イブが残した果実2 どうして? どうしてこんなことに? 早足で歩いているのに、隣を並走しているひとは涼しい顔をしている。どうやら歩幅の問題で、私が精一杯足を忙しなく前へと出していても、彼にとっては長い足を少し大きく出すだけで埋められる程度の努力らしい。
グリムも関わりたくないと耳をイカのようにしてテッテッと四つ足で早く走っていると言うのに……
ちらっと隣を見るとニッコリと「たまたま方向が同じなんですよ。よかったら一緒に向かいません?」なんて白々しい。
はい無駄な努力おしまい。とほおの横で手を重ねているようにしか見えない。
「自分は……忘れ物を、したようなので」
「ああ! 奇遇ですね僕もあなたが先程いらっしゃった薬学室に用があるんです。さ、行きましょうか」
「やっ、やっぱり後でいいかも」
「ふむ、では僕も後でいいです」
「あの、なんで、」
「はい?」
「着いてくるんですか?」
それに答える気はないらしく、目を細めるだけだった。普通に怖い。
もしかして、やっぱりあの時起きてたの? どうしよう。変態だって、ううん、それだけじゃない。気を失ってるのをいいことに好き勝手したんだから、相応の対価をって言われたら払える自信なんてない。
「もしかして」
「監督生じゃないか。先生が呼んでいたぞ」
遮るように肩を叩いてそのまま私とアズール先輩の間に立ったのはジャミル先輩だった。
私が縋る思いで先輩を見上げると、ほんの少し目元を柔らげて「行け」と顎をしゃくる。きっと先生からの呼び出しというのはこの場を凌ぐ嘘だろう。
会釈をして「行こう」とグリムに声をかけてその場を去る。
去り際にアズール先輩を見ると、彼は一瞬忌々しいものを見るように眉を寄せていたが、すぐにパッと微笑んでふりふりと手を横にスライドさせていた。
やっぱり……気づいてる、よね?
バクバクとうるさくなる心臓と、取り返しのつかない過ちに頭の中で「こめんなさい」を何度も何度も繰り返していた。
傲慢な私は謝りながら「どうか嫌いにならないで」なんて祈ってしまう。
おかしいな。恋ってこんなに醜い感情だったっけ。
「なぜ監督生に付き纏うんだ」
「付き纏うだなんてそんな……僕はただ親睦を深めようと思っただけですよ」
「白々しいな。おまえの魂胆はわかってる」
「……ほう。それは興味深い……いったい、どんな魂胆があるとお思いで?」
「大方監督生から俺の要求を聞き出そうってことだろう? 残念だったなアズール。監督生は俺とおまえが契約していることすら知らないんだ」
「と言いますと?」
「無駄だってことだよ」
アズールの読めない表情に臆することもなく、ジャミルはじっとその空色を真っ直ぐ見つめて言った。
面倒なことになった。まさかこういう手に出るなんて……詰めが甘かったとしか言えないな。
ジャミルはアズールの執着心は頑固汚れよりもしつこいということを痛感していた。というよりこれはもう剥がすのを失敗したシールの残骸を剥がすときの不快感に近いな。
しかしこの不快感を少しでも顔に出そうものなら、アズールはその隙を突くだろう。ああもうほんと最悪だなコイツ。とジャミルは余裕のある笑みを携えたまま「諦めて早くどっか行け」と思っていた。
「監督生さんと随分仲がよろしいんですね」
「この前もそう言っていたが……もしかして羨ましいのか?」
「なぜ僕があんななんの価値もないようなひとと仲良くなりたなんて思うんですか。仲良くなって損はありませんが、僕が諂わなくたってあのひとの方から媚びを売ってきますよ」
「おまえのその自信はいったいどこから来るんだ? まあそうやってふんぞり返っていたところで、所詮は先輩後輩の間柄にもなれやしないさ」
「は?」
どういう意味ですか。と踏み込もうとした時、予鈴が鳴り響いた。当然ジャミルはそれに乗ずるように「じゃあな。着いてくるなよ」と背を向けた。
手を伸ばしたままの形で静止していたアズールは、言われたことを脳内で復唱していた。
なんだって? 先輩後輩にすらなれない? じゃあ僕と監督生さんの関係はなんなんだよ! 確かに友達ではない。でも先輩後輩くらいには……そもそも先輩後輩ってなんだ? ああくそ! なんか腹が立ってきたな! というか
「着いてくるなって、僕あなたと同じクラスなんですが?!」
時間の流れがゆっくりと過ぎていた。だというのに、目に映る景色は猛スピードで上へと流れていて、体の中に収まっている内臓がぶわりと浮遊して懐かしさを感じた。海から出た時もこんな感じだったっけ……
