つるくり文心地の良い昼下がり。
内番もなく出陣や遠征もない。非番の日は退屈だ。
普段誰も立ち入る事の無い蔵の裏手、木々が生い茂り日陰となっている静かな場所で、大倶利伽羅は自身である刀を抜く。
刀身に刻まれた竜を撫で、ふ、と息を吐く。
静かに構え、刀を振り上げる。
ヒュン、と刃は虚空を断ち切るように閃いた。
誰もいない、静かな場所にただ一振り。
大倶利伽羅にとってそれは心休まるものだ。
だが、一振りの時間を心地よく過ごしている時に限ってやってくるのだ、やつは。
チラリと浮かんだ白い影。ダメだ想像していたら本当に来そうだ。
振り払うように一閃、刃を振り抜き鞘へ収めた。
「わっっ!!」
突然、背後から白い手が伸びる。
ガッチリと首に回された白い両手に引かれるように少しばかり仰け反る体勢にさせられた。
「……」
軽く舌打ちをする。やはりこうなってしまった。
「少しは驚いてくれ伽羅坊」
声のした方を睨み付ければ、白色の睫毛をパチリと震わせる金色の瞳がすぐそこに在った。
無言のまま睨むも薄い唇は楽しげに曲線を描いている。
「…何の用だ」
低く唸るように呟くと、ようやく白い腕から解放された。
白い羽織をひらひらと靡かせながら、重力を感じさせない軽い足取りで正面へ回り込む。色のない姿に金の瞳だけが浮いて見える。
ただそうして立っているだけならば、まるで磁器で作られた人形のようだった。
人形だったならば静かでいいのだが。
「暇だ、付き合ってくれ」
「断る」
即答して返してやるが、目の前の刀はニコリと笑みを浮かべるばかりで諦めた風には見えない。
よく知っている。こいつは何故か妙な所で引き下がらない。
「俺から一本取れたら何でも言う事を聞いてやろう」
などと宣うている。余程暇で暇で仕方ないのだろうとそこで確信した。
「…一本とったら、もう俺に構うな」
「取れるつもりでいるのか、面白い」
にかりと挑発するように笑った刀は、金の目だけは鋭く、刺すようにこちらを見る。
流石にカチンとくる。顔には出さないが。
「さぁ、俺を楽しませてくれ」
白い刀─鶴丸国永は大腕を広げて笑った。
「そこまで!」
突然響いた声に、は、と正気に戻る。
気付けば道場内にはちらほらと何振りか刀の姿があり、こちらに近付く燭台切光忠の姿を捉えてようやく先程の声はその刀のものだと理解した。
目線の高さを同じくするように光忠が膝をつく。
大丈夫かい?とこちらを労わる視線に、自分が座り込んでいるのだと気が付いた。
「いつの間にか見物客が増えてるな」
ははは、と高らかに笑う姿を見上げれば、金属のような瞳が見下ろす。
「伽羅ちゃん、血が出てるよ。口の中を切ったのかな」
光忠のその言葉に、なんの事かと一瞬思ったが途端に口の中に鉄の味が広がった気がした。
口端を拭ってみれば、指に微かな赤色が掠れる。
「鶴さん、やり過ぎだよ」
優しく咎める光忠に、全く悪びれた様子のない鶴丸は軽くすまんすまんと口にする。
鉄の味と共に、悔しさに苦味が広がる。
すくりと立ち上がり、目の前の刀を睨みつけて背を向けた。
「伽羅ちゃん待って、手当しないと」
「必要ない」
見物客の刀らの間をすり抜けて、道場を後にする。その間も、飄々とした笑みを背に向けられている気がして苛立った。
手押しポンプで井戸水を汲み上げる。
畑用に設置されたものだが、水は澄んでいて不純物などはない。顔へ水をかければ、井戸水の冷たさに少しずつ熱が引いていく。
少量水を含む。口内をすすぎ、水を吐き捨てれば少しだけ赤色が混じっていた。
途中から完全に頭に血が昇っていた。
どれだけ打ち込もうと余裕綽々と受け流していく鶴丸にペースを乱されるばかりで、一本をとるどころかまともに勝負にもならなかった。
第一部隊に配属された一振りとしての実力を見せつけられたようで、冷静になりつつあった思考がまた乱されるように苛立ってくる。
「伽羅坊」
ひょこりと白い頭が覗き込む。
不意打ちをくらい、声は出さなかったがビクリと後ずさる。
「…何の用だ」
苛立ちを隠さず低く唸るように言っても、この厄介な刀には通用しない。
「口の中を切っただろう?見せてみろ」
伸ばされた手を振り払う。
「構うなっ、が…」
だが、振り払われた事など気にもせず、無遠慮に白い両手が頬へ伸びたかと思えば、言葉を発するため僅かに開いた口へと狙いをさだめ親指をねじ込まれた。
「っは…」
口端を広げるように力が込められる指。抗うように口を閉じようとするができない。
無理矢理開かれた唇の端から飲みくだせない唾液が伝い落ちる。
「ああ、見事に切れてるな。血が出てる」
「っ…!」
いい加減にしろ。
まじまじと口内を眺める鶴丸を睨みつけ、その手首を掴み引き剥がそうとした時。
ぐ、と顔を引き寄せられる。ぐらりと前のめり微かに顔を上げられ、視界いっぱい白に埋め尽くされた。
唇に柔らかな感触を感じ、次にぬるりと湿った感触が下唇を掠めると、口内の傷を擦り上げる。
「!」
口内の傷を弄るものが何であるか、一拍置き気が付いて引き剥がそうと肩口を押すが頬を掴んでいた手が襟首を抱えるように押さえるので逃れられない。
抵抗する間も傷口を弄り続けるそれを、舌を使い押し出そうとする。
しかし、次は押し出そうとする舌を絡めとるように擦り上げられてしまった。
「んっ…んん…」
ゾクッと震える。嫌悪ではないその感覚に、大倶利伽羅はカッと怒りに似た感情が沸き上がり、考えるよりも先にガチリ、と口内を犯すものに噛み付いた。
「ったぁ!」
鶴丸が間の抜けた声を上げる。ようやく解放された大倶利伽羅はその隙に間合いを取り唾液に塗れた唇を拭った。
「酷いことするなぁ」
そう言いながらも表情は相変わらず飄々としていて、べ、と濡れた舌を見せてきた。先程己が付けた痕が赤く滲んだ線となって浮き上がっている。
それにまた怒りのような、頭の中が沸騰したような感情が膨れ上がった。
「っ…自業自得だ」
睨みつけるが効いていない。それどころか、目を細めどこか満足気な顔をして見つめてくる。
…こいつといると、調子が狂う。
大倶利伽羅は舌打ちをし、鶴丸に背を向けた。
足早に去っていく大倶利伽羅の背中をにっこりと笑顔で見送った鶴丸は、ペロリと唇を舐める。噛み痕から滲んだ赤が薄い唇に薄らと色を付けた。
「また遊ぼうぜ、伽羅坊」