早朝の大騎士領をディカイオポリスは歩いていた。
日の光は空を覆う雲に遮られており、街は薄暗い。
いかに勤勉なカジミエーシュ人といえど、この時間に街にいる人はほとんどいない。昼夜を問わず賑やかな通りは、今ばかりは静かだった。
無論、だからこそディカイオポリスはこの時間を選んだのだが。
ディカイオポリスには特にどこへ行こうという目的があるわけではない。ただ、いずれ離れることになるこの街を見ておこうと思っただけだ。
この街に抱く感情は良いものばかりではないが、ディカイオポリスはこれまで、それなりの時間をこの街で過ごし、多くの経験をした。ディカイオポリスがこの街に抱く感情を愛着と呼ぶことができるのかは分からないが、カヴァレリエルキという街が彼の人生に大きな影響を及ぼしたのは確かだった。
とはいえ、ディカイオポリスはこの街の道を全て、正確に把握しているわけではない。これから自分がどこに到着するかはディカイオポリスにすら分からない。
気の向くまま、足の向くままに歩くだけだ。
数時間もすればディカイオポリスは商業連合会のビルに行き、騎士競技の引退に関わる膨大かつ複雑な手続きをこなさなければならないので、そう遠くに行くわけにはいかないが。
やがて、ディカイオポリスの目の前に公園が現れた。
ディカイオポリスはその公園に対して特別思い入れがあるわけではない。それでも足を止めたのは、見覚えのある人物の姿がそこにあったからだ。
「……ナイツモラ」
ディカイオポリスがそう言うと、数メートル離れたベンチに座っていたその人物は素早く振り返った。
「貴様は……」
数日前まで開催されていた第24回メジャーの準決勝でディカイオポリスと戦った男―「追魔騎士」、あるいは「最後のケシク」トゥーラだ。
普段からこの男は鎧を身につけ、武器を握っているのか。この公園に人がいないのは、時間帯の問題だけではないだろう。
「傷はもう治ったのか」
「……」
トゥーラは何も答えない。
その反応を見てディカイオポリスは、自分に傷を負わせた本人がその心配を口にするという状況を、この若く年齢相応の、いやそれ以上のプライドを持つ男は良くは思わないだろうということに気づいた。
ただ、ディカイオポリスとしては、少なくとも公園に来るくらいには体が回復したことは見ればわかるので、とりあえず思いついた話題を口にしたに過ぎない。
「……」
「……」
無言で見つめあっていても仕方ないので、ディカイオポリスは公園へと足を踏み入れる。
あいかわらずトゥーラは何も言わないが、近づいてくるディカイオポリスを制止するようなことはしなかった。
しばらくディカイオポリスの靴が砂を蹴る音だけが響く。
2人の体が並んだ時、先に口を開いたのはトゥーラの方だった。
「貴様が何故ここにいる?」
「……ただの散歩だ。貴様こそ何故ここにいる?貴様の住まいはこの近くなのか」
「……私に家はない」
「どういうことだ?」
「体力が尽きるまで歩き、しかるべき時に休む。疲れ果て、体が動かなくなれば草の上で眠る。クランタは本来そうあるべきなのだ。都市というものが与えるものをただ手を広げ、受け取るのではなく」
「……」
ディカイオポリスにトゥーラの語る理屈が理解できたわけではないが、たしかにトゥーラがいわゆる"普通の暮らし"を送っている姿を想像することは難しかった。
「すでにメジャーは終わった。いずれ都市の連結は外れる。貴様はこれからどうするつもりだ?そのままカジミエーシュをさまよい続け、3年後にはまたあの競技場を目指すのか?」
「……否」
トゥーラは自分の足元の地面を見つめる。
「この都市で得るべきものはもうない。まもなくここを出るつもりだ」
「どこへ行く?」
「……北だ」
「北?北に何がある?」
「我が祖先がこの大地に存在する文明というものが築いたものをことごとく打ち砕いた末、最後に目指したのは北の果てだった。そこへ向かう」
「貴様は……」
結局過去を、祖先の影を追い、そのためにその身をなげうつつもりなのか。
ディカイオポリスはそう思った。
しかし、トゥーラの兜の奥の瞳を見て、そうではないのかもしれないと思い直した。
彼の瞳にはあいかわらずどろどろとした狂気が渦巻いているが、競技場で相対した時にあった、両側からピンと引っ張られ、今にもちぎれそうな糸のような危うさ、あるいは烈火のごとく怒り出したかと思えば、迷子の子供のように立ち尽くす不安定さはやや薄らいでいた。
今すぐに極端な方へ向かうことはないのかもしれない。
それに、富を、人を、資源を吸い込み、積み上げ、押し潰して前へと進む都市と、過去に執着するケシクの生き残りが相容れないものであるのは明らかだ。
その後どうするかはともかく、都市を出るという選択肢自体は間違っていないのかもしれない。
「ミノス人、貴様はどうなんだ」
「……俺はもう騎士競技には参加しないつもりだ」
「何!?」
トゥーラが声を上げ、ディカイオポリスを見る。
閑散とした公園にその声はよく響いた。
兜の奥の目が見開かれる。
「何故だ……病のためか?それとも、あの卑劣で貪欲な商人どもに何か言われたのか?」
「……貴様は騎士競技を疎んでいたはずだ。それほど驚くこともないだろう」
「……たしかに、貴様の武勇が、矜恃がカジミエーシュ人の見世物に、あるいは彼奴らを肥え太らせる餌になるよりはましなのかもしれぬ。しかし……」
トゥーラが再び顔を伏せる。
「……」
「……」
しばらく2人は黙り込む。
「その後は……引退した後はどうする?」
トゥーラが視線の位置はそのまま、呟くように言う。
「貴様と同じだ。この都市を出る」
ディカイオポリスは騎士競技のことを、カジミエーシュのことを知りすぎた。
また、この前のメジャーではニアールと共に商業連合会のことを挑発するようなことすらした。
商業連合会がすんなりとディカイオポリスを大騎士領から出すとは思えない。
だからこそ、ディカイオポリスはこれから身を置く場所を誰にも伝えるつもりはない。
自分のためにも、相手のためにも。
「……」
しかし、トゥーラは何も聞かなかった。
ディカイオポリスとトゥーラはどちらからともなく空を見上げる。
雲の向こうの太陽の姿は曖昧だ。
しかし、その光はたしかに地上に届いている。
それがたとえささやかなものであったとしても。
「……俺が引退すれば、商業連合会はすぐさま次の商品を見つけるだろう。そうすればこの都市の者たちもじきに俺のことを忘れていく。この都市は何事もなかったかのように動き始めるんだ。俺のような者など最初からいなかったように。―だが、この都市の変革を望み、それへ向けてひたすらに進まんとする騎士が、その仲間たちがいる」
「……私はこの国の行く末になど興味ない。この国に二度と戻るつもりもない。だが……」
トゥーラが立ち上がる。
「英雄よ。この都市には幾度となく失望させられたが、貴様のような者に出会えたことは幸運だった。貴様と二度と刃を混じえることができぬことは残念だ。だが―」
そこでトゥーラが、ディカイオポリスには聞き馴染みのない言葉を発する。
「今のは何だ?」
「私の故郷の言葉だ。相手の前途を祈るものだ」
「……そうか。貴様も生き続ける理由が見つかったというのなら、それをやり遂げろ」
2人はそのまま太陽を眺め続けていたが、やがて互いに背を向け、歩き始める。
それぞれの道を進むために。