同じ地獄で待つ5/五夏◇
家入からの連絡は、それほど待たされることはなかった。五条が密かに家入の医院を訪ねて、数日もした頃には家入から医院に来るよう連絡があり、五条と夏油はその個人医院へと足を向けた。
「また面倒なものを持ち込んでくれたな」
「はは、ごめんって」
そう五条は謝るが、全然心がこもっていない。家入は心底呆れたような顔で、ふたりに応接セットのソファに座るように促した。
「で、どうだった?」
「まぁ、アタリかな。お前らが探してるブツで間違いないだろうよ」
家入曰く、これは煙草の葉にMDMAの一種を浸したものだという。MDMAは、アンフェタミンと類似した化学構造を持つ化合物であり、愛の薬などと呼ばれることもあり、共感作用が強いものだ。それに類似した物質が検出されているが、まぁ出来としては不純物も多く、粗悪品にあたる代物だろうというのが家入の見解だった。
「問題はその不純物の方ね。依存性を高める効果がある。それはまぁいいんだけど、オーバードーズするとある程度の確率で死ぬ」
「そんなに確率は高くない?」
「そりゃね。客全部殺したって意味ないだろ。たぶん基礎疾患とか、その時の体調とかも影響するんだろうけど、異常に血管が壊死してって、場合によっては血栓が頭とか心臓に飛んで死ぬって感じかな」
それは、随分な粗悪品だ。あの死亡した男女の写真の血管も異常な見た目をしていたが、そういう機序だったようだ。そのあたりはああして見た限りではわからないから、少し警察からの情報も仕入れた方がいいかもしれない。
「それにしても手間のかかる作り方してるよね。絶対錠剤の方が運びやすいのに」
「煙草の方が目くらましにはなるからね。知らずに吸ってる人もいるかも」
そんな会話を五条と交わしながら、家入に謝礼を支払おうとすると、そんなのいらないよ、と言われる。これもいつものことだ。なので、別に用意していた一級品の日本酒を一升瓶で二本渡すと、そうそうこれでいい、と機嫌良く言われた。
「手に入らないんだよね、これ」
「いつでも言ってよ。これならツテがあるから」
ふふん、と貰った一升瓶を眺めて、家入はご機嫌だ。家入の酒豪ぶりは学生時代から有名で、飲み勝負で誰かに負けたところは見たことがない。
「警察には言った?」
「別に。言った方がいい?」
「いや、いいよ。こっちで処理したいから」
ある程度、薬の本質の方はわかったので、次は流通ルートだ。それを探り出すのはこちらの仕事である。
「そういえば、抑制剤処方しとく? そろそろなくなるだろ」
「あぁ、そうだった。お願いしてもいいかい?」
「後で届けさせるよ」
そんなやりとりは日常的だが、別に、夏油のアルファとしての性質は決して不安定なものではない。ただ職業柄、ヒートになったオメガに鉢合わせることも多いので、基本的には抑制剤を常飲するようにしていた。番いのいる身の上で、オメガのハニートラップに引っ掛かるなんて、笑い話にもならない。
「今回はありがとう。また頼むかもだけど」
「面倒ごとはやめてくれよな」
家入の医院は、表向きにはごくごく一般の医院だ。十数床程度の入院施設はあるが、入院患者は多くない。外科を標榜しており、ヤクザ以外の普通の患者だってもちろん受診している。個人医院にしては珍しく救急外来をあけているので、それなりにいろんな患者がやってくるようではあるが、大きなトラブルに発展することは少なかった。まぁトラブルになれば組に相談が来るので、大事になることはないと言っていい。
「お前らもあんまり無茶すんなよ」
「はいはい」
五条はそう言葉だけで返事をして、あまり深刻には受け止めていない。夏油と組めば、大抵のことは上手くいく。そういう頭がどこかにあるようだ。俺達最強じゃんね、というのが五条の口癖で、それは出会った頃から変わらない。
「一旦戻ろうか。部下の報告もそろそろ上がってくるかもしれない」
「そだね。じゃ、硝子、またね~」
今度飲みにでも行こう、と話し合って、家入の医院を後にする。目立たないよう、医院から少し離れた位置に駐めてあった車に戻り、屋敷へと向かった。
戻った夏油が部下に招集をかけると、部下達は程なく屋敷に集まってくる。直属の部下が全員集合したところで、夏油は報告を求めた。
「それで? 何かわかったかい」
「売人は殆ど素人ですね。何人か話を聞きましたが、借金のカタに売らされてるのが数人ってとこです」
「うちの闇金?」
「それが違うみたいなんですよ。その辺は全然喋らなくて」
「ふぅん、徹底してるねぇ」
