Initiative 深い眠りの海からふわふわと浅瀬に辿り着く。
横たわっている白い砂浜は雪に変わり、頬から生温かい血が流れている。
ライカを呼び、連れ去る男を眺めながら、ぼんやりと世界が暗転していく。
不意にベッドが揺れ、軽くなる。誰かについて歩くライカの足音で目が覚めた。
閉じた扉の前でライカがきゅうきゅうと鼻を鳴らしている。
ウォノの荷物が無い。
逸る気持ちを抑えながら、部屋を出る。
――行かないで
――どうして?
そう軋む胸が、彼への執着心の強さを語る。
誰かにこんな風に恋い焦がれることなど、生涯無いと思っていた。
手洗いに行くだけなら戻ろうと思ったが、ウォノは上着を羽織り、暖炉の前で鞄を探っていた。ラクについて来たライカは、リビングにある犬用のクッションに落ち着いた。
「ウォノ……?」
「起こしたか、悪い。一服するだけだ」
ウォノはそう言って新しい煙草の箱を取り出し、立ち上がる。
「眠れない?中でも大丈夫です」
「車の中で吸おうかと」
「禁煙車じゃないんですか?レンタカーなのに」
「煙草吸ってたらそうじゃないとバレるよな。これは――覆面車両の一種だ。ツテがあってな。しばらくは俺の車だよ」
逃げるならいつでもできたはずだ。応援を呼ばれ、逮捕される可能性はまだゼロではない。それでも言葉通りの意味に思えた。もっと疑ってかかる方が安全なのはわかっている。
自分は、堂々と嘘をつくのが得意な男の何を信じたいのか。
「夜中に玄関をそのまま出ると、兄妹が起きます」
まだ説明していなかった。
就寝時は玄関のドアが開くとセキュリティシステムが起動し、枕の下で端末が暴れる仕組みになっている。
誤作動をすると、かなり怒られる。
そもそも、外に出る時のためではなく、外から入ってくるものへの警戒だ。
「防犯カメラだけじゃなかったか」
ラクが解除し、ドアを開ける。
「僕も行く」
「煙草は?」
自分の上着を羽織り、ポケットから手持ちの煙草を出して見せる。
「交換しましょう」
「ん」
ノルウェーでは酒も煙草も高いなどと話しながら庭を歩き、車に乗り込む。
いつも窓を開けて喫煙しているのか、車内の匂いはさほど強くない。ラクの記憶しているウォノの匂いだ。
「エンジン、かけないんですか」
「お前を連れ去ると思われる」
冷え切っているが、今夜はそこまで寒くない。
「ライカが生きてるうちは嫌です」
ラクが生きていたいと思う理由の一つ。
「それがタイムリミットか」
そうかもしれない。
「……陸路でここまで?部下に尾行されてませんか」
「そんなに暇なやつはいねぇよ」
「僕には慕われてるように見えた」
ウォノは不器用そうに顔を歪め、渋い顔で煙を吐いた。
「ソ・ヨンナクは密売でも薬物製造でもしょっぴけるが――イ先生としては無理だ。お前を捕まえても仕方ないと、みんな思ってる。様子は知らせてるよ。俺も向こうの動きは探知してる。尾行は無かった。この場所のことも知らせていないが、本気で探したければ、ここに来る前に追い付かれてただろうし、銃声を聴いて駆け付けたはずだ」
ウォノ以外の捜査官は必死に証拠を探していて、証拠が見つかったら追い着くのかもしれない。その時は捕まればいい。死刑囚になろうと、ウォノとの繋がりが無くならなければいい気がする。きっと、ライカを預かってくれるだろう。
「明日は、どこか案内しますか?家でゆっくりしたいですか」
「ラク」
「はい」
「お前はどうしたい、これから」
「え?」
「俺がここに居座ったらどうなる」
「――僕にもわかりません。でも、今あなたが出て行くのは嫌です」
「こんなところまで逃げておいて?ノワールもロマンスも心得てるだろ、イ先生は。シナリオを書くのはお手のものだ」
「ノワールは得意でも、ロマンスは不得手です。どうしたらいいか見当もつかない」
「俺もだ」
ラクが抑えずにいる好意と甘さには気付かれていると思っていたが、お互いロマンスだと思っていることも、否定しないのか。
「……得意だったら、子煩悩な父親にでもなってましたか」
「さあな。そうなりたいと思ったことはない」
「それなりにモテたんじゃないですか」
ウォノさえその気なら、こういう不器用さに弱い女性はいるだろう。
