シングルマザーサカズキこの世界には稀に妊娠する男がいるらしい。ということは風のうわさで知っていた。しかしあくまで噂でありそれが自分だとは夢にも思わなかった。
「おめでとうございます!妊娠していらっしゃいますね。」
医師に告げられた診断結果は予想だにしないものであったため、サカズキは口をあんぐりと開けたまま硬直してしまった。
妊娠…?妊娠………?腹の中に子がいるのか…?
「ちょうど一ヶ月くらいですね。次はお父さんと一緒に病院にいらしてください。」
衝撃のあまり意識を別のどこかへ飛ばしていたが、お父さんという一言に現実に引き戻された。
お父さん。一ヶ月前に性交をしてこの腹に命を芽吹かせた男。それはつまり…クザンのことだろう。
クザンとはもう7年の付き合いである。サカズキが警察になったばかりの23歳のときに高校生のあいつを補導してできた縁は、ズルズルともう7年も続いているのだ。
4年前に突然養ってほしいと家に転がり込んできてから、あいつは主夫を名乗るくせに何もしないヒモとなっていた。
「どがあすりゃぁええんじゃ…」
家に帰ったらクザンに妊娠したことを告げなければならない。お互いにとって予想外のことであったため責任を取れとまでは思わないが、育てることに賛成してくれると嬉しい。
サカズキは腹の子を育てる覚悟をすでに決めていた。なんやかんや言いつつも愛する男との子供は、サカズキがこれまで出会った中で最も愛しいものであり、この子のためなら何でもできると思うほどであった。
それにきっとクザンも喜ぶだろう。あいつは子供が好きだったはずだ。前も近所のガープ爺さんの孫と楽しそうに遊んでるのを見かけたし、困ってる子供がいたら率先して助けに行く優しさを持った男だ。
ぐるぐると巡る思考に一旦区切りをつけ、夜ご飯の買い出しとクザンの好きなシェリー酒を購入し、家に帰ってきた。
「………今戻った。クザン話があるんじゃが…」
5分ほど扉の前で逡巡したあと覚悟を決めて扉を勢いよく開いた。
しかし反応はない。というより家の中にクザンは居なかった。
「なんじゃ…外出中か」
拍子抜けしてしまったが、これ幸いとクザンの好きな料理を用意して帰りを待つことにした。
メインはシェリー酒に合うように魚介類の天麩羅にしよう。ついでにカルパッチョも作って、これから子供を育てるなら健康的な生活を心がけないといけない。野菜をたくさん取るためサラダに小物も何品か作ろう。
上機嫌で料理を用意し、クザンの帰りを待った。
しかしクザンは帰ってこなかった。
(まあ…これまでにもあいつがどこかで外泊してくることくらいあったしな)
クザンのために用意した食事は妊娠初期のサカズキには重すぎて、結局サラダとうどんしか食べることができなかった。
そして2日、3日、4日とクザンの帰りを待ち続けそれが1週間になったとき、サカズキはついに理解した。
自分は捨てられたのだ、と。
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「母さん!!母さん!!!起きてってば!」
「ん…まてアラマキ…今起きる」
懐かしい夢を見た。もう10年前になるか、あの日クザンが家を出てついぞ帰ってくることはなかった。クザンとの思い出が色濃く残るあのマンションに居続けるのが辛くなり、同僚のボルサリーノに紹介してもらった庭付きの一軒家に引っ越した。
幸い、若くして警察の上層部に所属していたサカズキは金に困ることはなかった。
出産と育児のため2年ほど休みを取ったが、仕事人間のサカズキは結局アラマキを連れて仕事に来てはセンゴクやつるに怒られていた。
片親だったがサカズキから惜しみない愛情を受け、アラマキはすくすくと育った。
そして、今年で10歳になるアラマキは母への愛を拗らせていた。
小さい頃からサカズキの職場の大人たちに囲まれて育ったアラマキは非常に早熟な子供だった。ついこの間サカズキに抱きしめられながら眠った翌朝、パンツが白い液体でぐちょぐちょになっていた。
それが何か理解していたアラマキはサカズキに知られないように下着を洗い何事もなかったかのように振る舞った。
「なぁ〜今日の朝ごはんはおれが作ったんだぜ!家庭科の授業でやった味噌汁と小松菜のおひたし!」
「ようやったのぉ、偉いぞアラマキ」
頭をわしわしと撫でられアラマキは蕩けるような笑みをこぼした。
「らはは!サカズキ好きだよ。あと8年したらおれと結婚してね」
「ええぞ、おどれが大人になったときまだ同じこと言うとったら考えちゃるわ」
「約束だかんな!」
