な子だった。
    (私の方がほんの少し先に生まれただけで。)
    私は胸に手を当て、お守りの感触を確かめる。
    いつも身に着けているこのお守りも、昔私だけが祖母から貰ったものだった。
    幼い妹がこの渋いお守り袋を本気で欲しがったとは思えないが、それでもリノは私と一緒が良いのだと大泣きした。
    それを見かねた父がデパートで妹にだけ可愛い指輪を買ってきたものだから、今度は私が泣く番だった。
    祖母や父に何ら悪気が有ったわけでは無い。
    現にその時の父の慌てようは凄まじく、泣いていた私が思わず吹き出してしまった程だった。
    父を咎めていた母も、祖母も、妹も、みんな一緒になって笑いあった。
    笑顔の絶えない、本当に仲の良い家族であったと思う。
    ……それが、こんな事になるなんて。

    親指と人差し指の間からページが滑り落ちて行く。
    目の前を流れていく文章の一文を理解した時、私は慌てて手を止めページを拾い上げた。

    『心霊現象と深く関係しそうなこと』

    【妹のノート】には家の出自やそれに関する出来事等が簡潔にまとめられていた。
    かつて祖母が暮らしていた村で信仰されていたという独自の宗教。
    そこに持ち上がった周辺地域の大規模な土地開発計画。
    治水工事によりその地を追われた村人達と、ダムに沈んだ村の祟りによって閉鎖されたという計画関連施設の数々。
    廃墟となったそれら施設には、村に関する資料が現在も封印されているのだという。

    『新街改革計画』という事業や建物に心当たりは無かったが、少資料内の観光ホテルがあったとされる場所には見覚えが有った。
    家から程近いその地域はかつて山上リゾートとして栄えた場所で、ホテルの跡地はその山麓であるらしい。
    その辺りには、かつて利用されていたロープウェイやケーブルカーの廃線が当時のまま残っているという噂があった。
    改めてページを戻り、ノートを最初から読み直す。
    「家の宗教は哥欲教。
     ……神の名前は哥欲神。」
    ノートを読み返しながら、口の中でその名前を呟く。
    信仰を失くして久しい神の名を、こんな所で知る事になろうとは。

    ノートの信憑性の程は分からないが、一つだけ確かな事は、妹が祖母の失踪とかつての村の祟りとを結びつけて考えていたという事である。
    本来ならば、村を追われた被害者の立場である祖母に祟りが及ぶ事は無いだろう。
    だが、妹はそうは思わなかった。
    私はノートを三度読み返し、その一文を指でなぞった。
    『村の資料は、新街改革計画で建設された建物の中に封印されているらしい。』
    この文章の示す所は恐らく、内通者の存在だ。
    村人の中の誰か、もしくは複数人が当時新街改革計画に深く関わってたために、村は隠滅されるに至った。
    計画関係者へ下ったという『祟り』が神を裏切った村人達に対するものであったとすれば、関連施設に村の資料が『封印』されているという噂にも納得がいく。
    祖母が仏壇に祀っていた物は、神を封印する御札そのものであったのだろう。
    そして祖母が熱心に通っていた神社は、哥欲神を封印するための『新街改革計画で建設された建物』の一つだったのだ。

    ノートを閉じて息をつく。
    妹や私がそう思った通り、祖母は祟りを受けたのかもしれない。
    だが、私は祖母を信じている。
    例え祖母が過去にした事が全ての出来事の発端であったとしても、祖母が今まで私達家族を守ろうとしてくれていた事に変わりは無いのだ。
    「……信じている。」
    私は語りかけるように胸のお守りに手を当てた。
    例え祟りを為す神であったとしても、祖母がかつて信じていたこの神も、私は信じる。


    ノートを小脇に抱え、妹の部屋から手頃なバッグを拝借する。
    私はこれまで集めた資料と共にそれを持ち歩く事にした。
    妹の洋服箪笥にはやはり私の服が仕舞われていたが、いつもの事とそれを箪笥に戻す。
    その服は私のお気に入りの黒いブラウスだったが、きっと妹の方がよく似合う。

