「……さん、北村さん」
九郎先生の呼び声で、僕は目を覚ました。段々暗闇に目が慣れてくると、彼は切羽詰まって今にも泣き出しそうにしていた。
「どうしたのー?」
「すっ、すみません、その、漏らしてしまって」
「漏らした?」
「はい、…………を」
九郎先生は視線を逸らして、何かごにょごにょと言ったが聞き取れない。
「洗面所と、新しい下着をお借りしてもよろしいでしょうか」
「いいけどー。何を漏らしたのー?」
九郎先生の下半身は見た目には綺麗で、彼の言い分がいまいち飲み込めない。
「せ、精液です。ええと、夢精、というものをしてしまったようで」
寝起きでぼんやりしていた頭が、その言葉で冷水を浴びたように覚醒した。
パチリ。洗面所の明かりをつけると眩しくて目がしぱしぱした。
「はい、使っていいよー」
「ありがとうございます」
僕たちは恋仲だが、セックスをしない。僕にはそういう欲求がないからだ。身体の関係は持てないよ、と言ったら九郎先生は了承してくれた。その筈だったのだけど。自覚のあるなしは別として、九郎先生の中には溜まり続けていたみたいだった。
汚した下着を洗う背中を眺めていたら、胸にじゅくじゅくしたものが拡がった。軽蔑? 少し違う。
九郎先生が着替える際、薄暗がりの中で見た白濁が、目の裏に浮かび上がる。
僕はドアにもたれかかった。時計を見ると、短針は二と三の間、長針は八と九の間を指し示していた。
「僕の夢を見たの?」
「……はい」
鏡の中の九郎先生は、苦虫を噛み潰したような顔をしていた。
「僕とセックスしたい?」
「……申し訳ありません」
九郎先生は質問に答えず、ただ謝った。
じゃぶじゃぶと水音だけが洗面所を満たす。
じゃぶじゃぶ。じゅくじゅく。
じゃぶじゃぶ。じゅくじゅく。
じゃぶりじゃぶり。じゅくりじゅくり。
じゃぶりじゃぶり。じゅくりじゅくり。
水の流れる音を聞きながら、もう少しで彼は僕の元を去るのだな、と冷静に思った。離れたくないけれど、情欲には応えたくない。相反する願望と拒否は確固として僕の中に存在する。それで、胸にはわだかまりが横たわっている。
九郎先生は、別の人を見つけた方が幸せかな。僕は、彼の情欲を受け入れるべきかな。
水道水は、九郎先生が吐き出した欲を洗い流す。時計の針は、止まりも狂いもせずに進む。
愛と恋、欲の狭間で、揺れ動き。
真夜中の予感は、静かに僕らの間に佇んでいた。