堕ちる、縋るザ・シャードの中を歩くレトの足取りは、いつにも増して重かった。
テレシスの部屋にいつまでも着かなければいいという、馬鹿馬鹿しい気持ちまで生まれていた。
当然、レトが歩いた分だけそこには近づくのだし、カズデル軍事委員会のトップとして多忙であろうテレシスの時間を、レトの移動時間如きに余計に使わせ、彼の機嫌を損ねるわけにはいかない。
部下はザ・シャードの入り口に待機させているので、レトは1人きりでザ・シャードの中を歩いている。
レトにはこれが自分にとって良いことなのか悪いことなのか分からない。
サルカズの拠点に、異種族である自分が1人で入っていく時、いつも、この場所にとっての自分は異物であり、歓迎されていないという感覚があるが、しかし、今自分の部下がそばにいても、レトは心が安らぐどころか、むしろ気分が沈むばかりだろう。
昨日、ロンディニウム都市防衛軍の司令塔を、ロドスとロンディニウム市民自救軍が襲撃し、マンフレッドとブラッドブルードの大君、さらにはテレシスまでもがやってきて彼らを撤退させた。
その後、レトたちは、ただマンフレッドが指示するままに、司令塔の受けた被害の内容や規模をまとめた。
レトも部下も、今までの疲れが一気に自分の上へのしかかってきたように、あるいは自分の中にあった様々な思考や感情が全て抜け落ちて、自分の体に大きな空洞ができてしまったようになって、何かしらの感情を抱く余裕はなかった。
それからレトは自分の屋敷に戻り、眠り、朝になって目覚めると、今までもそれらは感じていたのだが、改めて、そしてより強く、無力感とサルカズへの恐怖を感じた。
レトはこれまで、ロンディニウムの人々が流す血がなるべく少なくなるよう努力してきた。
とりわけ、自分が騙して―ガリアの復興を条件に、テレシスに自らすすんでサルカズへの協力を申し出たのを、都市防衛軍がこれからもロンディニウムを守り続けるためにテレシスと会い、ある程度は彼の要求も飲まなければならないだろうが、それを認めさせてきたのだと言って―ここまでついて来させた部下のことは、守りきらなければならないと思っていた。
だが、レトは結局、自分の部下が大君によって彼のしもべに変えられるのを、元の姿の名残はその体に引っかかった服しかないような姿となった部下が司令塔の上から地面へ落ちていくのを、ただ見ていることしかできなかった。
そんな光景を見ながらレトは、自分は今まで1人の人間として、そして、ロンディニウムの一市民として、都市防衛軍の司令官として、多くは望まないから―自分の能力の限界は分かっているから、自分にできる範囲でロンディニウムの人々をサルカズの支配や暴力から救おうと思っていたが、自分に出来ることは、自分が思っているよりもずっと少ないのだということが分かってしまった。
また、大君は―自分が今まで見たことがなく、自分にはその原理も、何をどこまで出来るのかも分からない力を容易く使い、微笑みながら自分の部下を得体の知れない生き物へと変化させたこのブラッドブルードは、まさしく、悪夢や災害―人の意思とは関係なしに人のもとへと訪れる、人には抵抗するすべのない、理不尽なもの―が人の形をとって現れたようなものだと、自分が今まで見てきた大君の強力さや、残虐さ、冷酷さはほんの一部だったのだと思った。
そして、目覚めた後、食欲もないのに無理やり朝食を食べ、服を着替え、オフィスに向かいながら、レトは、こんな無力で、愚かで、無様な自分を―レト自身がそうであるように―部下も蔑み、哀れみ、憎むだろうと思っていた。
しかし、レトを見た部下は、いつもと同じように挨拶をし、その指示を待った。
レトは混乱した。
なぜそのように自分に接することができるのか、全く分からなかった。
なぜ自分を責めないのかと八つ当たりめいた怒りすら感じた。
しかし、しばらくしてレトには分かった。
よく見れば、部下はけしていつも通りではない。
その顔には、今までよりも強く、不安や恐怖、迷いが現れている。
それはレトに対してのものであり、サルカズに対してのものでもある。
部下は、けして昨日の司令塔での出来事に何も感じていないわけではない。
しかし、彼らにはもはやレトについていくしかないのだ。