流通ルートは、先日五条と夏油が把握したように、うちの組がケツ持ちについていないクラブで横行しているようだった。最近はそういう店の入れ替わりも多くて、若中の連中も全ては把握しきれていないらしい。シノギにも関わるので、もうすこし下の連中を鼓舞する必要があるかもしれない。
「他には?」
「それが、これはまだ筋のはっきりしない情報なんですが……」
そう言って、部下は言葉を濁す。夏油がはっきり言うように促すと、少し悩んだ様子を見せながら、部下は続きを話し出した。
「どうも、大木の兄貴が絡んでるって話が……」
「……なんでそんな話が?」
思わず夏油の喉から硬い声が出る。それも仕方のない話だ。
「まだ噂レベルなんですが……」
「そんな噂が立つこと自体が問題だろう」
大木は、松木組の本部長を勤めている男である。そんな役職にいるからには、もちろん組にも長く勤めていて、仕事は出来るし、周囲の信用も厚い男だ。夏油から見ると、もう大先輩である。小さい頃の夏油にはよくしてくれたし、大木に対して嫌な感情は持っていなかった。
「もうすこし精査してくれ」
「わかりました」
そのくらいの報告を受けて、今日は解散となった。しかし、大木が出てくるとなると、話は一気に大きくなる。何より問題になるのは、この組の内部に裏切り者がいるということだ。そうなると簡単には話を済ませられない。これが真実なら、大木にはケジメをつけさせなくてはいけない。
「傑、大丈夫?」
「……あぁ、うん。ごめん、心配かけたね」
「いいけど」
離れに戻り、五条とふたりでまた話を続ける。五条はずっとこの離れで暮らしているが、その性格から組の内情に詳しいわけではないので、簡単に説明してやることにした。
「大木さんは、うちの本部長だよ。親父とは五厘下りの兄弟盃を交わしている。私が幼い頃からこの組にいる重鎮でね」
本部長は、執行三役のひとつである。実務能力の高い有能な幹部が抜擢される役職だ。金銭の取り扱いだけではなく、警察との対応や、本家のあらゆる実務を総合的に取り仕切ることになる。
「その人が裏切っているとなると、さすがに話が大きくなる」
「そりゃそうだな。俺も調べよっか?」
「いや、私の方で調べるよ。信じたくはないけど……」
本部長である大木が、夏油ではなく弟の方を押している、というのは噂に聞いたことがあった。確かに血筋でいえばそちらの方がずっと正しいし、大木がそうすることに関して不満はない。ただ、麻薬の取引だけは親父への裏切りにもなる。これは、ここでケリをつけなければいけない案件だ。曖昧には出来ない。その思いをまた強くした。
調べれば調べるほどに、大木に関していい情報は上がってこなかった。大木は、夏油も信頼している仲間でもある。それを裏でこそこそと調べるというのも嫌だったが、噂を裏付ける情報しか上がってこないのもまた嫌だった。そう感じてみて、初めて夏油はこの組のことが嫌いではないのだな、ということに思い当たった。ここは、小学生の頃からずっと過ごした家のようなものだ。硬い一枚岩であって欲しい。たぶん、気が付かないうちにそう考えてしまっていたのだと思う。
「傑、なんか落ち込んでない?」
「大丈夫だよ」
そうは言ったが、正直気分は沈んでいた。自分を追い落とすための手段として、大木が麻薬に手を出すことを選んでしまったのだとしたら、原因は自分にあるようなものだとすら思う。そもそも自分がこの家に引き取られなければ、後継者問題なんてことにはならなかったのだ。弟に後を継がせることに、夏油に否やはない。ただ、弟はまだ十二という年齢でもあるので、後見役は必要だ。そこを大木は狙っているのだと思った。
「麻薬の現品も押さえたし、流通ルートもあらかたわかっただろ。もう仕上げてもいいんじゃないの?」
「そうなんだけど……」
ここで躊躇ったところで、いい結果にはならない。そうわかってはいるが、やはり腰が重かった。出来ればそうしたくない、そういう感情がないとは言い切れない。
小さい頃、なにかある度に頭を撫でてくれたのは父ではなく、大木だった。学校のテストでいい点数を取ったって、父が褒めてくれることなんてない。けれど、そんな小さなことにも大木はよく気付いてくれて、子供ながらに自然と憧憬を感じていたのは事実だった。それを、今は追い落とさなくてはいけない。夏油の決意が鈍るのも仕方のない話だと思う。
「お前がやりたくないなら、俺がやってもいいけど」
「……駄目だよ。悟にはそういう舞台には立って欲しくないんだ」
五条は、あくまで夏油の番いという立場でこの家にいる。まわりの連中からは夏油の情婦として見られていて、あくまでも夏油の付属品という扱いだ。それがこんなにも有能だと知られてしまえば、場合によっては命を狙われる可能性だって出てくる。それだけは絶対に避けたかった。