    昨晩憔悴しきっていた妹の様子を思い出す。
    恐らく妹は、父と一緒に家の事を調べていたのだろう。
    ノートの冒頭にある宗教研究科なる人物は、年齢からして父の同窓なのかもしれない。
    父がここ数日飛び回っていたのは、妹の入院先を探すためだけでは無かったのだろう。
    父と妹の安否を思う。
    恐らく彼らは既に引き返せない所まで来ていて、それでも家族を巻き込むまいとしていたに違いない。
    ……母は、どうだろうか。
    祖母の実の娘であり、あの部屋で寝食を共にしていた母が何も知らないわけは無い。
    昨日の昼間、父と妹を心配していた母の少し疲れたような表情を思い出す。
    つい数時間の出来事なのに、私にはそれが遠い昔の事のように感じられた。
    (お母さんが何故?)
    頭の中に浮かんだ浴室で見た母の遺体は何故だか酷く朧げで、タイルに広がる強烈な赤と排水口へゆっくりと流れていく汚濁だけが鮮烈に思い起こされた。
    再び胃酸が込み上げてくる不快感と同時に、ふと違和感が首をもたげた。
    祖母の失踪と母の死。
    この2つを同じ『祟り』と考えるには、あまりにも状況がかけ離れているような気がしたのだ。
    祖母は恐らく、何らかのきっかけで神社の封印が解かれたために、五十年前の祟りを受けて姿を消した。
    一方母は、自宅の浴室で首の無い死体となってその形跡を残している。
    これらが一族に及ぶ類の祟りであったとしても、私が無事でいる理由が分からない。
    また、新街改革計画に関して言うならば、母は全くの無実のように思われた。
    私は一連の出来事について考えるうちにある一つの可能性に思い至り、眉根を寄せた。

    (祟りを起こしている人物は、一人では無い……?)

    神を人物と数えるのはいかがなものか、と頭の隅でどうでもいい事を考える。
    もし本当にそうだとすれば、母の遺体に真実への鍵が隠されているかもしれない。
    私は未だ喉に留まっていた不快感を唾ごと飲み下し、立ち上がった。

    不意に学習机の椅子が動いた気がして机の下を覗き込んだが、机の下には何もなかった。
    6.
    リビング奥の扉を開ける。
    開け放たれた浴室の床には、こちら側に向けて晒された赤い断面が見えた。
    その胴体は鎖骨から上がごっそりと抉られており、白みを帯びた薄い肉の間からは暗赤色の液体が力無く零れ落ちていた。
    胴体の横にできた血溜りの周辺には広範囲に渡って血飛沫の跡が有り、それが首を取られた時のものであると容易に想像できた。
    血の勢いからして、恐らくこれが死因だったのだろう。
    水道がいつから止まっていたのかは分からないが、浴室で血を洗い流した形跡は無い。
    それにも関わらず、脱衣所やその周辺には血痕一つ見当たらなかった。
    頭部はどこへ消えてしまったのか、いずれにしろとてもこれが人間の仕業とは思えなかった。
    何者かが首を持ち去っ
    「あああああああああああ!!!」

    私は突如として湧き上がった狂気を喉から迸らせた。
    浴室に幾重にも反響する悲鳴は、正に狂人のそれであったのだろう。
    自分の頭を両腕で掻き抱くように抱え込み、下を向いた両目から溢れた涙がぼろぼろと血飛沫の跡を濡らした。
    温い塩水に血の粒子が溶け出しタイルが滲む。
    (オカアサンオカアサンドウシテナンデオカアサンナンデナンデ)
    母の遺体を平気で見下ろしていた自分自身が信じられなかった。
    私の行動はいよいよ冷徹になり、今にも心と乖離してしまいそうだった。
    溢れ出した感情を押し流すように嗚咽する。
    喉元を押さえ咳込んだ瞼の裏側に、父と妹の姿だけが闇を照らすように浮かんでいた。
    私はいつの間にか浅くなっていた呼吸を無理矢理飲み込み、十分な時間を置いてからゆっくりと息を吐いた。
    涙でぐしゃぐしゃになった顔を袖口で拭いながら、深呼吸を繰り返す。
    ……私にはまだ、冷静でいるべき理由があるのだ。
    私は苦しさの残る胸を押さえながら、先程からカランの下に見えていた鍵を拾い上げた。
    ストラップホールに不細工なお守り袋が括り付けられているそれは、家を開けがちな父がいつも持ち歩いている【父の部屋の鍵】に違いなかった。
    鍵に血痕が付着していない事から、やはりこれは私が一度ここを去ってから置かれた物である事が分かった。
    (……これは、何?)
    胸の中がざわざわと粟立つ。
    私の勘違いでは無く、この鍵が本当につい先程置かれたのだとしたら、一体誰が……?
    私は咄嗟に腰のポケットをまさぐった。
    (忘れ物って何?)
    昨日佐藤総合病院に行ったものの、結局受け取りそびれてしまった父の忘れ物。
    もし私が知らない間にそれを受け取り、ここに落としたのだとしたら……?
    ポケットを手当たり次第まさぐるが、当然何も出てこない。
    思いつきの、何の根拠も無い妄想である。
    私は、父が知らぬ間に帰ってきたという可能性を、極力考えたく無かったのだ。
    そんな事があってはならない。
    あるわけが無い……。
    私は震える指で鍵を握りしめると、浴室を後にした。
    脱衣所からふと視線を向けた洗面台の鏡からは、色褪せた私の姿が静かにこちらを見返していた。