「兵役以外も軍にいて……警察に入ってからは潜入捜査ばかりしてたから、秘密も多いし、しなくていい経験しかしてない」
あの少女の例を見るに、情報屋や潜入捜査中に関わった女性と、似たような交流があったのではないかと思う。傷付けて別れたか、傷付けるのが嫌で別れたか、死別したのか。
「僕とこうしているのも、しなくていい経験?わざわざ苦労して僕に辿り着いたんだから、ゆっくりして」
「これ以上お前とゲームをする気はない」
「居なくなる?それとも、終わらせる?」
淡々と紡がれる言葉の一つ一つが、ラクを惑わせる。
「駆け引きで無駄な時間を過ごしたくないって意味だ」
「無駄じゃない」
声が震えないようにするのが精一杯だ。
「お前の罪を許したら、自分の罪も曖昧になる。もとより許す気なんて無い」
そんなのわかってる。
「僕が世界の代わりにあなたを許したら、少しは楽になりますか?それとも、罪人同士のままでいる方が楽ですか」
「お前を許せれば、自分も許せるんだろうが――許すわけにはいかない。でもそれは過去のことだ。これ以上お互い、罪を犯さなければいい。それを議論しに来たわけじゃない」
「もう少し、わかりやすく言ってください」
怒りは感じられない。責められているわけでもなさそうだ。
「お前、結構お喋りだよな」
「ウォノの犯した罪は何?」
「刑事になったことだよ。ならなければ、罪を重ねることも無かった」
「僕と出会わなければ良かった?」
「さあな。過去には戻れないし、罪も償えない」
ウォノの答えは、核心からそれているように思える。後悔するようなことは忘れられなくなるから、初めからしたがらないのはわかった。
「――あなたは、過ちを繰り返さずにいたいんですよね」
「地獄の陣地を少しでも減らせるなら、それでいいと思ってた。できれば悪党全員、内輪揉めで壊滅してくれってな」
「それは僕の手です」
やはり、思想は近い。立っていた場所が違っただけだ。
「似てるか、俺とお前は」
「あなたは嫌でしょうけど」
「自分がどこから来たか、誰のせいでそうなったか知りたくて、あの仕事をしてたんじゃないのか」
「ヨンナクの両親は優しかったし、学校でも普通でいられました。欲しいものは自分で手に入れられた。その謎を解いても現状より幸せになれるとは思っていなかったから、現状からの展開だけを望んでいました。力の使い方を誤ってしまった自覚はあります」
「後悔してるか」
「あなたの信条とは違いますが、復讐はできたので恨みは晴らせた。後悔はこのまま抱えて生きます」
憐れむような顔は暗くなり、少しの間、ふたりで黙る。
「……手話、教えてくれ」
「え」
何を言われるか予想がつかないと思っていたが、本当に予想外だった。
「悪口は少し覚えたが、お前がいない時、あいつらの話がわからない」
どれだけここにいるつもりなのか答えずに、そんなことを言うのはずるい。
「覚えるといってもすぐには――あなたの頭がいいのはわかってますが――唇は読まれるし、嘘もバレる。こっちの言いたいことは伝わります。伝えたくないことまで」
「じゃあ、覚えておいて調べるか、お前に聞く。さっきのこれは?どういう意味だ」
ウォノが記憶を探りながら、手を動かす。
「あぁ、はは」
「猥語か?」
思春期の不良生徒に理解のある教師みたいだなと思って、さらに笑う。
先生になったら良かったのかもしれない。
「あなたが僕を撃とうとしたのが、プロポーズだって」
「そんなことか!」
悪口か物騒な話だと思っていたのか、ウォノは考えて損したという顔で煙を散らす。
「嫌じゃないの」
「プロポーズは冗談だろ」
「僕がウォノを好きなのは、本当だから」
あっさりそう口から出てしまい、反応を見るか迷う。
ウォノは何故か切なそうな顔をして、吐息か煙かわからない白い息を吐いた。
「――嫌だと言ったら殺すのか」
やっぱり、答えてはくれないのか。
でも、拒絶も否定もされない。
「殺したくない。僕はあなたに生きてて欲しくて離れた」
急に辛くなる。もし二人きりでいられるなら、どんな法も関係ないのに。
「俺がいない方が……お前は自由で幸福に暮らせるよな」
それでも来たんじゃないか。
「あなたが全てを捨てて、僕を殺しに来てしまったら――死ねなくなるじゃないですか」
だから来たんじゃないのかよ?