「気を遣ってくれてありがとう。でも、これは私の仕事だから」
やるしかないのだ。そう決意して、夏油は重い腰を上げる。大木が絡んでいるとしたら、そう簡単に尻尾は掴ませないだろう。上がってくる話はどれも状況証拠でしかなく、まだ確たるものはない。こうなると取引の現場を押さえるか、大木に直接繋がる人物を捕まえるしかないと思う。地道に流通ルートを潰して焦らせてもいいが、それで逃げられてしまっては元も子もない。
大木を追い落とすことが、ほんとうに自分に出来るのだろうか。正直言って、あまり自信はない。でも、自分がやらなくてはいけないのだ。この仕事は、他の誰にも任せることは出来ない。
「あんまりひとりで背負い込むなよな」
「ありがとう」
五条は何かある度、こうして夏油を気遣ってくれる。だが、これは夏油ひとりが背負うべき問題だった。はっきりとケジメをつけなくてはいけない。
部下を呼び出し、何人かを交代で大木に張りつける。現場を押さえないことには、これ以上何も出来ない。しかし、大木の方もかなり慎重に動いていて、やはり簡単には尻尾を出してくれてなかった。
だからといって、こちらが焦ってもいいことはないので、調査は慎重に進める。取引現場が押さえられないなら、せめて大木に直接繋がる売人の情報が欲しい。そう思って流通ルートの方も改めて精査したが、接触出来た末端の売人達はそのあたりの情報を殆ど持っておらず、行き詰まっていた時だった。
その日は、新たな情報源となる売人を探して五条とふたりで街に出ていた。売人の方も最近組が目を光らせているのを知っているので、そう簡単には見つからない。そんな中、不意に声をかけてきた男がいた。その時、五条と夏油がいたのは先日、五条が誘われたパーティーをしていたクラブである。その日もVIP席ではいくつか集まりが開かれているようで、不意に五条と夏油に声がかかった。
「あんまり見ない顔だね? 初めて?」
「最近来るようになったんだ。いいの? 上行って」
「いいよ。ふたりともイケメンだし」
男は調子のいいことを言って、ふたりをVIPルームに誘う。部屋の中にはすでに何人かの男女がいて、楽しそうに酒を飲み交わしていた。テーブルの上には、酒以外にもいくつかの錠剤が無造作に置いてあって、夏油はすぐにそれに気付く。ラムネのような形をしたカラフルな色彩のそれは、たぶん麻薬の類だろう。
今、夏油が追っているものではないかもしれないが、ここまで大っぴらにされると気にはなる。誘ってきた男は、夏油が視線の端で錠剤を見たことに気が付いたはずだが、焦る様子もなく、それを隠そうともしなかった。逆に、興味ある? なんて楽しそうに聞いてきたくらいだった。
「それね、新作らしいよ」
「新作?」
「そ。今までは煙草だったんだけどさ。錠剤作れるようになったって聞いた」
「へぇ、そうなんだ」
なんと、どうやらそれは、真実夏油の追っていたものだったらしい。煙草の方は夏油がいくつか流通ルートを潰してしまったから、手を変えてきたようだった。
「ドーナツみたいだね。可愛い見た目してる」
「煙草よりずっとキくよ」
そう言って、男は錠剤を飲み下した。夏油もそれをひとつ手に取り、飲み込む振りをして器用にポケットにしまう。誰も、夏油がそんなことをしているとは気がついていない。どうやらまわりの連中は既に錠剤を服用しているようで、ふらついている者もいれば、ゆらゆらと頭を揺らしている者もいた。
「なんてクスリ?」
「ヤオトウ」
ヤオトウ。最近はあまり聞かないが、中国のあたりで出回っているMDMA系の麻薬がそんな名前だった気がする。そのままその薬なのかもしれないし、名前だけ借りているのかもしれない。さすがに成分は持ち帰って精査してみないとわからなかった。
そんなことを考えていると、部屋の中に流れている音楽が、突然ぐん、と音量を上げる。それに合わせて頭を揺らしていた者たちは激しく頭を振るようになった。明らかに恍惚とした表情で、まわりは見えていない。効きがいいというのはほんとうらしい。夏油も、効いているようなふりをして、緩く頭を揺らした。部屋の真ん中で踊りながら、きゃらきゃらと笑う女の声が妙に部屋の中に高く響く。
「これ、誰がくれるの?」
しばらくして、じゅうぶんに薬が回ったであろう警戒が薄れるタイミングで、夏油は男にそんなことを聞いてみた。そうすると、男はすこしも隠すこともせず、パーティーのメンバーのひとりを示す。メンバーの中では、すこし年嵩の男だ。どうやらその男は薬をやっていないようで、まわりの狂騒を他所に椅子に座り、のんびりとビールを飲んでいた。