サカズキの広い背中にぐるっと腕を回し、ぎりぎり届かない指先同士にもどかしく思いながらも胸に顔を埋め肺いっぱいにサカズキの匂いを吸い込んだ。
もう10歳のアラマキは自分が片親であることの意味を理解している。
サカズキに父親のことを聞いたらきっと傷つけてしまう。幼いながらに聡明なアラマキは、サカズキではなく、たまに父親代わりのような役割をしてくれていたボルサリーノに自分の父親について質問してみたことがある。ボルサリーノはただ、苦虫を噛み潰したよう顔をして、アイツは…クザンはサカズキから逃げたんだよぉ~と呟いた。それ以来もう父親について尋ねるのはやめた。
頭の上に感じるサカズキの愛情こもった大きな手が大好きだ。
母さんと呼ばれたときの幸せを噛みしめるような表情が大好きだ。
自分のくるくると癖のついた黒髪を撫でるとき、たまにみせる切ない表情はあんまり好きじゃないけど、これからもずっと二人だけで生きていきたい。
アラマキは心の底からそう思った。
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アラマキの誕生日にご馳走を用意しようと二人で買い出しに来ていたとき、市場にアイスクリームの屋台がみえた。
「アラマキ、アイスクリーム買っちゃるからそこのベンチで大人しく待っとれ。」
「んーわかった!ピスタチオとバニラの二段!」
市場で買い物をするサカズキの後ろ姿を眺めながら、冷たくて甘いアイスを食べているとドカッ!という乱暴な音とともに横に大柄な男が座ってきた。
(何だよこのおっさん…感じわりぃなァ…)
ロングコートにサングラスという不審者じみた出で立ちの男からあからさまに目を背けるようにサカズキの方を見ていると男は突然話しかけてきた。
「よぉボウズ…」
無視しよう。サカズキにも知らない人に話しかけられたら基本無視しろといつも言われている。そう決めたアラマキはアイスに集中するために視線を下に落とした。
「なぁってば…あそこにいるやつお前の母ちゃんか?」
その一言に弾かれたように男の方を見た。分かるはずがない。大抵の人はサカズキのことはシングルファーザーだと思うのだ。男が子供を産むという事象はあっても都市伝説レベルの稀さなため、初対面でサカズキのことを母親と認識する人などいないはずなのである。
「は?そうだけどなんで知ってんだ?おっさん誰だよ」
威嚇するように身構えながら聞くと男のサングラスに隠れた瞳がこちらに向くのを感じた。
「あらら、おっさんなんてひどいじゃない…『お父さん』に向かってさぁ」
目の前が真っ白になるという経験を初めて味わった。お父さん。お父さん。お父さん。頭の中でその一言がぐるぐる巡る。
アラマキは焦りのあまりアイスクリームを投げつけサカズキの元へ走っていった。
(はやく…はやくいかなきゃ…母さんをあの男に会わせちゃいけない!!!)
「母さん!!!!!」
「なんじゃアラマキ…外では父さんと呼べと言っとるじゃろ」
「はやく!!早く帰ろう!!!買い物なんてもういいから今すぐ家に帰ろう!」
アラマキの尋常じゃないその様子に気圧されたサカズキは手を引かれるまま家の方に向かう。
「あらら〜随分なことしてくれるじゃない」
それでも大人の足の速さに叶うわけがなく、その男はすぐに追いついた。
「ちょっとちょっと…お宅の息子さんにアイスぶん投げられたんだけど〜」
「っクザン……………」
ヒュッと息を呑んだ音が聞こえた。グイグイと引っ張っても墓石のように動かなくなってしまったサカズキの方を見ると、目は見開かれ息は荒くなり繋がれた手は汗でじっとりと濡れていた。
「母さん……」
縋るように名前を呼ぶとハッとしたようにアラマキの方を見た。
「アラマキ、向こういっちょれ…」
初めて聞いたサカズキの有無を言わせぬその響きに、アラマキはこくこくと頷きながら家の方に向かった。
バキッ!!!!!っという音とともに人が倒れた音が聴こえ、思わず振り向くと
「どの面下げて会いに来おったんじゃワレ」
クザンを殴り倒し腹の底から響かせた声で怒鳴るサカズキの姿があった。
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「ははっ、来てくれねェかと思ったよ」
「用はなんじゃ…今更何しにきおった。」
「お前電話番号変えてなかったんだな。」
あの日クザンを殴り倒したあと、サカズキは急いでアラマキの手を取り家に帰ってしまったため、クザンはサカズキと会話する暇さえ与えられなかった。駄目元で10年前にサカズキが使っていた番号にかけてみると怒りがパンク寸前といった声色のサカズキが出た。
明日バラティエで13時からランチしない?
