「あれ、奏くんだ」
のんびりとした声に名前を呼ばれて、奏は顔を上げた。背は高いし体つきもしっかりしてるのに、どうしてかあんまり威圧感は感じさせない人。
「ぼーのだ」
「うん」
うんって首を傾げて笑う顔に、苛々としていた気持ちが少しだけどこかへ行く。この人と顔を合わせると、やっぱり調子が狂うなと思う。
噴水のそばのベンチ。そこに腰掛けて不貞腐れていた奏は、仕方がないので端へと寄った。隣いいの? と曙が訊いてくるから、どうぞと答える。隣に座った曙が、こっちを見たのが分かった。
「それで、どうしたの?」
こういうふうに訊いてくるの、なんなんだろうなって思うけれど、それほど嫌な気持ちになるわけではなかったから、そのまま言葉にした。
「……兄貴が、俺よりバッキー優先して出掛けてったから喧嘩しちゃった」
実際には自分が飛び出してきただけだから、喧嘩にもなっていなかったなあと思うけれど。だって喧嘩なら追いかけてきてくれたっていいのに、遥は追いかけてきてはくれなかった。多分呆れてたんだろうなと思う。自分が悪い自覚だってある。だから謝らないといけないのは分かるのに、やっぱり寂しいから謝りたくない気持ちがあった。謝ってしまったら、遥に隣にいてほしい気持ちに、蓋をしてしまいそうになるのが嫌だった。
「遥くん、お出かけしちゃったんだ」
「そう。俺が一緒に出かけようーって誘ったのに、バッキーと先に約束があったんだって」
「……そっか。それは仕方がないね」
「それはそうなんだけどさ」
遥と仲直りをした。というのとは、多分少し違う。多分今は、仲直りをしている最中なんだと思う。遥は、俺もお前も、お互い以外も大事にするべきだと言った。その言葉は分かったようで、ずっとうまく飲み込めずにいる。遥だけが大事でもいいのにと、今でも思ってしまう。だから、遥の言葉にその時は頷いたけれど、やっぱり苦しくてこうして時々駄目になる。遥の隣は、俺だけじゃ駄目なのかなと思ってしまう。
「……何か、焦げくさくない?」
うっすらと焦げたみたいなにおいがするのに気がついて、曙に同意を求めると、あ、オレかも、と曙が頷いた。よく意味が分からなくて眉根を寄せて首を捻ると、曙は少し向こうのキッチンカーを指差した。
「さっきまであそこでバイトしてたんだ。だけどすぐ真っ黒コゲになっちゃって。クレープって焼くの難しいね」
そののんびりとした言葉に、なんだか本当に、緊張感が全部抜けてしまった。結構深刻な話をしてたつもりなのに、こんなふうに脱力させるのってずるいなあと思う。顔を俯けて息を吐くと、気持ちの持って行き方が分からずに、奏は足を浮かせてぷらぷらとさせた。
隣を見る。
「曙サンて、クレープ焼くの苦手なの?」
「うん。買いに来てくれたお客さんを幸せにしたいのに、なかなか上手くいかないんだ」
そうしょんぼりした顔で言うから、しょうがないなあと言葉が出ていた。
「曙サン、これから暇?」
「うん?」
「じゃあさ、クレープの焼き方、少し練習する?」
「奏くん、付き合ってくれるの?」
「兄貴まだ帰ってこないだろうし、少しだけね」
ジャイロのシェアハウスがこの近くだよと言う曙に、奏は立ち上がって歩き出す。
するとその時、ポケットの中のスマホが震えた。名前を見て、嬉しい気持ちと同時に少しだけ緊張と躊躇があって、通話ボタンを押して耳にあてると、遥の声がした。
「お前、いきなり飛び出していくやつがあるかよ。……あと二時間。その後でいいなら付き合うから」
遥の時間も自分の時間もそれぞれ大切になんて、今はまだよく分からないけれど。頷けば、電話の向こうの遥もほっとしたのが分かった。
顔を上げれば、一歩先を行く曙がこっちを見て笑っていた。