なんて呑気に考えていた僕の意識を「アズール先輩!」と叫ぶ高い音に引き戻されたのだ。
防衛魔法、それから受け身。思考速度より早く体が動く。
気を失う確率は90%。怪我は最小限で済ませられるだろう。
ガツンという衝撃の後の記憶は途切れている。
「先輩後輩くらいの間柄でしょう……」
「ねぇさっきからなにブツブツ言ってんの〜?」
「さあ、どうやらジャミルさんの要望を聞き出す前準備として、監督生さんを懐柔しようと試みたところ、あえなく失敗して落ち込んでいるんでしょう」
「へー、小エビちゃんアズールのこと好きなくせに絡まれると逃げてくよね〜」
「フロイドそれは言わない約束でしょう?」
「そうだっけ?」
アズールは「今なんて?」と席を立った。ジェイドとフロイドのわざとであろう会話に、踊らされるのは釈然としないけれど、その情報には価値がある。
あのニンゲンは僕のことが好きだって? それは好都合だ! それがどんな意味合いの好きだとしても、この際なんだっていい。好意を抱く相手からよくしてもらえるのは嬉しいに決まっている。よしよし、そうと決まればやり方を変えていかなくては! アズールは先程までの不機嫌さをさっぱりと落として、上機嫌で鼻歌を歌い出していた。
「で? 監督生さんはどんな風に僕が好きなんです?」
「え、しらね。てか好きっていうのもなんかビミョーつーか、なんかよく目で追いかけてんなーってだけー」
「所謂興味があるという程度かもしれません」
「なんだそれ」
アズールは机に肘をついて「ニンゲンが人魚を珍しがるのなんて当然じゃないですか。ましてや異世界からやってきた彼にとってはイデアさんの言葉を借りて言うなら、僕ってレアキャラですし」
なぁんだ。と上機嫌を平常に戻して、アズールはどう監督生にアプローチを仕掛け、お近づきになり、そしてジャミルの弱味……ではなく、ジャミルの願いを聞き出そうかとプランニングを始めていた。
こんなに手こずるとは思いもしなかった。というかジャミルさんも邪魔してくるし。ってこれじゃどちらに狙いを定めているのかわからないじゃないか! とアズールが気づいて、やめだやめとしかけたが、ジャミルと妙に親しい監督生のことを思い出すと、胸の奥がもやっとして不快だった。
不快な理由に拍車をかけたのは他でもないジャミルだ。意訳「おまえは仲良くなれやしない」と言われたのが気に入らないのだ。
こうなったら絶対に仲良しになってみせようじゃないか! 完全に方向性を間違えているが、欲しいと思ったものを手にしたい欲張りなところがアズールたらしめるものであり、本人もそれを自覚している。
これは簡単なゲームだ。
絶対にクリアしてみせる! そう意気込んでいるアズールを、双子は「なんか面白いことになりそうだな」と眺めていた。
監督生は極度の緊張状態で食事をしていた。最早味は感じない。ただ口に運び咀嚼して飲み込む作業だ。
この料理がアズール手製だというのに残念でならないが、喜びよりも恐怖の方が優っていた。
あの日気を失っているひとにキスをしたことを、アズールは知っている。だって、じゃなければこうも執拗に絡んでくるはずはない。これはきっと「聞きたいことがあるんですけど」と切り出すための罠に決まっている。
せっかくジャミルが庇ってくれたり黙っていてくれていたのに、初めからそれは無意味なことだったなんて。
「お口に合いませんか?」
「え、い、いえ、そうではなくて、緊張してしまって……あんまり、味が」
「……やっぱり本当なんだな」
ブツブツとアズールが思案している。監督生は聞き逃してはいなかったので「やっぱり?!」と咥えていたフォークを噛んでしまっていた。
ダラダラと垂れる汗をナプキンで押さえながら「グリム、そろそろ帰ろっか」と席を立とうとする。
しかしアズールは逃がさないと「デザートを用意してありますので」と片手を上げて、寮生に持ってこさせた。
グリムは大喜びでデザートに舌鼓を打ち、監督生は消えかけた声で礼を言う。
早く食べて逃げなきゃ
「はぁ……」
「えっと……」
「ああすみません。少し悩みがあって……大丈夫です。気にしないでください」
「そうですか」
「…………はぁ〜〜……困ったなぁ」
「………………なにかあったんですか?」
「え? 聞いてくださるんですか? ああ、あなたって本当優しいですね。ありがとうございます。実は少し前に働き手がかなり減ってしまったんですけど……ああ! 別にあなたのせいだとかそういうことではないですよ。ただ事実として事を述べただけです。ありがたいことにモストロ・ラウンジは大盛況でして、人が足りないんですよね」
