遠くなる、遠くなる 最悪なシーンだ。
空が割れ落ちるような衝撃的瞬間は、目の前で知らない男に抱きしめられているオンボロ寮の監督生を見たからだった。
頭の中に「は?」と疑問と怒りのクエスチョンマークが乱立していく。ギチギチに詰め込まれている知識のキャパシティよりも、これらの方が容量を圧迫し、発砲音が鳴り響き破壊された。
異端の天才の異名を返上し、現在IQが一桁になったイデアは、炎髪をぐらぐら燃やしながら「僕の方が先に好きだったのに」とギザギザの歯を噛み締め、歯茎から血を垂らし目から滝のような涙を流して走り去った。
これだけの感情を抱えているにも関わらず、彼は「ちょっと待ったァ!」とする勇気がないのだ。
自室に引き返したイデアは鼻水を啜り、最悪な光景のその先を勝手に想像していた。
お揃いの白い服を着てニコニコ寄り添って、ぽっと出のいけすかないアイツがベールを上げて、それからアーーッ! と自主規制してから、引き出物のバームクーヘンをこれ以上ないってほど泣きぬれながら頬張ることになる。
いや、バームクーヘンなんて水分持っていかれるパッサパサな食べ物摂取するわけない。帰り道のどっかで捨てるだろ。常識的に考えて。
常識的な人間は引き出物を道すがら捨てたりしないということすら頭にはないので、イデアは親指の爪を噛み締めながら、どうにかこうにかその幸せをぶち壊せないものかと考える。
ていうかまじで誰ェ? 存じ上げないのだが。そんな気配今の今までなかったでしょうが。
というかさ、そうならそうともっと早く言って欲しい。こんなに好きにさせて、こんなにぐちゃぐちゃに精神かき乱して、素知らぬ顔で知らねー奴とランデブーとか笑えないギャグだろ。
そうだ。慰謝料取ろう。そうすれば幸せな結婚生活も借金からのスタート。最悪な門出が一丁上り。よしよし。そうだ、そうしよう。
変なテンションでフヒフヒと笑い転げ、ベッドに寝っ転がっていたのを、布団を頭に被ったまま起き上がって、その柔い檻の中からバケモノがメッセージを制作する。
「失望しましたわ。君は僕の純情を弄んだ。最低な人間。絶対に許さないし、一人勝手にハッピーエンドとかあり得ないんで、つきましては僕の心身に与えた重大な傷に対する慰謝料を払ってもらいたいと思い、このメッセージを送ってる。だいたい君の生涯における三分の一程度かな……一括でよろ」
送信。
からの絶望。僕なにしてんの? は、ものの一秒と経たずにやってきて、取り消し取り消しとタップしてはみたものの、自室の環境が整いすぎており、電子の海へと流星のように駆け抜けていってしまいもう取り返しがつかない。
「死の……」
縄 練炭 苦しまない と検索を始め、いやむしろこれは苦しんで死ぬべきでは? としたあたりで悲鳴をあげた。ポップアップに表示された名前が、一番死因になり得るものだった。
ひとまず遺書をしたためて、返信内容を薄目で確認する。
イデアは頭の中がまたしてもクエスチョンマークでいっぱいになってしまった。
「サセン。眼球どっかに落としたらしいんで、もうちょいわかりやすくお願いできます?」
通話ボタンを押した先、監督生の声は震えていた。
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「ということがありましたね」
「おもいだしたくないことを」
頭を抱えて耳を塞ぎ、イデアはギロッと監督生を睨みつける。
あの日電話口で聞いたものと同じ、カラカラと心底おかしいという笑い声を立て、涙を乾かそうとサテンのミィディアム丈のグローブに守られた手で仰いでいる。
「なんでしたっけ。生涯稼ぐ三分の一? ウフフッ」
