未遂の罪
真面目で素直、甘え下手で意外と頑固。私の中での伊地知くんはそういう認識の後輩だ。そう。唯一の、可愛い後輩であった。そんな彼とは、呪術界を去ってからは意図的に連絡は取っていなかった。こちらの自己都合であるのに連絡をとって相手に気を使わせるのに申し訳なく思っていた、というだけでなく、あの業界に後ろ髪を引かれたくなかったのだ。
しかしこの度、私は呪術師という恐ろしく旧態依然としている業界に出戻ろうとしている。それに際して事務手続きを行うための電話が鳴り響いた。呪術高専からの着信ではなく、よくよく知った個人名が表示された画面。見覚えのありすぎる五文字。勝手に心拍数が上がった。電話に出た声は上擦っていないだろうか。そんな私の心配をよそに、電話越しの伊地知くんの声は淡々として落ち着いていた。社交辞令を挟みつつも、無駄なく、よどみなく出てくる必要書類の案内。久しぶりの先輩とのやりとりに懐かしさを感じているというよりは、ピリ、とした緊張感を醸し出していた。その様子に、ああ、彼は大人になってしまったのだなと寂寥さえ込み上げてしまう。
自分から逃げ出しておいて、その空白の時間に彼が大人として成熟していっていたのだと思うと、自己責任ながら口惜しさを覚える始末。知ってはいたが、思った以上に利己的な人間である自分に長いため息をついた。
実際に何年振りかに顔を合わせた伊地知くんは、立派に大人としての勤めを果たしていた。質問に端的に答え、そこに添える補足もぬかりない。
書類の記入が全て終わって一息つくと、裏切ったとも言える私にはにかむように笑いかけてくれた。
「七海さん。改めましてよろしくお願いいたします。帰ってきてくださって嬉しいです」
緊張の色もあるが、その表情は学生の時と変わらず優しく、相手を解す柔らかさであった。思わず胸の奥が弾む。
伊地知くんは根っからこういうタイプの人間であるし、元先輩という立場が自分にあるのだから、なにも特別と思うなと己に言い聞かせて、これからよろしくお願いします。と告げた。しかし、往生際悪く握手を求めた自分の浅ましさに呆れつつも笑ってしまいそうだった。
呪術師としての復帰後は淡々と自己研鑽に励み、任務をこなしつつも一般社会とのギャップに頭痛を起こすなどしていたが、それ以外は特に問題はないように思えた。
だが、私の歓迎会と銘打った酒の場で、とんでもない事実が明かされた。
目の前に座るのは真っ白な髪にアイマスクという奇怪な様相の男。隣には麗しいが癖の強そうな女性が二人。
「……は?」
「だーかーらー! 伊地知と僕、お付き合いしてるから♡ って言ってるじゃん」
「今日は四月一日ではないはずですが」
伊地知くんが用を足してくると席を外した途端に告げられた、特級術師の交際相手。その名前が可愛い後輩だったのだから、言葉が出てこない。まずもって耳から脳に入ってこない。幻聴か冗談だろうと思い込みたいが、一握りの不安があり、家入さんを見て、歌姫さんを見て、それからまた五条さんを見た。
隣の女性陣二人から、鬱陶しそうな声がする。
「七海。信じられないだろうが、事実だよ」
「伊地知に許可取ったのかぁ? また泣かすなよ~」
ほろ酔いの歌姫さんが五条さんに絡むが、私は腹の底がどんどんと冷えていく感覚に焦り、味がなくなってしまった酒を飲み干した。
「あれ、皆さんどうしたんですか?」
うすら赤い頬でトイレから戻った伊地知くんは、この席の妙な雰囲気を察して疑問を顔に出すが、五条さんのピースと軽い謝罪の言葉でにわかに全てを察したようだった。
「な、な、なんでそんな軽く言っちゃうんですか……! 七海さんびっくりしますよね、すみません……。第一、五条家の方にもよく思われてないんですからおおっぴらにしないでください!」
「だからこそ七海先輩が知っててくれた方が伊地知も安心かなーって。まあ何はさておき七海が戻ってきてくれてほんと、嬉しいよ」
伊地知くんと五条さんのやりとりはぽんぽんと弾む。交際していることを前提となければ出てこない言葉、話題。それを否定しない伊地知くん。わいわいとした雰囲気は学生の頃そのものだが、知らされた現実があまりに虚構のようで全くノスタルジーにも浸れず、二次会に行くこともなくその会はお開きとなった。
それからというもの、やたらと伊地知くんの姿を見てしまう自分がいるのだ。
学生の世話を焼く困り顔。てきぱきと指示を出してイレギュラーにも柔軟に対応する引き締まった顔。私に笑いかけてくれる柔らかな顔。どんな顔も愛おしいなと思ってしまう。
しかし、密やかに五条さんの姿を追うあの切なげな眼差しは、どうにも私の心をささくれ立たせた。電話口でも、補助監督室でも、五条さんは伊地知くんをからかうように無理を言って、彼を困らせて、ひらひらと手を振って去っていく。その背を見る伊地知くんの心境はいかほどだろうか。今だってそうだ。五条さんからの電話に、伊地知くんは強張った顔で短く受け答えをしている。
「大丈夫です……はい、……承知しました………はい、では失礼します」
「……伊地知くん、行きましょうか」
「すみません。お待たせしました」
