優しさの裏側帝国暦489年、春の気配がまだ遠いある日の夕刻。執務室に差し込む淡い光の中で、ウォルフガング・ミッターマイヤーは書類の山に埋もれていた。普段なら「疾風ウォルフ」の異名にふさわしく、迅速かつ的確に仕事を片付ける彼だが、今日は様子が違った。顔に浮かぶ疲労の色、時折こめかみを押さえる仕草、そしてかすかに震える指先。それを遠くから見つめる金銀妖瞳の男、オスカー・フォン・ロイエンタールは、内心で苛立ちと心配が交錯していた。
ロイエンタールは机に寄りかかり、腕を組んだまま低い声で言った。「ミッターマイヤー、いい加減にしろ。顔色が悪い。さっさと仕事を切り上げて帰れ。」その口調は冷たく、まるで命令のようだった。だが、彼の青い左目と黒い右目――金銀妖瞳と呼ばれる美しい異色の瞳――は、ミッターマイヤーをじっと見つめ、心配の色を隠しきれていなかった。整った顔立ちに長い黒髪が揺れ、どこか近寄りがたい気品を漂わせる彼の美貌は、執務室の空気を一層重くした。
ミッターマイヤーは書類から目を上げ、ロイエンタールの視線を受け止めると、ふっと笑った。「お前、ずいぶん厳しいな。心配ならそう言えばいいのに。」その声はいつも通り軽やかで、疲れを隠そうとする明るさが滲んでいた。ロイエンタールの眉がわずかに動き、不機嫌そうに唇を歪めたが、内心では自分の言葉のきつさに落ち込んでいた。「お前が倒れたら俺が困るからだ。」と返すのが精一杯だった。
「わかったよ。じゃあ、今日はお前に従って早退するさ。」ミッターマイヤーは立ち上がり、コートを手に取った。ロイエンタールは黙ってその後をついて歩き出し、二人は執務室を後にした。ミッターマイヤーの家に向かう道すがら、ロイエンタールは黙り込んでいたが、内心では彼の体調を案じていた。ミッターマイヤーはそんなロイエンタールの気遣いを察しつつ、口には出さず、ただ隣を歩く背の高い男の横顔を時折見つめた。
ミッターマイヤーの自宅に着くと、彼はソファにどさりと腰を下ろした。「少し頭が痛いだけだ。寝れば治るさ。」そう言って笑うが、ロイエンタールはそれを聞いて顔をしかめた。「寝れば治るだと? 馬鹿を言うな。お前が倒れたら誰が俺を支えるんだ。」言葉とは裏腹に、彼はキッチンへ向かい、水を汲んで戻ってきた。ミッターマイヤーはその様子を見て目を細めた。「お前が看病してくれるなんて珍しいな。」
ロイエンタールは水を渡しながら、内心で焦っていた。看病などしたことがないのだ。幼い頃、両親から疎まれ、愛情らしい愛情を知らずに育った彼にとって、病人をどう扱えばいいのかは未知の領域だった。だが、ミッターマイヤーがかつて風邪を引いた自分に温かいスープを作ってくれたこと、額に冷たいタオルを置いてくれたことを思い出し、彼はそれを真似ようと動き始めた。
キッチンでスープを温めようとするロイエンタールの手つきはぎこちなく、鍋に水を入れすぎて溢れさせたり、スプーンを落としたりしていた。その姿をソファから見ていたミッターマイヤーは、思わず笑いを堪えた。「お前、慣れてないのが丸わかりだぞ。」ロイエンタールは振り返り、金銀妖瞳で睨みつけたが、その頬がわずかに赤くなっているのがミッターマイヤーの目に留まった。「黙れ。文句があるなら自分でやれ。」と返す声には、照れ隠しの響きがあった。
やっとのことでスープを完成させ、ロイエンタールはそれをミッターマイヤーに差し出した。ミッターマイヤーは一口飲んで、「悪くないじゃないか」と笑顔を見せた。その笑顔に、ロイエンタールの胸がわずかに温かくなった。彼はミッターマイヤーの額に手を当て、熱を確かめると、冷たいタオルを用意してそっと置いた。ぎこちない動作だったが、そこには確かに愛情が込められていた。
「お前がこんなことしてくれるなんてな。俺、ちょっと感動してるよ。」ミッターマイヤーはそう言って、ロイエンタールの手を握った。ロイエンタールは一瞬驚いたように目を丸くしたが、すぐに視線を逸らした。「大げさだな。ただの気まぐれだ。」と呟くが、その声は柔らかく、青い左目と黒い右目がミッターマイヤーを優しく見つめていた。長い睫毛が揺れ、美しい顔に一瞬の照れが浮かんだ。
ミッターマイヤーはその表情を見て、胸が熱くなった。ロイエンタールが不器用ながらも自分を想ってくれる気持ちが愛おしくてたまらなかった。彼はロイエンタールの手を引き、ソファに座らせると、そっと肩に手を回した。「お前、ほんとにかわいいな。」と囁き、そのまま彼の額に軽くキスを落とした。ロイエンタールは目を瞠り、「何!?」と声を上げたが、抵抗する気配はなく、ただ顔を赤らめてミッターマイヤーを見つめた。
「看病のお礼だよ。お前がいてくれるだけで、俺は十分元気になれる。」ミッターマイヤーの言葉に、ロイエンタールはしばらく黙っていたが、やがて小さく笑った。「お前には敵わんな。」その声は穏やかで、二人の間に流れる空気は温かく、静かだった。
外では夜が深まり、窓の外に星が瞬いていた。ミッターマイヤーの家の中で、二人は互いの存在を確かめるように寄り添い、不器用ながらも深い愛情を分かち合っていた。ロイエンタールの金銀妖瞳が柔らかな光を帯び、ミッターマイヤーの笑顔がその光を映し出す。そこには、言葉を超えた絆があった。