狭いから仕方がない 目の前で監督生が腕を突っ張って自重を支えているが、なにか夜のなんたらが始まろうとしているわけではないし、そもそもイデアと監督生は付き合っていない。
先程までディスクトップを見ていたイデアは、目をしぱしぱとさせて現状把握に数十秒かけていた。
突飛な展開に頭が追いつかない。
「え……っと、巻き込んでしまってすみません」
ローディング中のイデアがぽかんとした顔で反芻すると、監督生は仮説として自分自身が何らかのトラブルに見舞われ、なぜかイデアを巻き込んだのではないかと言い出した。イデアはふむと斜め上を見つめ、視線の先がすぐそばであると理解するなり手を伸ばして天井に触れる。
ついでに片足も上げてコンコンと天井と床も叩いて音の広がりも確認した。その作業をしつつ「巻き込まれたのは君の方かもしれないじゃん」とフォローのつもりで口にしたりとはできるのに、状況打破の糸口模索に気を取られ過ぎていて、イデアは監督生の腕がずいぶん前から限界だということに気がつけないでいた。
イデアは集中すると周りが見えなくなるタイプの天才なので、この得体の知れない空間が長方形の箱型であり、身動きが最小限にしか取れないほど狭く、かつ魔法が使えないということをブツブツと呟きながら把握し終わりいざ共有。というところで監督生の顔が真っ赤になっていることに気がついた。
「ええっ! ど、どどどどした。空気薄い? せ、拙者、そんなに酸素泥棒してた⁉︎」
「そ、そうじゃなくて、その、う、腕が、もう……げ、限界」
「う、うう腕?」
こんな狭い場所に突如として詰め込まれた時点で「キャーーッ!」と絹を裂く悲鳴をイデアの方が上げてもおかしくはなかったというのに、状況把握のために思考をそちらに回していただけでなく、監督生がイデアに触れないように気を遣っていたから気がついていなかったが、イデアは今監督生に押し倒されているような体勢だった。お待ちかねの絶叫をキャンセルしたのは他でもなく監督生で、プルプルとしていた腕がかくんと折れ、イデアの胸に顔を突っ込むように崩れ落ちた。
イデアは叫びかけた口から「ヒュッ」っと最後の酸素泥棒をして意識を宇宙空間へ飛ばす。
いい匂いがした。この感想から芋ズル式に柔らかい軽い細い気持ちいいだのという開いてはいけない門がオープンしていくので、その留まることを知らない童貞丸出し思考回路を、素数という孤独な数字で上書きしていく。
もう脳内は煩悩ウイルスと素数戦士の大戦争。今いいところなのにブツブツブツブツうるさいんだよ! と無重力空間にいたはずの左手が柔らかい何かを掴んだ。
何これ気持ち良すぎ。新しいスクイーズですか? なんてはいはい妄想乙ですね。これは監督生氏の右尻ですし。
「カハッ!」
活動停止からおよそ一分。イデアは監督生のお尻を二揉みした罪悪感で正気に戻るも地獄でしかなくて、このまま活動停止していたかったと低い天井を見上げる。
「先輩鼻血出てたので、大丈夫かなって声かけたんですけど……すみません」
「い、いやッ、そのさっきのは素数戦士が邪魔だったからで……じゃなく! 情報多すぎ! 拙者鼻血出てるの? うう、こ、コロシテ……」
「息が止まってたのが原因でしょうか」
「そ、そうカモ」
突然息止まってるのもどうかと思うがもうそれでいい。イデアは手首で鼻血を擦ってから監督生に現状の共有をと口を開いたのだが、先程まで近かったはずの天井が遠ざかっている事に気がついて「動かないで」と監督生の頭を胸に押し付けた。
「え、えっ」
「様子が変だ。もしかしたらここ……」
足の面がグッと押し上がる感覚と背中が無理に引き起こされる浮遊感。遊園地の絶叫アトラクションのように内臓が浮き上がり監督生の口から短い悲鳴が上がる。
イデアは監督生に衝撃が加わることがないように抱きしめながら、箱の動きを把握しようと視線をあっちこっちに動かす。
先ほどは長方形だったけれど、どうやら今は正方形に近いような形に落ち着いたらしい。揺れが収まったので緊張を肩から降ろし、そして身体中から汗を吹き出し、顔面蒼白で謝罪を繰り返し隠キャの分際で肩抱き寄せて何やってんだと大後悔祭りを脳内で始める。そろそろ本格的に死にたくなってきているのに、自分の膝に乗せる体勢で落ち着いてしまっている現在。本能は無力で哀れなもので、下半身は死ぬ前に一花咲かせようぜ! と軽めにイキリ始めていた。落ち着いてください頼むから。イデアは顔を赤だか青だか紫だかよくわからない色にしつつ、絞り袋の残りのクリームを無理くり捻り出すような声量で「煮るなり焼くなり好きにしていいよ」と遺言を述べた。
監督生はイデアが色変え魔法大失敗した顔色をしているなんてことはわからない体勢だったが、またがっているし密着しているし彼の謝罪が何に対してかは察していた。
確かに知らない人とこんな状況に陥っていたとしたら怖い。けれど監督生にとってのイデアは知らない人でもなければ嫌いな相手でもないし、むしろ気になっている相手でもあるのだ。
なぜこんなところにイデアと共に押し込められているのかという因果関係を調べるよりも、こうなった相手が彼以外の誰かでなくてよかったという安堵の方が大きい。
なのでたとえ生理現象としても自分を意識してくれたという事実として受け止められるし、何よりこのわけもわからない状況で守ろうという行動をとってくれたことが何より嬉しかった。
監督生はイデアに極力は触れないようにという気を遣っていたけれど、狭いからという建前を使い服をきゅっと掴んで少しだけ身体を預けるようにした。
「せ、狭いですね……そ、それに、また、う、動くかも知れないから」
「……それは……そ、そうだね。うん。有り得るよ。あ、危ないから、も、もっと」
「くっついていいよ」
これはかすかに耳に触れる音だったけれど、狭い空間で聞き漏らすことはない。監督生がイデアにくっつくように身体をずらし、イデアが天井についていた手を監督生の身体に滑らせようとした時
「兄さーん。絶対に動かないでねー」
というオルトの声が聞こえてきたことで、バッと腕を元の位置に戻して固まる。
するとレーザー光線が箱を貫通してきて、直径二センチほどの小さな穴が空いた。
「二人とも無事? 今出してあげるからね!」
「待ってオルト! ここが今どこかによっては今すぐにじゃなくて大丈夫!」
の大丈夫はメインストリートを駆け抜けて、一足先に学園の校舎にたどり着いててしまう。
イデアは本日ようやく絹を裂く悲鳴を上げることに成功したのだった。