鏡界の君「エラン・ケレス」の人生に、「俺」としての時間はほとんどない。
現在の「ソイツ」は飾り立てられた瓶であり、それだけが全て。だから中身が本物だろうが偽物だろうが、そこは大した問題じゃない。今や見るヤツによっては、本物の俺こそが偽物の「エラン・ケレス」に見えることだろう。
つまり誰でもあるということは無いが、誰でもないということではある訳だ。
その事で憂鬱になったり鬱屈したり、悲嘆し苦悩し自暴自棄になる……なんて時期は、とうに過ぎている。そんな初々しい感情があったかどうかすらも、今となっては怪しいもんだ。
そんな訳で今日も今日とて元気に暗い部屋。スクリーンモニターだけが光るその密室で、ペイル社CEO単騎と面談中だった。
「アレが強化人士4号です」
「へぇ。もう4人目か。基準は?」
「今回は耐久性です」
「ふーん。まぁどうでもいいけどな」
「えぇ、あなたとは無縁の世界ですから」
4号ということは、3号はもう終わったかそろそろ終わるってことだ。強化人士は俺の面を被り、俺の名を騙るが、その一切に俺は関与しない。そもそも表舞台に立つことの無い俺だ。関係あることの方が世界には少なかった。それを世界一分かっててこの婆さん、嫌味とすら思わぬ呼吸のように、棘で巻いた言葉で釘を刺す。口出し無用、と。
もっとも俺がそれに反応することも、ましてや傷つくなんて可愛らしいこともないのだが。コイツらの言葉は大概その場のノリで飛び出す嫌な思いつきであり、虫を踏み潰して回る程度の暇つぶし。だがまぁまことに残念ながら、腐ってもバカ売れ大企業様の頭脳の一角。やることなすことその場のノリのガバチャー勢でも、やたら状況が好転する指針を選ぶセンスがあったり、手堅い利益は外さず損切りも素早い場合がほとんどだ。
「で?」
「はい?」
「わざわざ俺を呼んだんだ。何かあるんだろ?」
「えぇ、実は面会して頂こうかと」
「はァ〜?」
前言撤回にも程があるだろ。AIが喋る方がまだマシだ。マジでいい加減にしろよこの婆さんはよ。
「……どうも」
「くらっ!なんだコイツ?やる気あるか?」
「……まぁ」
そこは個室と言うよりかは処置室と呼ぶに相応しい寒々とした部屋だった。窓のない白い壁と床と天井。そこへベッドがぽつんとひとつ置いてある。サイドテーブルだチェストだなんてものはないし、もちろん花や見舞いのフルーツなんてものもない。
そんな場所にソイツはいた。俺と瓜二つの顔した名前も知らない、どこぞの切羽詰まった誰かが。ベッドから身を起こしてあらぬ方を見ていたが、部屋の扉が開く音に反応してかこちらへ視線を向けてくる。死んだ目だった。俺の顔でそうも景気の悪い顔が出来るのは発見だ。
「こんなもんか」
自分と同じ顔が写真ではなく現実で動いているのを見て、何かショックを受けるかと少し期待していたが、別にそんなこともなかった。毎朝鏡で見てるとはいえ、自分の顔なんざ身近な人間と比べれば実際ほとんど見ないものだしな。左右反転していない自分の顔なんて、目玉でも取り出さなければもっと見ないだろう。
それはさておき婆さん曰く、コイツは処置の過程で、何故か日常記憶が大幅に欠落したらしい。1号から3号まではそんなことも無かったらしいのだが。
らしいらしいと伝聞すぎるが、全て伝聞なのだから仕方ない。起きてしまったことは消えないし、過ぎたものは戻らない。よって仰せつかったのは、日常記憶の補填がてら、礼儀作法に一般常識、ついでに「エラン・ケレス」を仕込めとのことだった。
なんで俺の影武者に仕込む俺らしさがついで扱いなんだよとは思いもするが、まぁにわか仕込みで演技のボロが出るよりかは、素のまま寄せるのが一番だろう。
「お前、名前は?」
「分からない」
「エラン・ケレスだろうが」
「あぁ……」
近寄ってはみたが、見渡してもやはりイスすらもないので、ベッドサイドに腰かける。無言の視線を感じるも、特に抗議という色でもなかった。あー座ったなぁと認識した程度の感慨だろう。どうやら記憶喪失はかなりの重症らしい。そうでなければ暗すぎる。
「自分の顔見たか?」
「どうやって」
「鏡とかカメラとかあるだろ」
「ここにはないよ」
「じゃあ撮ってやるよ」
「どうも」
カウントを刻むでもなく取り出した端末で撮影する。映りがいまいちだったのでもう一度シャッター音。自分の死んだ顔が手元の端末へ増えていくのも楽しくはないので、それで撮影会は終わりにした。
「感想は?」
「……さぁ」
画面を見せても、その表情は微動だにしなかった。まぁそんなものだろう。俺もそうなのだから。
「元の顔も覚えていないから」
「あぁそういや、そんな設定だったか」
「ところで、君は誰?」
ようやく会話らしい会話が出たかと思えば、笑ってしまうほどバカな質問だ。まさか精神世界でもう1人の自分と話してるとでも?いや、元の顔とか言ってるんだから、ある程度の状況は分かっているか。
だから、あぁこれは、きっとそういう意趣返しか何かなんだろう。凶器も記憶もなくたって、人間は言葉一つで争える。悪くない。俺の部下であれば田舎に飛ばすが、影武者としてなら合格だ。
婆さん相手じゃ乗らないが、今日はいつもより気分がいい。だから特別に、こう返してやるよ。
「エラン・ケレスに決まってるだろ、俺」
お前は俺だが、俺はお前じゃない。そこのところ、しっかり覚えて外に出ていけよ。いつか俺に名前が返ってきたとき、面倒な仕様が増えているのは御免だからな。
そんなささやかなエランの願いは、後にあっさり散ることとなる。それも偽物のフリをする仕事つきで。
それはこの日から、たった数ヶ月後の出来事だった。