無題思えば物心ついた頃から彼らはそこに居た。
気がつけば隣にいたり、頭の上に乗っていたり。特に何かしてくるというわけではなくただ近くに寄ってきて寛いで気ままに過ごす。
一部の個体と視線を合わせれば長ったるいお喋りに発展してしまうこともあったが、人の身ではまず経験することがないであろう大変興味深い話ではあったし、そういう個体は大概周囲の人間より余程話の分かる相手だった。本人曰く、長生きしすぎて退屈だから話し相手が欲しかったらしい。それもそうだろう、寿命があってないようなものなのだから。
そんなこんなで、今ではすっかり馴染み深く感じてしまった訳なのだが。
問題は彼ら……所謂、「妖怪」と呼ばれる者達は、私以外の普通の人間には視えていないということだった。
何もない場所を指差す我が子を両親は気味悪がって彼ごと見ないフリをした。
虚空に向かって楽しそうに話しかける少年に親戚は真面目な顔で通院を勧めた。
ランドセルを背負う年頃には妙な落ち着きを手に入れて、自分はどうにも「おかしい」という事を理解できていた。
だから呼びかける声を無視した、普通の子のように振る舞うことにした。
大好きで大切な「友人達」を失うことは確かに嫌だし辛かったけれどそれ以上に私は、ごくごく普通の人間として生きたかったから。
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「それなれど……」
人ならざるものがやんややんやと騒ぐ声が読書に耽ってしまい寝不足気味な頭を無遠慮に揺さぶる。特異な耳と己の厄介な性分を諦め半分に呪いながら、肩に引っ掛けていた学校鞄から携帯端末を取り出してため息と共に耳に当てた。
自宅へ進んでいたつま先が新たに向けられた先にはいかにも暇を持て余してしまっていそうな小学生の子供達と、先程から長い身体を鉄製のフェンスに結びつけられて木の枝でつつかれてる、それ。
血色と目つきの悪さを生かし、気怠げに歩けば怪しい高校生の完成。子供目線ではそれなりに大きい図体も相まって、彼らに多少なりとも緊張感を与えることに成功しているようだ。生まれてこの方背丈ばかり伸びて筋肉も贅肉もとんと付かない身体はお世辞にも均整が取れてるとはいえなかったが、物は使いようである。
何も映さない真っ暗な液晶画面を頬に押しつけてわざとらしくそっぽを向き、声を張る。
「あぁ……もしもし?警察の方ですか?
小学生程の子供達が生き物をひどく虐めていて……はい、全く可哀想なことをします、これは指導が必要だと思われますが……」
警察、指導……使い古された必殺のワァドを聞いてしまった彼らは機嫌良く赤らんでた顔色をみるみる悪くして、蜘蛛の子を散らすように逃げていった。何度も通用しないであろう手段だが、もう二度と使う羽目にならない事を祈るばかりだ。生き物を虐げて楽しむ人間がまともな生を送れるわけがないだろうから、今のうちに矯正して欲しいものだと切に願う。
「生き物は丁重に扱うべしと、子供達も心得なむ……。
……してそなた、安穏なりや?」
先程からじたばたと元気に踠くそれに噛まれないよう警戒しながらゆっくりと解いて、日陰へと下ろしてやる。……しかし、最近の子供はこんなにも酷な遊びが出来るのか?恐ろしいことだ。
僅かな木漏れ日に照らされて碧色の鱗を艶めかせるそれは、一匹の蛇だった。
人並みに勉強はやっているつもりだが、水晶よりも瑪瑙のそれに近いつるりとした光沢を放つ美しい鱗を持つ蛇は記憶には無い。更にこの個体は左右で瞳の色が違っており、かなり珍しい存在なのかもしれない。
まさに宝石と呼ぶに相応しい芸術品のような姿に見惚れ、焼き付けるようにまじまじと観察した後に写真でも撮っておくか……と端末に触れようとした瞬間。