二人で任務に向かおうかという時に、五条さんからの着信があったのだ。私に遠慮しつつも電話に出た伊地知くんの横顔。話が進むにつれて、どよりと曇ったのが見て取れた。大丈夫だと言っていたのは聞こえたが、きっと「大丈夫」ではないことが起こったのだろう。
後部座席に乗り込んで、話題の一つという態で問いかけた。
「五条さんがまた無理を言っているんでしょう」
「はは……まあ、そんなところです」
声からは活力を感じられない。苛立ちが増してしまう。ハンドルを握っている彼の今の表情なんて、六眼など持っていなくても分かるのだ。山を削った。呪物を破損した。捕縛予定の呪霊を消滅させた。伊地知くんを困らせる案件なんて、嫌と言うほど思いつく。
「ああ、七海さん。この前おいしいパン屋さんが「伊地知くん」
違う話をしようとする伊地知くんにも腹が立って、伊地知くんの話を遮ってまで低い声を出してしまった。
「私では、駄目なんでしょうか」
衝動だった。呪術師に復帰して仕事自体は順調にこなしているが、まだまだ気も抜けず、周囲からの評価もちらちらと耳に入り、一般社会とは全く違う構造をしているこの業界特有の空気感に未だ違和感を持ち、馴染めずにいた。学生の時よりは随分とやりやすくなったとも思うが、勤め人として生きてきた四年間で染みついた「一般的」な感覚を、脱ぎ捨てている途中の私は、この空気感に疲弊し、思った以上にストレスを溜めていたようだった。そこにきて伊地知くんが疲れたような、寂し気な目をしているのだから、そんな彼に運転をしてもらっているこの状況も、私にとっては耐えがたいものだったのだ。
一度口をついた言葉は、衝動的なものだとはいえ、真実であった。私はボリュームをもう少し上げて、彼に言う。
「私では、駄目ですか? 伊地知くん」
「……あの人は止めておけ、という意味ですか?」
「いえ。私ならば君に悲しい思いをさせないようにする、という意味です」
伊地知くんが選んだ五条さんを否定するわけではない。しかし、彼には幸せでいてほしいと思ってしまう。欲どおしいことだが出来れば、私の手で。
「ふふ……七海さんは優しいですね」
「君は優しすぎるんですよ」
「ありがとうございます」
微妙に噛み合わない会話。いや、会話としては成り立っているのかもしれない。ただ、それぞれの言葉が芯を捉えていないのだ。真摯に伝えている言葉を曖昧にされるのは性に合わない。もう一歩、と踏み込んだ。
「で、どうですか。私は」
「私から五条さんにお別れを切り出す予定は、ないです」
ばっさりとフラれてしまった。しかし、伊地知くんの口ぶりは五条さんから別れ話をされる前提のような言葉だった。恋人という関係になったこの刹那を、尊んでいるような。どこかに終わりを見つけてそこまでの道程を達観しているような。
「であればもっと幸せそうにしていてください。この業界は人の不幸事で酒を飲む連中が多すぎる」
「不幸そうに見えていたのならなによりです」
いつの間にか、高速道路を下りていた。
伊地知くんの言葉は私の浅はかさを浮き彫りにさせる。なんと無遠慮で高慢な言葉だったろう。非礼にもほどがある自分の言葉を恥じるが、一度口に出した言葉は撤回できぬことなど、重々理解しているのだ。
「七海さん。私は、私のせいで五条さんが不幸になることを恐れているんです」
「そんなことは……ないでしょう」
遊び程度の気持ちならばどんなに良かっただろう。伊地知くんの言葉には、そんな心境が滲んでいた。五条家当主。特級術師。呪術界の三本柱。そんな五条さんが、きっと本気で愛している相手。そしてそれを許さない環境がこの呪術界にはあるのだ。五条さんが伊地知くんに本気であればあるほど、「伊地知くんに何かあった時」に発生する不幸というものがどこまでどんな影響を及ぼすのかは計り知れない。
エンジン音にかき消されないギリギリの声量で、伊地知くんは言う。
「あと、私は七海さんの質問には答えられません。『聞こえなかった』ので。すみません」
「……そうですか」
「ここから三十分ほどで到着しますから、ゆっくりお過ごしください」
思いというものは口に出した時点で呪いや枷となる。呪術の原点であり、基本なのだ。そんなことを知っていながら、衝動のせいにして彼を深追いした自分を恥じ、伊地知くんの配慮に頭を下げる。彼らの間に割って入ることなんてできはしないと分かっていたのに。
「伊地知くん」
「はい」
「君にとって良き先輩でいられるよう、善処します」
「七海さんは私の憧れですよ。ずっと」
あんな話のあとに柔らかなニュアンスでそんなことを言うのだから、きっと五条さんも頭が痛いことだろう。気取られないように溜め息を吐いた。
「君の好きな音楽をかけてもらっていいですか?」
「ええ……ヒーリングミュージックとかですかね……」
自分の好きなものではなく、相手の神経を落ち着けるためのものを選ぶのが伊地知くんらしいと口の端が上がる。ダッシュボードから取り出したCDが、細い隙間に吸い込まれていった。
聞こえてくるのは潮の音、風の音。小鳥のさえずり。
ああ、海か。いいな。この音楽のような無害な存在でいられるだろうか。「良き先輩」の仮面をかぶることにした私は、彼の運転に身を任せてしばし目を閉じた。
終