「ねぇ、これ、貴方が持ってきたの?」
「あ? だったらなんだよ」
「違うよ。私にも分けて欲しいなって」
今度夏油も大きいパーティーをやるのだと言えば、男はそれほど不審には思わなかったようだ。機嫌よさそうに、高いぜ、と笑う。
「そんなに?」
そう言って男が提示した金額は、確かに相場よりは若干高い。純度が高いからこれくらいになるのだと男は得意げに話していて、そのうちに夏油が聞いてもいない話までし始めた。そのひとつひとつにうんうん、と頷いて話を聞いてやっていると、さらに機嫌がよくなったのか、自分はこの薬の元締めなのだと言い出す。こんないい加減な男が大木に繋がっているとは到底思えないが、どうやらそれなりの流通量は持っているようだ。どうも単なる末端の売人ではないと思われた。
ここからどうやって話を進めようか、と夏油が考えていると、別の場所で、ほかの薬を飲んでいない連中とガス水を飲んでいた五条が近付いてくる。たぶんこちらの話を聞いていて、参加しに来たのだ。
「なんか面白そうな話してる?」
「なんだお前」
こいつの連れ、と言って五条は夏油に撓垂れ掛かった。そこから軽く五条が視線を流してやると、男はあからさまに顔を赤らめて、そ、そうか、と呟いたくらいだった。
「これ、なんで色が違うの?」
「純度が違う。今日は特別だ」
普段は一錠ずつバラで売ってやるのだと話し、丁寧にも小袋に入った薬を見せてくれた。緑、赤、白。大体そんなところだろう。緑色のものが一番値段が高いらしく、純度が高いそうだ。
「俺も欲しいなぁ」
「いいぜ、やるよ」
そう言って、男はポケットからその一番高いという緑色の錠剤を差し出してくる。五条はそれをそのまま受け取ると、躊躇なく手に持っていたガス水でそれを飲み下したふりをした。そのあたりは、さすがに五条も上手い。帰ったら、また家入に成分分析を頼もうと思う。十中八九、成分はあの煙草と同一のものだろうと思う。とりあえずそのためには二錠もあればじゅうぶんだろう。
あとは、この男だ。どうにかして接点を残したい。ここで逃すことはしたくなかった。
どうしたものか、と夏油が考えていると、その間に五条が男の隣に座る。さりげなく距離を詰め、するりと男の手の甲に手を這わせた。
「……これ、おにーさんが仕入れてんの?」
「あ、あぁ」
それを聞いて、五条は美しい笑顔を浮かべて、ぐい、と男に顔を近づける。それに驚いた男は若干仰け反るようにして椅子に深く腰掛けた。それでも五条は気にすることなく、さらにぐいぐいと近付いていく。
「俺さぁ、そういうの興味あって。どっから仕入れんの?」
「言えるわけねぇだろ」
「ま、そりゃそっか。ヤクザとか怖いもんね」
そう五条が残念そうに言うと、男は五条に粉をかけられて機嫌がよくなったようで、そうなんだよ、とまた調子良く話し出した。このあたりを松木組が取り仕切っていて、そこが麻薬を御法度としているのは知っているようだ。
話を聞いていくと、どうやら男はほんとうにこの麻薬の流通を取り仕切る立場にいるらしく、末端の売人にこの麻薬を手配しているようである。夏油も売人になりたいとでも言えばいいだろうか。突然そんなことを言い出したら、さすがに不審がられるか。
そんなことをつらつらと考えながら男と話していると、五条が男に寄りかかるようにして「気持ち悪い」と呟いた。見れば、確かに顔色も悪い。元々肌は白い方だが、明らかに血の気が引いている。
「お、おい。大丈夫かよ」
五条がトイレ、と呟くので、男は慌てた様子で五条を支え、急いで部屋を出て行く。夏油も、すこしタイミングを置いてそれを追った。たぶん、薬を飲んだわけでもないし、ほんとうに具合が悪いわけではないと思う。演技だろう。五条はそういうところもほんとうに器用だ。
男性トイレに入ると、ふたつあるうちのひとつの個室が埋まっており、気付かれないように様子を窺うと、足がふたつ見える。五条が何事か囁いているな、と思ったら、ガン、と壁に重いものがぶつかる音がした。
「荒っぽいね」
「これが一番手っ取り早いじゃん」
そう言って、何もなかったような顔をして個室から五条が出てくる。男の方は、もうぐったりと個室の中でのびていた。たぶん腹にでも強烈な一発を入れたのだろう。軽く揺すってみても、起きる気配もない。
せっかく五条が作ってくれたチャンスだ。とりあえず男を連れ帰ることにして、夏油が男に肩を貸し、介抱するようなふりをして店を出た。