そう喚いたらいいのに、思うように力が入らない。
「何で俺なんだ」
「同情されるのは嫌いなのに、あなたにはされてもいいと思った。忘れられないし、忘れたくなくて――でも多分、大事にできないから、一生会えないくらい遠くに来た」
どうなってもウォノは警察官を辞められないだろうと、高をくくっていた。
言葉にすることでやっと、自分の本心をじわじわと知っていく。
「許せないものと、憎んでるものが同じだからだ」
ぼそりと、ウォノが呟く。
「罪を犯さないと生き延びられない環境を?それとも、自分を?」
「――世界を変える力が足りない自分と、変わらない世界を」
是か非で答えが欲しいと望んでいたが、ウォノが会話を続けるなら、肯定の意なのか。
「そう、かもしれない」
だから、力が欲しかった。最低最悪の地獄を破壊したかった。地獄があると知ったからには、外側で知らない振りはできなかった。
「ほんと、世界は腐ってる」
ウォノは悟ったような顔で、煙を細く吐く。
「何ですか、それ」
「あいつに、なんで薬なんかやるんだって聞いたら、そう言ってた」
「彼女はウォノを恨んだりしてない」
恨むなら頼みなどきかない。もし恨むなら、ウォノではなくブライアンだ。
「殺されに行けと言ったようなもんだ。危ない橋だとわかっていたのに――ただ真っ当な暮らしの手伝いをしてやれば良かったはずなのに」
独り言みたいに『犯した罪は何』に答えるんだな。
「僕のせいで」
「……まあ、そうなるな。でも、俺のせいだ」
彼女が羨ましかったのかもしれない。
「あなたに深く刺さった棘の中で、一番深くて厄介な棘になれたらいいと思った。でも、あなたは自分で抜いてしまえるでしょ。死んだりしない限りは」
捜査協力中、ウォノを守って死んでいたら、彼女のように――
「どっちでも良かった。撃つまでは――ただ、終わらせたかったんだ」
終わらせれば、どんなに僕を大事に思っていたか、後悔の重さでわかるから?
「今は、なんで迷ってる?殺される心配はもう、しなくていいのに」
「殺されても死ぬ気は無い」
腐った世界に負けたくないのだとしたら、ラクが生きるのと同じ理由だ。
「……僕は」
『あなたと生きたい』と言うのは簡単だ。その資格がなくたって。でも、子どもじみた幻想だとわかってる。優しさと情につけ込んで、少しでも長く状況に甘えていたいだけだ。
有り得ないと否定されなければ希望を持っていられるから、好きだとしか言えない。
上手く言葉が出てこない。
ウォノは気だるい顔のまま煙草を消し、車を降りた。
どうしたらいいかわからずにいると、回り込んだウォノが助手席の扉を開けた。
「煙草、やっぱりそっちも寄越せ」
大きな手がラクの吸っていた煙草を奪い、そのまま遠ざかる。
「え……っ」
間近にウォノの顔が迫り――唇を奪われた。
乱暴さや強引さはない。
口内で煙の匂いが混ざって、ゆっくり確かめるような感触に惑う。ウォノの薄く開いた目と濃い睫毛を見つめていたら、唇が離れ、いつものように左の眉だけ上がった。
「いつまでも先手を取れると思うな」