レトが昨日マンフレッドに言われた通り、司令塔での出来事を報告書へまとめ、それをザ・シャードへ提出しに行こうとしているように―自分の部下を殺したサルカズの指示に従おうとしているように。
レトのもとを離れたところで、議会はサルカズのものとなり、大公爵たちはまだロンディニウムに入る様子はないのだから、部下が次に頼れるものはない。
それに、レトが部下に裏切られたことを知れば、サルカズは、利用価値がなくなったどころか、今後自分たちの計画の障害となりうる部下をレトともども処刑するだろう。
そうなれば、サルカズの兵士たちの剣に切られたり、ボウガンで撃たれるのはまだいい方で、昨日の自分たちの仲間と同じように、意思を奪われ、姿を奪われ、大君の命令に従順に従うおぞましい生き物へと変えられてしまうかもしれない。
レトにサルカズと手を切るように言ったところで同じことだ。
レトとて、サルカズの他にロンディニウムで頼れるような人物の、あるいはサルカズに対抗できるような人物の心当たりはない。
もしそんなものがあれば、そもそもサルカズと手を結ぼうとはしていない。
部下の発言はレトに拒まれ、結局はレトと共にサルカズに協力することになるか、レトと共にサルカズを裏切り、サルカズに処刑されるかだ。
レトは、自分の怒りや悲しみを押し隠し、あるいは、あまりにも怒りや悲しみが強すぎて、精神が麻痺してしまい、それらを感じられなくなったか、怒りや悲しみを感じるだけの気力や体力のなくなった部下に、同情と、ますます強い罪悪感を抱いた。
「……ふう……」
レトは少し立ちどまり、長く息を吐き、吸う。
しかし、息苦しさは消えなかった。
レトはまた歩き始める。
一段一段階段を上っていく。
レトの思考も再び走り始める。
4年前、部下を偽り、サルカズと協力関係を結んでからというもの、レトは孤独感を抱き続けている。
それは今日、さらに強くなった。
司令塔で現実を知り、打ちのめされたレトにはもう、ガリアの復興という遠くにある、漠然としたものを目指すだけの余裕はない。
ただ無事に今日を終え、明日を迎えることしか考えられない。
おそらくは部下も同じだ。
彼らはロンディニウムやヴィクトリアといった大きなものを守るよりも、まず自分と家族の命を守らなければならないと感じているだろう。
なぜならば、彼らは司令塔でそれすらも難しいことだと知ったからだ。
もともと部下はレトに、この人物こそが自分たちを、そしてロンディニウムを守ってくれるのだと、強い信頼と尊敬の念を向けていた。
だが、おそらく今、部下がレトに向けている感情は―この人物に自分たちを守れるのか、いや、守れるはずだ。守ってもらわないといけないという―より切羽詰まったものになっている。
レトは、そんな部下に自分が取り乱したり、迷ったりしている姿を見せて、ますます彼らを追い詰めるようなことをするわけにはない。
そもそも、彼らがここまで追い詰められた原因はレトにあるのだから。
また、レトと部下が少しでも生きながらえるためには、レトたちにとって最大の庇護者であり、最大の驚異でもあるサルカズとの協力関係を長続きさせる必要がある。
そのためには、サルカズに、自分には利用価値があるのだと信じ続けさせ、彼らに疑惑や反感を抱かせてはいけない。
したがってレトは、サルカズにも迷いや焦り、不安といったものを見せるわけにはいかない。
サルカズから言い渡された任務を失敗するわけにもいかない。
レトには誰にも、少しも、自分の弱い部分を、失敗する姿を見せることができない。
しかし、その孤独は自分で招いたことであり、ロンディニウムもガリアも諦めた自分が、孤独に自分の心を蝕まれ、最低限の自分の責任までも―部下のことまでも―を捨て去るなどということをするわけにはいかなかった。
レトにはこの孤独に耐えるしかない。
「……」
レトが立ち止まり、再び意識して呼吸をする。
目的地に着いたからだ。
テレシスの部屋の扉の両隣には、護衛のサルカズが1人ずつ立っている。
彼らは黙ったまま、レトにわずかに視線を向けると、また自分の正面へと視線を戻した。
テレシスからすでにレトが来ることは聞いているのだろう。
レト自身も、ザ・シャードに着いた時に、その入口を守っていたサルカズの兵士に、テレシスに会いに来たことを伝えている。
