ペーパームーン 大半の人が寝静まった時刻、エランは端末を持って自室を出た。照明が絞られた薄暗い廊下を進み、望みの景色が見える窓の前で立ち止まる。端末のディスプレイからある人物の名前をタップして耳に当てると、数秒もしないうちに声が聞こえてきた。
『ぁ、こっ、こん、ばんは』
「こんばんは」
普段とは違う密やかな声に、擽ったくて肩が震えてしまい、どうしてか羞恥心が湧き上がってきた。吐息すら拾う端末の優秀な収音性にかすかな苛立ちを覚えながら、エランは昼間の記憶を思い起こしていた。
――月を見たことがないんです。
スレッタ・マーキュリーが水星からやって来たことはこの学園のほとんどの者が知っている。だが、水星の住環境を詳しく知っている者はあまりいないだろう。かく言うエラン自身も、彼女の言葉を聞くまで、はっきりと意識したことはなかった。
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