それはどことなく礼儀正しさと優雅さを感じる美しいとぐろを巻き、私に二色の視線を寄越して──まばたきをした。
途端に察する、やはりこれは普通の蛇ではない。確か蛇は他の生き物のような瞼がないために、まばたきを決してしないはずだ。
理解した瞬間に背筋に氷塊が滑る。面倒事に巻き込まれることへの危険察知のようなそれに身を任せて逃げるようにその場を後にした。
およそ「普通の蛇」の出すものとは思えない低く上品な柔らかさを持つ声が呼び止めるように私の背中に投げかけられたが、気にせず聞こえないふりをした。
人妖問わず、もう関わりたくないと思っていても目の前で助けを求めていればどうしても放って置けなくて手を差し出してしまう。その結果、厄介な因縁に巻き込まれたり余計な事に首を突っ込まされてしまった過去は思い出すのも数えるのも億劫になるほどだ。
昔はどうせすぐ別れるのだから助けるくらい良いかと考えていたが、存外彼らは懐っこい上に優しくされた人間をやけに気に入って追い回してくる。
悪意は無いのだろうが、平穏に過ごしたい人の身からするとやはり手に余る。今回の件はあまりにも珍しく綺麗な蛇だったからじっくり見てしまったが……迂闊であった。
ということでこのような場合は感謝の気持ちこみ貰ってさっさと立ち去るに限る、のだが。
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「…………いづかた様なりや?」
「先程助けていただいた蛇です〜」
「いかで居場所や分かれる……」
「逃げる後を追えば住処は特定出来ますので!」
「此がストォカァなるものや……」
その日の夜。
いつも通りに帰宅後に課題を終わらせた勢いのまま出来合いの食事を摂り、狭い風呂で身体を温めてから学校の図書室で借りてきた至福の書を片手に自室の扉を開けた瞬間、私は素っ頓狂な声をあげて尻餅をついていた。
見慣れた天井と共に呑気に見下ろしてきたのはどこか見覚えのある色と冷たい清水のような気配を纏った端正な顔立ちの美青年だった。
状況を飲み込めず呆けている私を起こそうとしてくれたのだろう、差し伸べられた手のひらがひどくひんやりしている事に礼とため息をひとつずつ吐いて、念の為に訊ねた結果がこれだ。
頭を抱えて唸る私に、窓から入ってきてしまってすみませんと何やらズレた物言いをしている彼は、非対称な瞳を割く細い瞳孔の様子や着物に隠れてちらりと見える碧い鱗から間違いなく蛇の妖だ。しかもここまで精密な人の形を取れるとなると、それもかなり力が強いのだろう。
神力のある蛇は厄介だ、その執念深さと回る知恵から敵に回すのはもちろんうっかり関わりを持って懐かれたり顔を覚えられると何かと恩返しだのなんだとのと構ってくる。
あとは……やけに囲いたがってきたが、それは蛇ならではの習性なのだろうか?
そういった粘着極まりない性質は正直ご遠慮願いたいものだったが、無理やり追い出してしまうのは今後の事を考えると避けたいし何よりもなんとなしに忍びなかった。
「……して、そなたは何故此処へ?私に何か用やある?」
「そう分かりやすく邪険にしないで下さい〜。僕はただお礼が言いたかったんですよ」
そんなに顔に出てしまっていただろうか、本心こそ面倒がっていた事は認めてもあまり表面に出すのは流石によろしくない。思わず渋い顔で手のひらで頬を押さえた私に蛇神の彼はくすくすと笑う。
溜息と共にベッドに腰掛けるとさも当たり前といった顔で隣に、それも肩が触れ合う寸前の近くに陣取ってきてもはや眩暈がする。
すい、と鼻先が合わさりそうな距離まで顔を近付けられ眼前に映る作り物めいたその美貌に咄嗟に身を引いてしまう。
「貴方が助けてくれて、とっても嬉しかったんですよ?
