音は鳴らないまま音無先生に頼まれて普段滅多に来ない教室に行くと、既に鍵が空いていた。恐る恐るドアを開けると、中には何やらせっせと動かそうとしている神童の後ろ姿があった。
「神童?こんなところで何してるんだ」
「ああ、霧野か…このピアノ、音が出ないんだ」
音叉を鳴らしてみると、確かにか細い金属音が響いた。鍵盤の上には埃が積もっているし、キーと鍵盤の間に綿ゴミが入っているのが見える。蓋を開けると木屑が出てきて、その下の方に小さなホコリがついている。調律用のハンマーで叩くと、それはあっけなく落ちていった。
もう一度音叉を鳴らし、今度は俺の手の中で叩かせる。俺はもう一度それを落とす。
「これでいいはずだけど…………ちょっと待っててくれ」
そして、彼は隣の部屋に入っていく。数分後出てきた時には、その手には白い布を持っていた。
「じゃあこれを被せて拭き掃除をするから、その間にこのネジとかを外してくれないか?」
言われるままに工具箱を出してきて作業する間、神童は黙々と作業をしていた。だが一通り終わったころ、ふい
にぽつりと言ったのだ。
「なぁ……このピアノ、誰かのために作られたような気がしないか?」
思わず顔を上げた。こちらを振り向くこともなく続ける彼の横顔をじっと見つめた。
「なんかすごく寂しい感じというか、誰かを待ってるような雰囲気があるんだよ。これ、前にお前と一緒に調べたことあったよな?『この世に存在することさえ知られなかった幻の名器』だったっけ」
懐かしいな、と言って神童は再び前を向いた。もう埃はほとんど取れているピアノの表面を見ながら、俺もその隣に座ってみる。あの時はただ興味本位で、誰にも存在を知ることのできないピアノを探しただけだったけれど――。
今は違う気持ちになっていることに気付く。
俺にもわかることがある。神童と同じことを思っていること。ずっと探していたものをやっと見つけたような気分になること。
俺たちはずっとここにいるべきなんじゃないのかと思う時があること。
だけどそれが叶わない願いだということを知っていることだ。
俺はまだ自分の中にある想いを口にすることができない。口に出してしまったら消えてしまうかもしれないと思ったからだ。でもいつかきっと言わなくてはならない日が来るだろう。その時が来たら、俺は何を言うべきなのか知っているだろうか? 俺の隣にいるこの男はどんな答えを出すんだろうか。それを知りたいと思ってしまうのはいけない事なのだろうか…………? そんなことを考えながらぼーっとしているうちに、すっかり遅くなった。さすがに帰らないとまずいかと思い立ち上がった瞬間、後ろでドスン!と大きな音がした。振り向いて驚いた。椅子を倒したままの姿勢の神童が床に転がっていたのだ。慌てて駆け寄ったのだが、意識はあるようだったがぐったりしていて返事がない。頬に触れると驚くほど熱かった。とりあえず保健室へ連れて行こうとしたのだが、肩を抱えようとした途端うわごとのように呟かれた言葉を聞いて立ち止まってしまった。
「俺は…………、まだ…………あいつの夢の中にいるみたいだ」
え、と言う間もなくそのまま眠ってしまう。仕方ないので背負って行くことにした。保健室の先生はいなかったが勝手にベッドを借りることにする。一応神童を寝かせてから自分の荷物を取ってこようと一旦廊下に出たところで、背中の方から声をかけられた。
「あの…霧野さん、ですか。文芸部の」
「えっと、君は……」
「お、おれ、松風です。一年で、書道部なんですけど。あの」
きっと先輩と話すのに慣れていないのだろう。落ち着かせるように、ゆっくり声をかける。
「どうした?」
「えっと、音無先生から、霧野先輩が準備教室の鍵を持ってるって聞いたので……」
「取りに来たのか。すまないな、返すのが遅れて」
「い!いえ…いいんです。それじゃあ」なぜか真っ赤になって走り去って行った松風の後ろ姿を見送りながら、改めて神童の方を向く。相変わらず苦しそうに眠っているが、先ほどの苦悶に満ちた表情とは少し違っているような気がした。
「まったく…………無理するなって言ったろうに」
小さく呟いてみたが、もちろん返答はない。
ふと、何かに呼ばれたような気がして振り返ったが、そこには誰もいない。
「気のせいか…」
***
目を覚ますと真っ白な天井があった。よく周りを見渡すと保健室だとわかる。頭がずきずきするのは倒れてしまった影響ではなく、熱を出したとき独特の鈍痛だからだとわかるまでに数秒かかった。ああそうかと思い出すまで、更に数瞬かかってしまったのには理由がある。それは俺自身が記憶を失っていることに気づいたからだ。あれ?俺今何を考えていたんだっけ? ゆっくりと起き上がってみる。倒れる前のことは思い出せないが、身体も動くようだ。時計を見ると午後四時過ぎだった。
なんだかずいぶん長い時間眠っていたような気がする。
「あ、神童先輩!起きたんですね」
心底嬉しそうな人懐っこい笑顔で駆け寄ってくる、こいつ。えっと、そうだ、天馬だ。サッカー部の…………。
「気分はどうですか?頭痛とかありません?」
「うん、大丈夫だ。心配かけて悪かったな、天馬。もう平気だよ」
「よかったぁ~!急に倒れちゃったから心配したんですよ。霧野先輩がここまで運んできたんです。あっ、今は先生のところに行ってますよ」
そうだ、俺、練習中に倒れたんだよな。それでここに運ばれて。
ん?でもなんで俺がここにいるんだ?どうしてここに来たんだっけ?というより、ここはどこだ? 頭に疑問符を浮かべていると、ドアが開いて先生が入ってきた。
「神童くん、大丈夫?お家の人にはもう連絡しておいたし、迎えに来るって言ってたわよ。今日はもう帰ってゆっくり休んでね。みんな心配してるのよ」みんな…………?誰のことだろう。俺の記憶にはない人たちのような気がするが…………。
「はい…………すみません」
「謝ることなんて何もないわ。大事がなくて良かった」
「あの、あの…………」
「ん?どうかした?」
「いえ、なんでもありません」俺は何を言おうとしたんだろう。自分で自分がわからないなんて、本当に熱のせいでおかしくなっているらしい。早く家に帰ってちゃんとしたベッドで眠らないと治りそうもない。
俺はそっとベッドから降りた。
「…………あの、先生」
「何?」
「俺は…………」
「神童くん、きっとまだ疲れているのよ。先生はもう出て行くから、呼びに来るまで待ってて」
そういって音無先生は足早に扉を開けて出て行ってしまった。
一人になったので、熱でまだ浮かされている頭でもとりあえずわかることだけ考える。俺の名前は神童拓人。中学二年生。14歳。特技はピアノで、雷門中の、雷門中の──…あれ?
「サッカー部。ポジションはMF。背番号は9、ですよ」
いつのまにかまた入ってきていたらしい天馬はそう言った。そうだ、俺は雷門中サッカー部の神童拓人だ。なんでこんなことも分からなかったのか。熱は本当に俺をおかしくさせていたようだ。そこまで考えたところで、急に瞼が落ちていく。きっと相当疲れていたのだろう。もういいか。俺はそう思って素直に思考を閉じた。
「そう、これで…これでいいんですよ。これが正しいんです」
松風天馬は窓を見つめて呟き、カーテンをぴったり閉じた。