この代償は高くつく「ひっく、ふぐっ、ぅ、うううううっ、ぐすっ、ずび、ひっ、うっ、ううう〜〜っ!」
イグニハイド寮。防音改造済みの自室にて、イデアは枕を絞れるくらいびしゃびしゃに濡らすほど泣いていた。
183センチという体躯をベッドに投げ、鼻水を垂らしながらかれこれ一時間は鼻を啜り続けているので、鼻詰まりなんてするわけもないすーっと通った鼻も真っ赤になっており、夜道も照らせるほどだろう。
「ぐす、ずびっ、こ、こんな、こんなのって、こんなのってないよぉぉぉ〜〜〜っぅ、ううううっぉぉぉ!」
わーーッ! と叫んでも防音。誰もこの悲恋に嘆く乙女……ではなく乙男の叫びに駆けつけてはくれない。
いい加減枕のウェット感が気持ち悪くなってきたイデアはもそもそとベッドから這い出して、ぽすんと床に三角座りして固まった。
そうしてまた目尻に溜まり出した涙に「うぉぉぉん」と声を上げて泣く。
なにが彼をここまで泣かせることがあったのかだが、それは彼が絶望に逃げ帰って来る一時間と三十分前に遡る。
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「触らないで」
ぱしっと払われた手。そうだよね。突然陰キャオタクに触られたら嫌だよね。という気持ちと「あーはいはい、そうですかそうですか」という捻くれた感情、さてどちらで発言したものかと数秒間の遅延を生んでいたら、俯いていた監督生がイデアに顔を向けた。
その視線は普段の柔らかいものと比べることができないほど冷え切っていたし、なんなら人間……いや、感情を汲み取ることができる生命体に向けて良いとは到底思えない、ゴミ虫を見る侮蔑、嫌悪などなどがふんだんにこもった眼差しで、ヒュッと喉の奥が締まり、監督生に対しての好感や慣れといった類いの感情がさっと引いていく感覚がした。
ぼ、僕なんかした? と非を探そうにも普段からあまり良い態度をとっていなかったし、なにかしていない確証がない。
カタカタと震え始めた身体はあまりの恐怖に萎縮してしまって動けない。
自分よりもよっぽど弱くて小さくて頭だって悪い相手だ、だというのに蛇に睨まれた蛙の気持ちになってしまっていて、おどおどと決まり悪くその場で冷や汗を垂らすのみ。
そ、そうか、こうやって内心見下して小馬鹿にしてしまっているムーブが随所に出ていたから、それが蓄積されて怒っている? そ、それは確かに悪い事をした。謝ろう。早急に。
せっかく仲良くなれたし、気心もしれている相手。というかちょっと好きになっていたし、このままこの関係性が破綻するのは耐えられない。
イデアは震える唇をどうにか開こうとした。
が。
「顔も見ていたくないので私はこれで」
ビシッ。心の柔らかい部分が凍りついて砕ける音だった。
ぽろ。と瞳からは涙が溢れており、心臓は冷えているのにバクバクと生き急ぐ。
こんな言葉を脳内に浮き上がらせるのも嫌なのに、頭の中でぐるぐるぐるぐるぐる。「嫌われた」という言葉が色んな書体で埋め尽くして来る。
ほぼ背景だった監督生のそばにまとわりついているただ同い年同じクラスというラッキーな男二人。そいつらが「実は」と語り出した。
監督生は好きな人がいて、で、監督生を好きな男子生徒がそいつを炙り出したくて魔法薬をかけた。
その男子生徒は自分のことが好きではないとわかっていたため、監督生に想われている幸運な男が憎かったため「一番好きな相手を嫌いになる魔法薬」をかけたというのだ。
そう。この場で一番幸運な男というのはイデアだったのだ。
そしてその幸運と引き換えに与えられたものは絶望で、その絶望はイデアには受け止めきれなかった。
「あ、そ、すか」どうにかこうにか泣きながら搾り出し、ぽてぽてと踵を返した。
ぽて、ぽて、ぽて、という辿々しい足取りも段々と駆け足になり、鏡舍を通って自寮に入った辺りでは全速力で走っていた。
それから部屋に入って乱れた息のまま一時間泣き腫らしたというところだ。
三角座りで膝を涙で濡らしていた顔をあげ、ぼーーーっと己の部屋を眺める。
とはいってもその泣き濡れた瞳に映っているのは「触らないで」「顔も見たくない」とばっさり言ってきた時のあの監督生の顔だ。
侮蔑と嫌悪に染まり切った瞳は心を凍らせるには十分過ぎていたのに、その瞳を向けた理由は自分が彼女にとって一番好きな相手である証明というのだから笑えない。
運命の女神はそうとう僕のことが嫌いなのだろう。
魔法薬の効果が永続的ではないことはわかっている。
ショップで買ったようなジョークグッズなら長くとも半日だろうし、魔法薬の授業で勝手に精製したのなら上等にできていても三日……一週間は持たないレベル。
まあ一年生の作ったものだとしたら三日も持たないだろうけれど。
悲しんで苦しんでとしていても冷静な部分は残っているイデアは、一過性の風邪のような状況だろうと割り切ってもいた。
けれどあのゴミ虫を見る目だけは忘れられなくて、心が砕けてしまったのが直らないのだ。
「ぜ、ぜんぜん、嬉しくない……こんな形で、君の気持ち、し、知りたく……なかったのに……ぐすっ」
言われていないのに「大っ嫌い」というセリフが再生され、じゅわりと眼球が溺れていく。視界がぼやけて呼吸も浅くなっていった。