    廊下に出る。
    何故か、昨日佐藤総合病院で話し込んだ医師の顔が思い出された。
    静まり返った薄暗い院内に白衣で佇む、取り立てて特徴の無い男性の顔。
    中年と言うにはまだ若く、父とは一回り以上年が離れているように見えた。
    病院で今まで一度も見かけた事の無かった彼が、父や家の事情に精通していた事が今更ながら不気味に思えた。
    記憶の中の彼の目元は、何故か絵の具をかき混ぜたように歪んであやふやだった。
    (そういえば、真君いなかったな。)
    私は今日が当直と聞いていた父の同僚の事を思い出し、少し寂しい気持ちになった。
    父の忘れ物は、きっと彼が後日父に届けてくれるだろう。
    7.
    「なんで!なんでなの!?
    パパは…仕事でいないはずなのに!!」

    私はもつれそうになる足で父の元へ駆け寄った。
    あと数歩という所でバランスを崩し、倒れた拍子に父の傍らにあった椅子が音を立てて動いた。
    呻きながら見上げた父の顔は逆光でよく見えなかったが、その手足は力無く空中で揺れていた。
    私は床に蹲ったまま低く呻き、握った掌に爪を食い込ませた。
    父は、ずっとここにいたのだ。
    父と私の影が重なったフローリングが涙で滲む。
    暗いばかりと思われたそこに白く浮かんだ紙片を見つけ、私は慌てて目元を拭った。
    その紙が濡れてしまわぬよう、慎重に手に取る。
    上体を起こし白熱灯の元へ晒したそれは、以外にも誰かの写真であった。

    着物の女性、スーツの男性、お揃いの黒いドレスを着た少女が二人。
    家族だろうか。
    四人は不鮮明な白黒写真の中で、身を寄せ合い幸せそうに微笑んでいた。

    (これは、どこの誰の写真だろう。)
    私は父が残した写真をじっと見つめた。
    白い喉元が印象的な美しい少女が、こちらを向いて微笑んでいる。
    (この写真は、私が今まで見つけてきた資料とは何かが違う。
     ……そうだ、この写真だけ、家との関係が分からないんだ。)
    他の資料からは山野家との何らかの接点が読み取れたが、この写真の人達は家族の誰とも似ていなかった。
    雰囲気からして五十年以上前に撮られたものに見えるが、その頃といえば丁度山野家が戸籍を移した時期である。
    【山野家戸籍表】の『一九四八』という記載を思い出す。
    前後関係は分からないが、新街改革計画が実行されたのもその頃だろう。
    当時、山野家は村を出て戸籍を取得し、新街改革計画に協力した。
    もちろんその協定は村がダムに沈む以前に結ばれていた事だろう。
    私は【妹のノート】を取り出し、該当箇所を頭の中で読み上げた。
    『村はダムに沈んだという噂が。
     それが嘘だとしても、村の場所を知る者はいない。』
    そうか、と独りごちる。
    村人達は新街改革計画実行のために村外へ戸籍を移したが、彼らの口から村の場所が語られる事は無かった。
    それはつまり、哥欲村の存在を隠蔽する事自体が新街改革計画の目的の一つだという事を表している。
    恐らく村は今も有る。
    哥欲村には、村の外……世間に決して知られてはいけないような重大な何かが隠されたていたのだろうか。
    (……それがこの【家族写真】なのだとしたら……?)
    こちらを見返す四人の人物は、当時としてはとても裕福な家庭に見えた。
    彼らは貴族か、政治家か……。
    哥欲村には、私が思っていたよりもずっと大きな陰謀が隠されているのかもしれない。