と軽いノリで伝えると、白装束を着てこいと一言吐き捨てられ切られた。
「いや〜まさかほんとに来てくれるとは」
「なんじゃもう帰ってええんか」
「いやだめだめ」
できることなら今すぐ帰りたいといった表情のサカズキの手をすかさず握る。
「ねぇ……サカズキ、子供産んだんだってな」
「なんじゃ…おどれには関係のないことじゃろう…。」
「関係あるよ。だって俺との子供なんでしょ。」
「っ…!!!おんどれこの期に及んで父親面するつもりか!?」
「いやいや、そういうわけじゃなくて……………サカズキおっぱいでるんでしょ?俺にも吸わせてくれよ」
ニヤニヤとしながら言うこの男をどう殺そうか、10通りの方法を思い付いたサカズキは手っ取り早くテーブルの上のフォークを手に取った。
「ちょっ、ちょっとまって冗談だっていや冗談じゃないけど殺傷沙汰はやばいってまじで」
「あぁ?死にに来たんじゃろ?痛みの多いやり方で殺しちゃるわい。」
「説明しに来たのよ!!!あの日なんて居なくなったか!」
スッと身体から血の気が引くのを感じた。10年間ずっと考え続けた事だ。なぜクザンは自分を捨てた?なぜ何も言わずにいなくなった?あんなに愛してると言っていたのに?
その答えが知りたくないといえば嘘になるが、知ってしまうことで自分を守ってきた何かが壊れてしまう気もした。
「………納得の行く説明が聞けたらフォークじゃなくナイフにしちゃるわ…」
「あらら…殺さないでくれると嬉しいんだけどね〜…」
クザンは語り始める。
二人の10年前に止まった歯車は再び動き始めた。
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「ねぇ母さん!!!!!!」
「なんじゃ」
「なんであの人いるの!!!おれたちの!!母さんとおれの家に!!!!!」
父親との衝撃的な出会いから1か月。アラマキは、まるで何事もなかったかのように穏やかな日々が戻った。と思っていた。
朝目が覚めて最初に見たのが例の不審者の髭面だったアラマキは、半狂乱になりながらサカズキの元へ走る。
「今すぐ追い出そうよ!!!」
「…じゃがのぅ……」
珍しく奥歯に物が挟まったような話し方をするサカズキにやきもきしていると、横からぬっとクザンが現れサカズキを後ろから抱きしめた。
「ん〜…朝から元気だね〜おはよサカズキ」
クザンは迷わず手をサカズキの胸に持っていき、揉み始めた。
「あ〜懐かしいこの感じ……ヘブッッ」
裏拳で顔を殴られたクザンはしゃがみこみ痛みに耐えていた。
「アラマキの前で何しとる…しごうしちゃげるぞ」
口ではそう言いながらも口元が緩んでいるのをアラマキは見逃さない。
嫌だ。母さんなんで幸せそうな顔するんだよ。こいつは母さんを捨てて逃げた男なんだろ。おれと母さんと二人で幸せになるつもりだったのに。
「………母さんおれこの人嫌い。」
「えぇ〜仲良くしようよこれから家族になるんだからさぁ」
「絶っっっっっ対に嫌!!!!!」
サカズキにひしっとしがみつき消毒するように顔を胸に埋めると、いつものように髪を柔らかく撫でられる。しかしその表情はいつもと違い何か苦しみをこらえるような表情ではなく柔らかく、静かに幸せを噛みしめるような顔だった。
「それはそうとアラマキが嫌言うとるけえ、おどれはホテルでも取って別んとこ行け。」
「あらら…家に置いてくれないの?泣いちゃうよ?」
「らはは!いい気味だ!ここはおれと母さんの家なんだよ!」