「ただいま」はまた言えない「先に抜刀斎を頼む。次はこいつを。」
「あん?てめえが先だろうが!てめえだってひど―」
怒号を背に、空いている部屋に通される。階段を上るだけで胸が、手足が軋むように痛む。
胸に一撃。腹に火傷と切り傷。片手にも打撲。背中も、腕も、悲鳴を上げている。
コートを脱いで部屋の壁に寄り掛かるようにして座り込むと、立ち上がることさえできなくなっていた。
痛みがなければすぐに眠り込んでいたほどの疲労。帰ってくることができたことによる脱力感。それが一気に襲い掛かってきた。重い。腕も、手足も、頭も。
隠密として修練を積んできた自分は痛みには強い。もう少し持ちこたえられるだろう。出血も止まりかけている。そう思い、意識を落とそうとした矢先に、声が聞こえてきた。
「蒼紫。」
見上げると目の前に自分が切り刻んだはずの翁が薬箱を手にして、体を支えられながら立っていた。
「生きて、いたのか。」
「おう。皆の手当のおかげ、それとどこぞの誰かの手加減のおかげじゃよ。」
「・・・」
「手当もせずに、何をしておる。」
「俺は・・・」
「恵殿に、相楽君の手当てが終わり次第、来るように言ってあるが、それまでに血止めだけでもしておけ。」
突き出される薬箱。受け取る資格が、いまさら俺にあるのか?逡巡している俺にとどめを刺すように翁は続けた。
「操を「また」泣かせるつもりか?」
「・・・」
卑怯だ。そんなことを言われたら抜刀斎との約束を破ることになる。だから、断れない。それを知ったうえで言っているのだろう。
観念した俺は薬箱を受け取り、手当をし始めた。
上着を脱いで、包帯を巻き始めた俺を見て、部屋の外からの視線が恐れを含んだものから安堵を含んだものに変わっていった。葵屋の面々が心配そうにのぞき込んでいたのは分かっていた。
「なんじゃい。傷の数の割には出血が少ないのぉ。胸のやつはひどそうじゃが。腹のは、火傷と切り傷か。」
「抜刀斎の奥義を、食らった。他は…修行で…」
ガシャーン。
音の方を見ると、目を丸くして、青ざめた顔の操がいた。まずい。見られたか。
見るな。あぁ、もう、目に涙を浮かべているじゃないか。言い訳なんてできるはずもないくらいの速さで駆け寄って。
「蒼紫様!!ウソ・・・その傷・・・」
「・・・っ!」
「落ち着け、操・・・」
皆が止めても、だめだった。操の涙は、もう限界だったらしい。
皆が必死になだめて、落ち着いた隙に、多くの傷が修行でできたこと、抜刀斎の奥義を受けて負けたこと、そのあと志々雄との戦いに加勢したことなど、何とか説明して。それから、涙と怒号が、寝息に変わったころ。
泣きはらした瞼を閉じて、操は俺に寄り掛かっていた。どうやら肋骨を痛めているらしく、苦しくないように位置を少しだけ調整してやったら、苦しそうにうなされることはなくなった。
こういう時、手を握ってやると安心するのだろうけれど、まだ、触れる資格などない気がした。
「・・・よかった。」
殺さずに済んで。
傷つけずに済んで。
失わずに済んで。
本当に、よかった。
けれど、まだ、気持ちの整理もついていないから、「ただいま」なんてまだ言えない。