レトは部屋の扉をノックする。
もうここへ着いてしまったと落胆しているような、ようやくここへ着いたといっそのことホッとしているような、正反対の気持ちが同時にあった。
「レトです。昨日の、ロドスとロンディニウム市民自救軍による、我々……ロンディニウム都市防衛軍の司令塔への襲撃について報告に参りました」
「入れ」
「失礼致します」
レトは扉を開けると、頭を下げてから、テレシスの座る机の前へと進む。
そんなレトをテレシスが見ている。
テレシスに会ってから4年も経っているというのに、彼の冷ややかで、鋭く、真っ直ぐで、こちらのことなど全て見透かしていそうな視線に慣れない。
緊張や不安を感じずにはいられない。
レトは様々な人間に会ってきたし、様々なことを体験してきたが、数百年を生きるというサルカズの指導者の前では、数十年ばかりのレトの経験などほとんど意味をなさなかった。
「……では、早速ですが、報告を始めさせていただきます」
テレシスは本題に入る前に、関係のないことをあれこれと話すのを好む人間ではない。
レトは手元の資料を見ながら報告をしていく。
この部屋に入ってから、ますます増した息苦しさに、舌をもつれさせたり、声を詰まらせたりしないように気をつけながら。
「……報告は以上になります。カズデル軍事委員会に多大な損害を出したばかりでなく、マンフレッド将軍殿のみならず、ブラッドブルードの大君殿と摂政王殿下のお手を煩わせることになってしまい、申し開きのしようもございません。大変申し訳ございませんでした。如何なる処罰も受ける所存です」
そう言うとレトはまた頭を下げ、持っていた報告書をテレシスへ渡し、彼の言葉を待った。
テレシスは報告書を手に取り、そのページをめくっていく。
しばらくそうしたところで、テレシスは報告書へと視線を向けたまま、
「ロドスと反乱軍がお前たちの司令塔の情報を狙ったことは、何も驚くことではない。そして、お前たちではロドスの暗殺者やバンシーの王の相手にはならないことも分かっていた。マンフレッドには前もって、彼奴らが司令塔に向かったと分かったら、すぐにお前も向かい、都市防衛軍の代わりに彼奴らの相手をするようにと言ってあった」
といつも通りの、淡々とした声で言った。
それは、テレシスが本当に全てを予測していたということを示すものなのだろうか。
裁判官から判決を言い渡される罪人のように、レトはじっとテレシスの言葉を聞いている。
「それに、我々の情報が彼奴らの手に渡ったとしても問題はない」
「……」
そこで、レトはつい眉を寄せた。
テレシスに気づかれないよう、すぐにそれを戻したが。
そんなはずはない。
こちらはロドスと自救軍に、全体の内7割ものデータを奪われたのだ。
それなのになぜ、問題がないと言えるのか。
テレシスの言葉に、レトの胸の中では疑問とともに、なんとなく嫌な予感が生まれた。
「羽虫が我々に噛みつこうと、痛くも痒くもない。羽虫は弱く、我々には羽虫が何を考え、どう行動するかを容易く把握できるからだ。とはいえ、いつまでも羽虫に我々の周りを飛び回られては煩わしい。加えて、司令塔のデータの奪取に成功したことで、羽虫に勢いづかれても困る」
テレシスが報告書を机の上へ戻し、レトを見る。
「変形者たちがすでに羽虫の巣を全て見つけている。近々、羽虫をまとめて始末するつもりだ」
「……」
レトは、自分の心臓が見えない手に掴まれたような感覚がした。
レトはテレシスに気づかれないようにそっと息を吸い、吐き、なんとか自分を落ち着かせようとする。
サルカズがいつまでも自救軍のことを見逃すはずがないと、レトも分かっていた。
これまで、サルカズが自救軍に本腰を入れて対応しようとしてこなかったのは、単に他に優先して対応するべきことがあったからだ。
レトの脳裏に、サルカズに魔王と呼ばれるコータスの少女の姿や、ゴールディングの姿が浮かぶ。
自救軍の兵士も、ゴールディングに協力していた本屋も、サルカズに殺された。
しかも、自救軍は司令塔で、レトとともに大君が血を操り戦う姿を、レトの部下を自分の配下へと作り替えるのを見ている。
彼女らはサルカズがどれほど強力で残酷なのか分かっているはずだ。
それなのになぜ彼女らは自ら死へ向かうようなことをするのか?