    私は写真を折ってしまわぬよう、ノートに挟み丁寧にバッグに仕舞い顔を上げた。
    そこでようやく、テレビが点いていた事に気が付いた。
    放送休止中なのだろう、湾曲したブラウン管は微細なノイズと共に砂嵐を映していた。
    ……私が帰って来た時、母の元に父の部屋の鍵は無かった。
    もし父が私が気付かない間に帰っていたとすれば、テレビを点けたのはいつだろうか。
    時計が止まっているため正確な時間は分からないが、今は深夜の2時は回っていると思う。
    つまり父は午前1時から2時の間に帰宅し、一度自分の部屋の鍵を開けてから浴室へ向かい、再び自室へ戻って内鍵を閉めた事になる。
    私は砂嵐の画面を見つめるに連れ、違和感を募らせた。
    この部屋は、どこかおかしい。
    父の傍らに有った椅子の方を振り向けば、その奥のスペースにキャスター付きの椅子が収まったパソコンデスクが見えた。
    父は踏み台にするために、わざわざこの椅子を持ち込んだのだろうか。
    疑問に思いよくよく見れば、それはとても古いもののようだった。
    摩擦のためか脚の角が面取りをしたように丸くなり、油が染み込んだ木目には無数の細かい傷が付いていた。
    デザインはリビングにある物とよく似ていたが、私はこの椅子に見覚えが無かった。
    それは元から父の部屋にあったにしては、酷く場違いなものに見えた。
    ドア側にあるガラス戸付きの大きな書棚に目を移す。
    一番上の段はそこそこの高さがあるものの、椅子が必要な程では無かった。
    私は書棚に近づき、ガラス戸越しに背表紙を目で追った。
    医療関係の書籍を中心に、微生物学や疫学等の学術書が並んでいる。
    父の仕事関係のものだろう、変わった所は特に無かった。

    私は父の部屋で感じる得体の知れない違和感に、会った事も無い祖父の影を感じずにはいられなかった。
    祖母の家に入りながらも、家とは別の宗教を信仰していたであろう祖父。
    祖父が亡くなったのは随分昔の事だから……いや、もしかしたら亡くなるずっと以前から、祖父方の人々との親戚付き合いは途絶えていたのかもしれない。
    私が祖父をよく見知っていたら、【家族写真】から気がつく事もあったのだろうか。
    父の傍らに佇む古い椅子が、ギイと音を立てた気がした。
    振り仰いだ父の背中は存外高く、またロープも深く食い込んでしまっているようで、私一人ではとても下ろせそうに無かった。
    父は本当に自殺なのだろうか?
    父も母と同様に、何らかの呪いに巻き込まれたのではないだろうか。
    ノートに挟んだ古い写真だけが、その答えを知っているように思われた。

    ドアの前でもう一度振り返り見た父の背中は、明るい蛍光灯の下にあって黒々と逆光をたたえていた。
    ……妹を探さなければ。
    彼女はきっとまだ家の中にいるはずだ。
    8.
    私がドアを開けるのとほぼ同時に、目と鼻の先を無表情な少女の横顔が通り過ぎた。
    長い髪を揺らしながら滑るように廊下を歩いていくその姿は、間違いなく妹のリノのものだった。
    だがその表情は氷のように冷たく、普段の印象とはかけ離れていた。
    一瞬反応が遅れてしまった私をよそに、妹は素早く自分の部屋の中へと消えた。
    「リノ!」
    呼びながら、慌てて妹の後を追う。
     いつから帰っていたのか?
     一体何があったのか?
    聞きたい事は山程有った。
    私は続けざまに妹の部屋へ駆け込むと、壁際に佇むその肩に手をかけこちらを振り向かせた。
    「ちょっとあんた!ふざけ……。」
    妹の首がぐらりと傾ぎ、目が合うと同時に私の声が萎む。
    その瞳は全く光を映しておらず、まるで深く暗い穴のように空虚であった。
    額には苦無を突き立てたかのような一本の歪な角が生え、顔面は血で染めたように赤かった。
    耳が肩に付きそうな程に傾き伸びた首の中心が、もごもごと蠢く。
    「タスケテオネエチャン」
    能面のような無表情な顔は口元すら動さず、くぐもった声を発した。
    今の今まで動くのを忘れていたかのようだった私の心臓が、急速に脈を打ち始める。
    思わず後退った私に、その喉元は尚も言い募った。
    「タスケロ」
    声に合わせて上下していた喉の肉がとうとう裂け、身体から切り離された頭部がまるで自重に耐えかねた熟れ柿のように床の上で潰れた。
    粘性を含んだ残響の中、真横を向いたままの妹の生首がフローリングに暗い影を落としていた。

    限界だった。
    私は絶叫し、そこから逃げ出した。
    部屋から飛び出し叩きつけるように閉じたドアが、廊下中に物凄い音を響かせる。
    私は肩で息をしながらしばしドアを見つめ、逡巡の後ようやくノブを握り直した。
    (もし、お母さんも首が落ちて死んだのだとしたら……。)
    恐る恐るドアを開けると、そこには妹の死体は愚か一滴の血の跡すら見当たらなかった。
    私は信じられない思いでフローリングの床を触ったが、やはりわずかな痕跡すらも残っていない。
    ……あれは幻だったのだろうか。
    いや、そんなはずは無い。
    床を触った自分の掌を見つめる。
    そこには、確かに先程掴んだ肩の感触が残っていた。
    私は壁に手を付き震える脚を支えながら、廊下を歩き出した。