あからさまな聞いてくださいアピールにまんまとハマり、そこからチクチクと嫌味を交えながらも「あなたのせいじゃない」などという実際はそうですけど、でも気にしないで。なんていう嫌な話の運び方をする。
加えて監督生はアズールに惚れている。なのでかなり胸も耳も痛かった。
「そういえばこの席ね、ウィンターホリデーの後に修繕したんです。傷がついてしまっていて……」
監督生はついに頭を下げて「自分で良ければ働かせてください」と口に出していた。
「それはありがたい申し出だ。それに今からバイトをしませんか? とお聞きしようかと思っていたので」
と白々しいまでのセリフを吐いて契約書をテーブルに滑らせた。
監督生はしぶしぶというようにサインしてアズールへと返せば、彼は満足そうに微笑んで「これからよろしくお願いしますね」と手を差し伸ばしてきた。
え? と監督生は目を丸め、その白手袋に包まれた手と、ニコニコと微笑んでいるアズールと行ったり来たり見比べていた。
握手? 私と先輩が? と震えてしまいながらも、いつまでも待たせているのはいけないとおずおずと手を差し出せば、がっちりと手をホールドされ、そして
「あなたの事はなんでもお見通しですよ。せいぜい頑張ってくださいね」
なんて。
監督生は浮かれたり焦ったりと忙しない時間を過ごし、最終的に凍るような感情に苛まれることとなった。
そうだ、アズール先輩にバレてるかもしれないんだった。
ガタガタ震えながら「あの、なんのことだか」となけなしの虚栄心でシラを切ろうとしたのだが、アズールの最後の攻撃に撃沈した。
「あなたが僕のことを好きなことはわかってますから」
アズールはこの事に確信を持つために、今日はあえて接触を減らしていたのだ。
とはいえ目の端に映るくらいの距離感を保って確認したところ、どうやらジェイドとフロイドがいうように、監督生はアズールの存在に気づくと目で追いかけているのがわかった。とはいえ話しかけてくることもなければ、近づいてもこない、ただ単にやけに熱っぽい視線を向けてくる。
「こっちまで熱くなってくるな……」パタパタと火照る顔を仰ぎながらその視線の意味を汲み取ろうと額を叩き、これは……と考える。
そして浮かんだのは『がけも』を応援している時のイデアの目だった。
憧憬というより崇拝に近いようなあれ。
まあ若干違うかもしれないが、似たようなものだろう。
ということは、あのひとは僕にアイドル的憧れを抱いているということだろうか。
ま、まあ。僕は珍しい人魚でもあり、優秀ですし、異世界から来た常識知らずの監督生さんが憧れてしまうのも無理はない……
そんな憧れの存在に無理に距離を詰められるのは確かに緊張してしまうだろう。
ならば。
とアズールが選択した手段は「バイトをさせる」だった。
憧れの存在のそばに合法的にいられるのは、働かせることだけ。そうすれば自然と接触できるし無駄に労をこうすることもない。それでもって働き口が増える。アズールにとっては良いこと尽くめ。
「せ、先輩は、自分のこと嫌ってるんじゃっ!」
かと思えばこの返答はどうなんだ?
アズールは手を離すタイミングをすっかり見失い、握手している状態で述べられたものに、顎に手を当て「なんで返せばいいかな」と考える。
飴と鞭はうまく使わなくてはいけない。
このひとを喜ばせ、そして調子に乗らせず主導権を握っておかなくては、またあの時のように割を食わされかねないからな。
そもそも……嫌ってないし。
「別に嫌ってません。あなたのことは便……おもしろいひとだなあと思ってますよ」
「ほ、本当に?!」
「本当ですよ。なんで嘘をつくと思うんです? というかそろそろ手を離してください」
「あっ、すみません!」
「……嫌われていたからといってあなたになにかあるんですか? 別に僕に好かれなくともあなたには構ってくださる先輩はたくさんいるでしょう」
何言ってるんだ僕は。これじゃまるで……まるで、やきもちを妬いてるみたいじゃないか。
「今のは忘れてください」
アズールは監督生の返答を待たずに背を向ける。ソファーに立て掛けておいたステッキを持って「今日の食事代はお気になさらず」と残して、監督生の視界から消えた途端早足でVIPルームに閉じこもった。
「くそっ……ジャミルさんが変なこと言うから……」
『先輩後輩の間柄にもなれやしない』
「…………先輩後輩くらいの間柄って……そもそもなんだよ……」