なぜ生きようとしてくれないのか?
なぜ諦めてくれないのか?
レトはつい、また眉を寄せた。
テレシスはそれに気づいているのかいないのか、
「我々は、ロドスと反乱軍の拠点に同時に兵を向かわせ、彼奴らを徹底的に潰す。再起などけして叶わぬほどに」
とさきほどの自分の言葉を直接的なものへと言い換えた。
どうやっても、意味の取り違えようがないものに。
「……」
レトは何も答えない。
答えられない。
レトにはもう、自分の動揺や悲しみ、怒りを表に出さないようにすることで精一杯だからだ。
そんなレトには、テレシスが黙って自分を見ているのが、まだサルカズの協力者でいるつもりがあるのか、サルカズにとって利用価値があるのかと観察しているように感じられた。
変形者は、レトが聖マルソー校へ行ったにもかかわらず、そこの教師であり自救軍のメンバーであるゴールディングを捕らえるか殺すかすべきところを、何もせず立ち去ったことを知っている。
ならば、テレシスがそのことを知っていたとしても何も不思議ではない。
テレシスはレトがまた、自救軍に情けをかけるのではないかと思っているのか。
「私どもは……何をすればよろしいでしょうか……」
ようやくレトが、そんな言葉を絞り出す。
「何もせずともよい。だが、万が一、彼奴らが我々の兵士の手を逃れ、それをお前たちが見つけた場合、お前たちで処理しろ」
レトは一度固くまぶたを閉じ、開いた後、
「……承知致しました」
と言い、頭を下げた。
「ならば下がれ。後ほど、マンフレッドから改めてお前たちに連絡をする」
「……はい」
レトは踵を返し、部屋を出る。
そして、廊下を歩きながら、自分の服の胸の当たりを握った。
自分と自分の部下が、明日もその先も生き延びるためには、これしか―サルカズに反抗せず、その言葉に忠実に従うしかない。
それに、自分は十分に自救軍に警告をしたではないか。
そう思いながらも、レトの足取りは、テレシスの部屋へ向かっていた時以上に重かった。
ロドスと自救軍の、度重なる仲間たちの犠牲に膝を折らず、ロンディニウムの人々を救おうとするその姿勢は、気高く、美しく、尊敬すべきものだ。
だが、サルカズはロンディニウムに残った僅かな障害を―ロドスと自救軍を―取り除き、ヴィクトリアとの戦争を始めようとしている。
サルカズは容赦なく、彼らの体を切り裂き、彼らの崇高な精神を踏みにじるだろう。
「……」
レトはしばし瞳を閉じる。
ロンディニウムはどうしてこのような状況になってしまったのか?
レトは何度もそう考えたことがある。
直接的な原因は、キャベンディッシュ公爵がスタッフォード公爵による反乱を鎮めるため、サルカズをロンディニウムへ招いたことだが、そもそもは国王が処刑され、ヴィクトリアの唯一の統治者だった人物がいなくなり、その空いた玉座を大公爵たちが狙い始めたことだろうか。
大公爵たちが互いに睨み合い、牽制しあい、とうとう争い始めたその隙を、サルカズは見逃さなかった。
その結果、サルカズはロンディニウムの占領にほぼ成功し、今度はロンディニウムの外にいる大公爵を挑発しようとしている。
ならば、26年も前からロンディニウムがこうなることは決まっていたのだろうか?
誰も、こんなことを―ロンディニウムがサルカズの手に落ちることを予想していなかった時から。
4年前ですら、誰もそんなことは予想していなかっただろう。
しかし、彼らは―サルカズはそれを成し遂げた。
当然といえば当然だ。
この大地で、争いを最も得意とする種族はサルカズなのだから。
サルカズに―彼らの持つ圧倒的な武力とそれに劣らない知力に―あるいは時代の大きな流れに、理想や信念といったものだけでは到底立ち向かうことなどできない。
いくら高い志を持とうと、ついこの間まで一市民に過ぎなかった人間が、子供の頃から戦場に立っているようなサルカズの兵士に勝てるわけはなく、個人が時代の流れに抗えるはずもない。
彼らも早く、早く諦めればいい。
自分と同じように―
レトはザ・シャードの階段を下る。
今やサルカズのものとなった塔の階段を。
一つ、二つ、