「あんなん見せつけられて傷つかない方がおかしくない? あれだけ僕に好き好きアピールしておいて、知らん奴と抱きしめ合ってるとか地雷の上でタップダンスどころではないが?」
「まあまあ、不慮の事故ですから」
「っとにさぁ……どれだけトラブルに見舞われれば気が済むんだよッ! 縛り付けて冥府の底にぶち込みたくなりますわ」
「今のは冗談?」
イデアはスッと立ち上がり「さあね」と口元を歪める。
笑いすぎて少し跳ねてしまった横髪を耳にかけ、頬に口付けて「後でね」と控室を出た。
事故。その事故とやらにどれだけ心を砕かれたことか。
カラカラと笑って済ませているけれど、こちらの気持ちはずっとずっと晴れていない。
目撃しなければなかったこととして処理できるのに、してしまったのならそれはもうゼロにはできない。
ならばどうすればよいのだろう。イデアは考え抜いて、事故相手を自分たちの晴れの舞台へ招待した。
コツ……コツ。革靴を鳴らして信仰していない神様の前に立って、唯一無二の信仰対象が己の元へ向かって一直線に歩んでくるのを待つ。
ほら見てる? 君が事故を装って抱きしめたあの子は、君のことなんて眼中にないってさ。
ちらりと視線をそいつに向けて、にやけてしまいそうな口元を手で隠す。
誓いの言葉。指輪の交換。それからキスを。
ライスシャワーが降る中に、悔しそうな顔をしている男を見つけた。
ああ。だめだ。もう我慢できない。
許しを与えた神を背にして中指を立て、舌を出す。
ねえ。今どんな気持ち? 僕はその気持ち痛いくらいわかるよ。だって先に君が与えてくれたもんね。
イデアは髪をわずかに赤く染め、愛しくて憎らしい女の腰を引き寄せる。
「よそ見しないで、そばにいて」
そんなに危なっかしかったかな? ときょとんとしている彼女には、請求した分の慰謝料よりも多くを取り立ててやらなくてはと思わされる。
無自覚は人を傷つけるものなんだよ。そんなこともわからないから、好意を事故だなんて処理してしまう。危うくて、とても一人にしておけない。
何度も言うけれど冥府の底に連れ去って、誰の目にも触れられないようにしてしまいたい。
「冗談ですよね」そう問う君のせいで、できないだけだ。
冗談のままにしておいた方が都合がいい。
たくさんの思わくがバームクーヘンのように渦巻いているこの空間で、ただ一人だけぽわぽわふわふわ所在ない彼女に、イデアは心底苛立ち、そして愛おしくてたまらなくなる。
酷いことをしないで済んでいる理由なんて簡単なことで、そうしない方が彼女が逃げていかないからだ。
なんて優しい人なんだ。頭がスカスカだから、なんということもない水分を栄養かのごとく吸い込んでいく。
勝手に愛に変換して、可愛くてしかたがない。
この無垢で可憐な花を育てていくのは僕の役目であり、他の誰にも譲らない。
ああごめんねぇ。ずるくて汚い手ばっかり使って。
でもこの子はそんな姑息な手段にさえ気付きはしないし、気付いたところで手遅れなんだよね。
だってこの栄養以外受け付けないくらい、たっぷり吸わせているから。他のどの愛情も、もう毒にしかならないんだよ。
ニヒッと意地悪く微笑んで眉を困らせながら見下ろせば、彼女は頬をピンクに染めて「なあに?」と甘やかされて育ったお姫様のように無垢に愛を求めるのだ。
「ずっと、ずっと、ずぅっと、一緒にいてよ」
「もちろん。そのつもりですよ」
「やぶったら」
「慰謝料でしょ。ふふふっ。そんなの払えないもん」
「払う必要ないよ」
え? と問うけれど、その先は命ある限り絶対に教えてはやらない。
慈しみと僅かな狂気を含んだ笑みをくべて、頭の中が疑問符でひしめいている彼女の頬にキスをした。