レトが目覚めると、ベッドの端へ座っていた大君が「おはようございます」と微笑みかけてきた。
時計をまだ見ていないので正確な時間は分からないが、部屋の中はまだ薄暗い。けして遅い時間ではない。
しかし、大君は目覚めてからしばらく経っているようで、髪にも身につけた服にもわずかの乱れもない。昨夜のことなど、何もなかったように。
いつものことだ。
ひょっとするとブラッドブルードは眠らないのだろうかとレトは思う。
物語の中に出てくる吸血鬼は夜になると目覚め、棺桶から出て人間を掴まえ、血を吸うものだ。
それに、サルカズには、ブラッドブルードには、そしてとりわけこの大君には、レトと異なるところ、理解の及ばないところが多々あるのだから、今更それが一つ増えたところで驚きはない。
「……おはようございます、大君」
レトはゆっくりと体を起こすと、ベッドの脇へ立ち、身支度を始めた。
しばらくは無言の時間が流れた。
窓の外では鳥が囀っている。
聞こえる音といえばそれくらいだ。
屋敷の者もほとんどはまだ起きていないか、本格的に動き始めてはいないのだろう。
沈黙を破ったのは大君だった。
「痕が―」
残ってしまいましたねと言いながら大君は立ち上がり、白く冷ややかな指で、レトのまだ手袋に覆われていない手首を撫でた。
そこには、ぐるりと赤い指の痕が巻きついている。
「申し訳ありません、レト。力の加減はしていたつもりだったのですが……」
と言う大君の表情は、まさしく自分が傷つけてしまった友人を気遣い、自分が友人を傷つけたことを悲しむものだ。
しかし、昨夜レトの身体を、感情を、貪り尽くしたのもまた目の前のブラッドブルードだった。
いつもならばレトに触れる力やレトを扱う仕草自体はごく丁寧な、穏やかなものであるのだが、何かレトの知らない、彼の機嫌を損ねるようなことがあったのか、昨夜の大君は自分の部屋につくなりレトの唇を奪い、存分にその口内を蹂躙すると、まだ混乱しているレトに後ろを向かせ、背中を押し、ベッドの上へその体を倒した。
体格はそう自分と変わらないはずであるのにどこからそんな力が出てくるのかと、レトがそんな疑問を挟む隙すらなかった。
そして大君はレトの上へ覆い被さり、その両手首を掴むと―
「……」
みるみる昨夜の記憶が蘇ってくるのを無理やり遮るように、レトは眉を寄せ、瞳を閉じる。
「……お気になさらず。どうせ隠れますので」
「……そうですか」
大君がもう一度、レトの手首を撫でる。
「しかし、残念な気もしますね」
「残念?」
「ええ。我々の計画はまだまだ途中ですし、このヴィクトリアには我らに協力しようとする者、我らの邪魔をしようとする者、あるいは今のところは何もせず、様子を見ようとする者―様々な者がいます。その中に貴方にちょっかいを出すような者がいないとも限りません。ですから……自分のものにはきちんと印をつけておいた方が安心でしょう?」
そう言って大君は微笑むと、上半身を前へ―レトの方へ傾け、その顔をレトの耳元へと寄せた。
「……レト」
大君が囁く。
「あなたはただでさえ目立つ立場である上に、テレシスのお使いであちこち行かされているのですから、くれぐれも自分の身の安全には気を配るように。……よろしいですね?」
「……はい」
「私は貴方が心配なのですよ、レト……」
大君の手がレトの手首を離れ、首に触れると、その側面を通り、そのまま胸の上へと下りてくる。
どうか、私以外に貴方を傷つけさせないように。
大君は声に出さずにそう言うと、レトの左胸を―心臓の上を指先でそっと撫でる。
レトの表情と体にさっと緊張が走る。
「レト、私の気持ちを分かってくださいますね……?」
「……はい。肝に銘じておきます」
「良かった。嬉しいですよ、レト、我が友人よ」