    祖母は失踪し、母も父も死に、妹も既にもう…………。
    私は玄関へ曲がる廊下の壁に肩を預けたまま、妹のノートを取り出した。
    妹が書いていたホテルの場所に行く。
    私はそう決めたのだ。
    開いたノートの隙間から、父の部屋で見つけた写真が滑り落ちる。
    数歩先に舞い落ちたそれを拾い上げ、改めて見た写真には、五人の家族が身を寄せ合うように写っていた。
    (五人……?)

    着物の女性、スーツの男性、お揃いの黒いドレスを着た少女が二人。
    その両親と思しき男女の間から、中央に写る少女を覗き込むようにして、黒髪の女性が首を傾げていた。

    その時、突然廊下の明かりが消えた。
    停電だろうか。
    慌てて状況を確認しようとするが、しかし、真っ暗で何も見えない。
    電気が点く。
    私はノートと写真を素早く仕舞った。
    電気が消える。
    私は荷物を抱き込み辺りを見回した。
    電気が付き、また消え、蛍光灯は不安定に明滅を繰り返す。
    その時、身構えていた私の耳元に、間違いなく何者かの気配を感じた。
    「っ!!!」
    気がつくと、私は玄関へ向かって駆け出していた。
    焦燥感に駆られ、一心不乱に出口を目指す。
    早くここから逃げなければ。
    早く、外へ、外へ……。
    9.
    胸元で何かが弾けると共に、私の脚は床を踏み外した。
    私の身体はそこにあるべき床をすり抜け、深い穴の中へと落ちていく。
    玄関へ走る自分の背中に突き出した手は空を切り、助けを求めて叫んだ声は音になる前に暗闇に飲み込まれた。
    その闇はまるで水のように私を包み込み、細い帯となって幾重にも絡みついた。
    目の前を一際黒く漂う無数のこれは、髪の毛?
    私の身体はどこまでも深く、穴の中を落ち続けた。

    ……どの位の時間が経っただろう。
    今自分がどれだけ深い所にいるのか見当もつかないが、未だ穴の底に辿り着く気配は無い。
    だが、闇ばかりと思われた視界の中に、やがて浮かんでは消えるものがある事に気が付いた。
    それは、深い穴の奥底から湧き上がって来る無数の気泡であった。
    細かい泡の粒が震え、時に重なり合いながら、私の横を通り過ぎて行く。
    それらは虹の光彩を纏いながら、私の耳元で弾けた。

    『うたがきこえるよ』
    ―■■ヲ■■スル■ニ■ヲ■リ■トセ。

    聞こえたのは、幼い少女の声だった。
    重なり合ったもう一つの音は、ノイズがかかったように不鮮明で聞き取れない。
    気泡は私の近くで弾ける度に誰かの声となり、時には鮮やかな幻を見せた。
    墓場、泉、井戸の横で揺れている黄色い花。
    深い森、トンネルの中の真っ赤な空、それを見つめる一人の女性、2つの産声……。
    それらの幻を何度も繰り返し見るうちに、私はようやく理解した。
    これは、誰かの記憶だ。
    哥欲祟とは、神による記憶の継承なのだ、と。

    やがてそれらの中に、見覚えのある記憶が混じり始めた。
    私は動かせない手を伸ばそうと藻搔くが、身体は少しも動かなかった。
    私から別れた私が家を出て行き、この身体は再び穴の中へと落ちていく。
    やがて私を離れ幾重にも別れた私の意識は、何度目かの終点に到達した。

    『逃さないよ、お姉ちゃん。』

    ああ、また記憶が巻き戻る。



    *********

    ―誰かの声が聞こえる。
    『お前のせいだ。
     お前がこの物語を知ったから。
     お前がこの物語を探ったから。
     お前がこの物語を広めるから。』

    ―誰かの声が聞こえる。
    『私はお前の姿を借り、哥を刈り、人々に真実を伝えていくだろう。』

    ―無数の記憶が蘇る。
    『繰り返し警告します。
     これ以降の真実の詮索はお控えください。』
    『繰り返し警告します。
     ……。』
    『繰り返し警告します。
     ……。』

    私の身体はいつしか落ちる事を止め、穴の中腹に留まったらしかった。
    私は周囲に懐かしい気配を感じながら、どこか遠くで無数の椅子が動き回る音を聞いていた。


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