大体の人間は僕の姿を見るたびに捕まえて売ろうとしたり、物珍しさに玩具の様に扱おうとしていたから……今回もそうでした」
「そは……流石に放って置かざりしばかりなり。
されば、そなたの事を妖と分かりて助けし訳ならず」
「はい、分かっていますよ〜。貴方がそういう人間だって事も……。
大変不本意でしょうけど、"僕達"の間で結構有名なんですよ……」
反射的に何が?と口に出せば、真意の見えない透明な微笑みと共に伸ばされた冷たい指先が私の眉間をちょん、と優しくつつく。
そのまま滑らす様にこめかみ、頬、耳、と撫で落ちていき首筋に到達した瞬間、そこからぱちっと静電気程度の弱い刺激が走り思わず首を竦めた。
「な、にを……」
「ふふ、お礼代わりのちょっとしたおまじないです。
貴方、その辺の妖怪達に絡まれるのを嫌がっていましたよね?これで結構、近寄りづらくなったと思いますよ〜」
にこにこと何やらご満悦な笑みを湛えている様子に少なくとも彼の機嫌を損ねた訳ではないのか……と一安心する。
しかも妖怪払いのおまじない……とやらをしてくれたらしい。効果の程はさておき、本当の事ならば願ってもない贈り物だ。
「げに寄り来ずなるやは分からねど、そは私が求めし事ならば……かたじけなし」
「いえいえ〜、喜んで貰えたなら何よりです。こう見えても神力には自信あるので、効果の方もばっちりだと思いますよ〜」
そうだろうて、という野暮な言葉をすんでのところで飲み込む。このまま穏やかに立ち去ってくれそうなのだから下手に刺激しないに限る。
先程から常に柔らかな微笑みを浮かべている彼の心境は本当に読むことが難しく、ふとした時に逆鱗に触れてしまわないか恐ろしくて仕方ないがそれを表情や言動に出すのは憚られる。
それでもどうしてもこう思ってしまう、早く帰って欲しいと。
そんな私の内心を感じ取ったのかはたまた願いが届いたのかは分からないが、小さな掛け声と共にベッドから腰を上げてう〜んと背伸びをし始めた様子に心の中でそっと胸を撫で下ろす。
「さて、そろそろお暇しましょうか〜。
助けていただき、ありがとうございました。
……あっ!僕はホンルって言います、よろしくお願いしますね!」
「うむ、よろしく頼ま……、っ!」
はっとして慌てて口を手で塞ぐ。
いけない、このまま言葉を返してしまっていたら彼との間にはっきりとした「縁」が生まれてしまっていたかもしれない。
不用意は言霊は控えるべきだとあれほどに学んだはずだったのに、毒気のない綺麗な笑顔と低くて優しげな声音に知らずのうちに警戒心が薄まっていたらしい。
そんな私の様子に初めて、彼の雰囲気が豹変する。
瞳がすぅ、と妖しく細められて。
にたりと開かれた唇から覗いた牙は鋭く、舌はしっかりと先が二股に分かれていた。
「……あは、惜しかったぁ。
また、逢いましょうね。イサンさん」
凛、と澄んだ音がひとつ。
すると妖艶な笑みを湛えたままのホンルを取り巻く様に軽やかな涼風が舞って、咄嗟に目を閉じた。おずおずと再び瞼を上げるとそこに当然、彼の姿はなかった。
今日の所は帰ってくれたのだろうか、忽然と失せた気配にそう確信を得ると共に深く大きな溜息を吐いてそのまま仰向けでベッドにどさりと倒れ込んだ。
何故名前を知っているのかだとか、やっぱり自分と縁を繋ごうとしていたのではないかだとか、思う事は数多くあれどとにかく疲れてしまった。
「……二度と、会はま欲しくはあらず……うっ、」
そう呟くとそれを咎める様に首筋にぴりっと鋭い刺激が走り、呻き声が漏れる。
……嫌な予感がする、考えていても仕方ないと分かっていてもこれは絶対にろくでもないものだという想像が膨らんでいってしまう。
これは本当におまじない、なのだろうか。
後になって思い返せば、妖怪の類が言う"呪い"なんてろくでもないに決まっている。
しかしもう遅い、何もかもが遅い。
妖怪が近寄ってこない、その魅惑的な提案にまんまと引っかかって受け入れた結果、狡猾な蛇に絡め取られたのは紛れもなく己の失態だ。
これから先の事を考えると頭痛がしてくる、願わくばただの神様の気まぐれと戯れであらんことを。
そんな悪足掻きじみた酷く甘い考えは、翌日の朝に枕元に立っていたホンルの満面の笑みに粉微塵に破壊されることになったのだった。