ふぐふぐと上擦った息遣いで涙を噛み殺そうにも、傷つけられた心を癒そうと感情が溢れて止まらない。
他人にどう想われようがという気持ちもあるくせに、他人の視線が気になったりと繊細なところのあるイデアだが、こと恋愛においては相当なまでに打たれ弱かったらしく、好きな子に冷えた眼差しを向けられて距離を置かれたことが耐えられなかった。
それだけイデアも監督生に恋心を寄せていたということで、結果的に自分の正しい感情も見つけてしまったわけだ。
なので余計に辛くて泣いている。
きっとこの魔法薬をかけた男子生徒はザマアミロと嘲っているのだろう。
なんてみみっちい。そんなことをしたところで、恋心が自分に向くわけでもないし、虚しいだけだろうに。
なんて思うが、実際の自分も相手の気持ちが自分に向いていないとわかったらいったいどうしただろうかと思案する。
監督生が他の誰かを好き。
「……そ、そんなの、嫌に決まってる」
すぐに答えは出て来るが、嫌だからと言ってその相手をどうこうしようまで考えるだろうか。
だって、そんなことをしたら彼女の幸せを踏み躙るかもしれない。それどころか彼女に……そう。侮蔑の目を向けられるかもしれないというのに。
自分が彼女に愛される幸運な立場になかったとして、例えば知らない男と寄り添い歩くシーンを目撃したとする。
笑顔で、幸せそうに、愛されている、愛しているとそう見えるならば、僕はきっと「ああ良かった」となれるはずなのだ。
「そんなわけないだろ。フヒ、フヒヒッ……そんなの、僕が監督生氏に想われてるってわかってるから言えることだ」
泣き過ぎて傷つき過ぎて、イデアの感情はめちゃくちゃになっている。
真っ赤に腫れた目元は、もとよりクマのひどさも相まって相当ボロボロだ。垂れてきた鼻水をずっと啜り、しゃくりあげるままに「知らんヤツと幸せぇ? そんなの許せるわけないだろ! バァァーカ」と立ち上がった。
ついにテンションがおかしい。泣き過ぎて熱が出ているのかもしれない。
「そんなの認めるか。だって君は僕のことが好きなんだろ。だからあんな態度取ったんだ。じゃなきゃ僕のこの傷ついた心はどうしたらいい? 誰が責任取るわけ? 君にしかできないことじゃん」
ぐしゃっと握りしめた炎髪は赤く燃え始め、パチパチと広がる。
悲恋に嘆いたし、絶望に打ちひしがれた。
次は逆境に打ち勝つために立ち上がり、この現実を否定するだけ。
「傷ついちゃったな〜〜……これは一生かけて償ってもらわんと割に合いませんわ」
魔法薬の効果が解け、この事態の結末を告げる軽い足音が聞こえて来る。
さあショータイムの始まりだ。
イデアはウェッティー枕に顔を埋め、ベッドにうつ伏せでノックの音を聞いた。
「せんぱい! イデア先輩!」
さっきの絶対零度、この世の汚物を集めたものに向ける声色から一転、焦った声だ。
イデアはぽつり呟いた。
「なに」
「先輩、ごめんなさい。さっきのは、本心じゃなくて、あ、あんまりよく、覚えてないんですけど、で、でも、先輩の顔が、悲しそうだったのは、覚えてて、傷つけちゃったと思うんです、だから、あ、謝りたくて」
「まあ、ウン……いいよ。諸々理由は聞きましたんで……」
「り、り、理由……」
狼狽えているところに部屋の扉を開いてやる。
なにも言っていないのに、監督生は躊躇いながらもとぽとぽと大舞台に立つスター俳優顔負けの演技をしているイデアのそばまでやってきた。
イデアは顔を上げることはない。ボロを出さないためでもあるが、顔は相当酷くなっているのもあるし隠しておきたかった。
それにこのカードを切るのは今ではないはずだ。
「先輩……もしかして、泣いてますか?」
「どうだろうね……触らないでって、親切で物拾ったのを突っぱねられて、それから顔も見たくないですからな……泣いちゃうかもね。普通なら」
イデアはポケットから監督生が落としたペンを取り出し、返却する。
青いペンを受け取った監督生は、ペンを渡してお役御免と去っていくイデアの手を取って握りしめた。
「す、好きなんです。先輩のことが……」
「うん。知ってる……魔法薬被ったんでしょ。災難でしたな……マァ拙者の方がって感じですが」
「傷つけるつもりはなかったんです。ほんとに……」
「でも傷ついたよ」
イデアは枕に埋めていた顔を横にずらし、泣き腫らした顔を晒す。
侮蔑と嫌悪の眼差しを向けてきた監督生の瞳が、後悔と懺悔に苛まれ今にも泣き出してしまいそうなほど悲痛な瞳を向けてきた。
好きな人をこんなに傷つけてしまった。という具合だろう。
イデアは最高のタイミングで己のとっておきのカードを切ったわけだ。
握りしめられている手に視線を向けてから、ゆっくりと監督生に視線を戻し「ちゃんと言って……」と強請る。
「先輩のこと傷つけてごめんなさい」
そんなのではない。イデアは首を横に振る。
「イデア先輩のことが好き」
まばたきをして、それから「ほんとうに?」と畳み掛ける。
監督生は、小さな手でイデアの手をぎゅっと握りしめて「本当に」と重ねる。
「わからないな……それに僕の心は君のひどい言葉、冷たい視線にズタボロだ……もっとわかりやすい行動で示してもらえます?」
監督生は髪の毛を耳にかけ、赤く染まる頬に目を閉じる。
閉じた先で狡猾な男が、重なる寸前に唇に弧を描いていただなんて知りもせずに。