痛みを我に「まさか…」
信じられない、というようにヒュンケルはポップの顔を見た。
「ああ」
対するポップは腕組みをして、不敵な笑みを浮かべている。
「闇の精霊と、契約した」
「……」
ヒュンケルは精霊や魔法の類いには詳しくない。しかし光と闇両方の闘気を使った経験はある。
いかに大魔道士とはいえ、闇の精霊などというものと契約して、大丈夫なのか?ポップの体に負担はないのか、闇に取り込まれるなどということが、万に一つもないのか。
かつて自分が飲み干した闇の杯のことが頭を過ぎる。
様々な疑問や危惧がヒュンケルの胸に去来し、どう反応したものか考えあぐね、結局押し黙るほかなかった。
「安心しろよ」
ポップが口を開いた。
「そもそも精霊には善も悪もないんだよ。ただ、人間に利するかどうかで、おれらが勝手にそう呼んでるだけなんだ」
だから心配するようなことは何もない、と。
あの大魔王との戦いで、ヒュンケルの体はボロボロになっていた。日常生活は送れるが、2度と戦うことはできまい、と言われていた。その人生のほとんどを戦士として生きてきたヒュンケルにとって、それは死刑宣告にも等しい事実だった。
それだけでなく、ヒュンケルは身体中を走る激痛と自分の体が自分のものでないような違和感に絶えず苛まれていた。
もちろんポップは事あるごとにヒュンケルにベホマをかけ続けていたが、それは結局のところ気休めに過ぎなかった。
ベホマは体の代謝を活性化させ自然治癒力を上げて回復を促す呪文である。
ヒュンケルの場合、多くの細胞自体が壊れかけているのだから、いくら活性化させても完全なる治癒は見込めない。治すそばから壊れていく、イタチごっこだ。
ポップはマトリフに知恵を借り、魔導書を読み漁ったり、新しく手に入れたアイテムを試してみたりと、ありとあらゆる手を尽くし方法を探していたが、目覚ましい効果を上げるものはなかった。
ところがある日、ポップがヒュンケルを呼び出して、いい方法が見つかった、すでに前提条件もクリアしている、と明るい声で告げたのだ。
その条件というのが、件の闇の精霊との契約だった。そしてその方法とは、ヒュンケルにはおよそ理解しがたいものであった。
ーまずおめーの傷をおれに移す。
その後、おれが回復する。
そう、ポップはこともなげに言ってのけた。
ポップの説明はこうだった。
ーーこの呪文が闇の精霊の力を借りる禁呪とされていたのには、それなりの理由がある。
例えば戦闘中に与えた傷をそのまま敵から返されたりしたら、たまったもんじゃないからな。
それに自分が助かりたいがために赤の他人に傷を移したりすれば、それこそ闇の力に魅入られてしまうだろ。
だが、元々痛みや災いを自分以外のものにかわす方法は昔からあったんだ。
形代とか、聞いたことねえか?人形を身代わりとして、災いやけがれを移すってやつ。
ん?そりゃおめえの場合もそれは一応理論的には可能だ。ただそれじゃあ一時凌ぎにはなるが、根本的な解決にはならねえ。もとのダメージがデカすぎるんだ。
だから、今回はおれが依代になる。つまりおめえの傷を受ける。で、自分のベホマで回復する。
ベホマを他人の体にかける時は、練った魔法力を呪文により発動して作用させるまでにどうしてもタイムラグがあって、おめえの場合は回復が追いつかねえ。その点自分の体なら、直で作用させて瞬時に回復できる。
これが一番楽で確実で、早いんだよ。
まあ呪文を介して傷を移す時点で、お互いの精神の間にある程度の理解と感応が必要だし、呪文の作用をダイレクトにすんのもコツがいるから、いつでも誰にでもできるってもんでもないけどな。
「お前に負担はないのか」
ヒュンケルが最も気になるのはそこだ。
ないとは言えねえ、とポップは目を眇めた。
「ちっと痛えかもな」
だが、あのシグマとの戦いの時だって、激痛に耐え正気を保って自らを回復できたのだ。
「大魔道士様を信用しろ」
片目を瞑ってみせる。
そしてポップはヒュンケルの返事を待たず、
「じゃあ、いくぜ…」
詠唱を始めた。
「古より来る力ある精霊たちよ。今こそ我が声に耳を傾けたまえ」
ポップの周りに幻想的な光が立ち上った。
「傷つきし者の痛み、血と肉を裂き骨を砕き、魂を削る煉獄の刃。
この者をその辛苦から解き放ちそを我に与えよ。我この肉体と魂をもって贖わん」
ーおまえの痛みを、おれに。
詠唱の終わりとともに、ヒュンケルの体を光が取り巻く。
と、じわじわと体を侵食していたかのような痛みが、驚くべきことにすっと楽になった。
同時に光はヒュンケルを離れ、帯となりポップを取り巻く。
次の瞬間、
「ぐっ…」
ポップが胸を押さえくずおれた。
「ポップ!」
ヒュンケルが駆け寄る。
「早くベホマを!」
「いや、まだだ。全部きてねえ…中途半端じゃ意味がねえんだ」
ポップはだらだらと汗を流しながら薄目を開けて答える。
(…覚悟はしてたけど想像以上にキツい)
これまで戦いの中で禁呪を使った時も心臓が痛んだが、それとはまた違う、体を内側から引き絞られ骨を砕かれるような、壮絶な痛み。
