落書きに添えて「抵抗しないの」
吐息混じりの囁きが耳を掠めた。カイの左手がキリュウの口を塞ぎ、体を壁へと押し付ける。瞳に互いの顔が映るような距離。今までにないほどに触れ合っている。
キリュウは少しだけ下にある青藍の瞳をじいと見つめて細く息をつく。震える懇願を聞いてもなお、両手はただ垂れ下がったままだった。
無言の時間が続く。壁に添えたカイの右手が、拳を作る。
「してくれよ」
我慢ならないというように絞り出した。刈安の中で瞳孔が小さく揺れるばかりで、キリュウは微動だにしない。やがて眉を八の字に寄せたカイが、目を伏せる。
「オマエさあ……」
後に続く言葉は口腔に留まって、目の前の男にすら届かない。緩んだ左手首に、緩慢な動きでその男の手が添えられた。瞳には安堵すら滲ませながら、カイは唇を噛む。
抵抗することもなく、カイの左手はキリュウの口元から離れていく。あらわになった真一文字の唇が小さく開かれる。
「噛むな」
ようやく放ったのはたった三文字。手首を掴んだままのキリュウの右手に、力がこもる。
カイは眦を吊り上げ、視線を合わせようとした。
「……なんだよそ、」
数センチあった距離は、一文字を発する間に埋まってしまう。もはや焦点が合わないほどの近さだった。ぼやける中でも、蛍光灯が跳ね返る目の中だけは光っていた。
一拍置いて、海の目がみるみる見開かれる。叫びそうになって唇を動かそうとすると、そこにある感触に神経が向いて、肩が跳ね上がった。
かといって後ろに飛び退こうとすれば、掴まれた左手に阻まれて距離を取ることも叶わない。
「な、な……!」
「どうしてお前がそうなる」
仕掛けたのはそっちだろう、とキリュウは平然とした顔で言ってのけた。逃げようとする左手を抑えたまま。はくはくと口元を震わせたカイは目頭にじわりと滲ませながら言い返す。
「おっ、オマエがっ! なんにも言わないし、そんな素振りなんにもっ……なんにもっ……、だからオレだけだって……」
キリュウは左に視線を落とす。たっぷり間を取って、区切るように答える。
「言う必要が無かった……そう思ってた。……素振りを見せなかったのはお前もだろう」
ピシャリと言い当てられ、カイは言葉に詰まる。
「確証も無かった。お前が、俺をどう思ってるか。俺とどうなりたいか」
ふと指先を喰い込ませるほどに拳を握るカイの左手を目に入れたキリュウは、手首をほどいてその手を包み直す。
「俺は、このままでも、離れても、どうなっても……良かったから」
カイの手が開かれる。今度は自身の手をゆるく覆うかさついた手を握り込む。
「離れるのは、ムリ」
視線は下に向けられ続けている。
「それで、このままも、ムリ、だった」
握り合う手に、カイはもうひとつの手を添える。高鳴る胸元に近づけ、そっと相手を見上げる。
「おねがいきりゅー、オレを特別にして」