こんな状態でヒュンケルは戦っていたのか。
(本当に不死身だな…)
激痛に唇を噛んで耐える。
脂汗が絶え間なく浮き出ては顔中を濡らしていく。
「…は…っ、う…」
堪らず声が漏れた。
ヒュンケルはそんなポップを見ていられない。
「ポップ…、頼む!」
拳を握り締めて懇願するが、ポップは頑として譲らなかった。
「うるっ、せ…!は…黙って、見てろ…あぁっ」
身悶えし床を転げ回る。
大戦時にはポップも敵の攻撃を受け大怪我をしたり、生命さえ落としたこともあった。一般人よりは遥かに痛みに耐性があると言える。
しかし、戦場にあって傷と共にあるのが常であったヒュンケルにとっては、痛みはただ受け入れ、時にやり過ごしながら歩む、慣れ親しんだ悪友のようなものであった。
たとえ常人には耐えがたい程のものであったとしても。
それを一度にその体に受け入れたポップの感じている激痛は、想像を絶するものであろう。
しかも闘気を纏う屈強な戦士と違い、鍛えてあるとはいえ魔法使いは肉体的には普通の人間なのだ。
「ぐあっ…、あ、ああっ」
ポップの苦しむ声は聞くに耐えない。
「ーもう、やめてくれ!」
掠れたヒュンケルの叫び声が空虚な空間にこだました。
ポップは必死で何かを呑み込んでいるかのように、目を見開き口をぱくぱくと動かしている。
「はあっ…、はぁ…」
あまりの痛みに涙を流しながらも、大きく肩で息をして立て直そうともがく。
「んん…、ふ…、あぁっ」
意識が飛びそうだ。
歯を立てて思い切り自分の腕を噛む。
血が滲み、別の痛みが襲う。それでも正気を保てるか。
(ダメだ)
ここでやめたら意味がない。
(決めたんだ。あいつを助けるんだ)
いよいよ地獄の炎に焼き尽くされるような恐ろしい激痛がポップの全身を支配した。
「あ…、あああああ!!」
ポップの絶叫が塞いでもなおヒュンケルの耳をつんざきその顔を凍りつかせた。
(ーよし…)
ポップの表情がふと緩んだ。
どうやらすべてを受け止められたようだ。
はっはっと小さく息を切りながら肩を震わせて呑み下していく。
激痛には変わりないが、体は慣れていくものだ。痛みが極まってしまえば振り切れて、凪の瞬間が訪れた。今なら呪文を使える。
「ベホマ!」
ポップはようやく回復呪文を唱えた。
緑の光がポップの体を包み、苦悶の表情が和らいでいく。
ポップに負けぬ程顔を歪め汗を滴らせていたヒュンケルもほっと息をついた。
ポップは穏やかな呼吸を取り戻していたが、まだ青白い顔をしている。
ヒュンケルは抱き上げて寝台に寝かせ、汗をぬぐってやった。少し安心すると同時に、怒りが込み上げてきた。
「話が違うぞ!」
ヒュンケルは本気で怒っていた。
何がちょっと痛いかも、だ。
もしあのまま意識を失って、回復呪文をかけるのが遅れていたら。そう思うとぞっとする。
ポップの頬に徐々に赤みが差してくるのを確認し一気に緊張が解け、ヒュンケルは座り込んだ。
「…生きた心地がしなかった…」
「…心配かけたのは悪かったよ」
ポップは素直に謝った。
「まあ、予想以上にキツかったけど」
と、ヒュンケルを睨み、
「てか、おめーがおかしいんだよ!なんであれで平気な顔してんだ!バグってんじゃねえのか…」
逆に怒られるヒュンケル。ポップは心底呆れているようだ。
「で、どうなんだよ体は」
ポップの問いに、
「…驚くほど楽になった」
ヒュンケルは正直に答えた。
よかった、とポップは笑顔を見せる。
「でも、完全じゃねえんだろ」
ポップの言う通りだ。
体を蝕みつづける激痛は消えたものの、手足や首、あらゆる部位を動かした時の違和感は消えていない。
「ま、今日はここまでだ。これからちょっとずつこの調子でやってくから」
「…なんだと?」
ヒュンケルは声を荒らげた。
「こんなことをまだ続けると言うのか、おまえは…。ダメだ!これ以上おまえに負担を強いるわけにはいかない」
「うるせえ、おめーの言うことなんか聞かねえ。悔しかったら力づくで止めてみやがれ」
ポップは痛いところを突いてくる。
今の満身創痍のヒュンケルでは、勝負したところでとてもじゃないがポップには勝てないだろう。
言い出したら聞かないのだ、この強情っぱりの弟弟子は。
ヒュンケルはため息をついた。
「我儘な弟を持つと苦労する」
「そりゃこっちのセリフだ。バカで鈍感でええかっこしいの兄貴の尻拭いをする身になれってんだ」
相変わらずの憎まれ口を叩くポップに、
「それだけ喋れれば大丈夫だな」
とヒュンケルは立ち上がり、
「着替えと何か温かいものを持って来よう」
ドアを開きかけたが、振り返り
「ーポップ。ありがとう」
と、見たことのない顔で笑ってみせた。
「…おう」
予想外のことにそれだけ反応するのがやっとだったポップは、パタン、と音を立ててドアが閉まったあと、はあ、と息をついて寝台に突っ伏した。
「なんだよアレ…」
これからもあいつのあんな顔を見られるのか、と思うと、嬉しいような、気恥ずかしいような、なんとも言えない気持ちを覚えて一人枕を抱えるポップであった。