遥か隣、ほうき星噂の英雄について、こと一人の人間として捉えた時、最初の印象は「感情の起伏の少ない奴だ」というものだった。ララフェル族特有の子どものような体躯を大きく使ってみせはするが、頼まれごとの処理も、調査の打ち合わせも、淡々とそつのない様子でこなす。だからこそ、彼女が目を輝かせたその瞬間を、いたく覚えているのだろう。
「それは、どんなお話なのですか」
古代の民の迷宮での冒険譚を求めて自分の天幕へと招き入れた時のことだった。シドに“お人好し”と称されるだけあって、オレが話をねだれば彼女はあっさりと承諾した。足を踏み入れて、本や紙の散らばる天幕内を一瞥して少し目を細めた後――ある一点でその視線を止めたのだ。
汚れた装丁、曲がった角。いかにも年季の入った、子ども向けの絵本。オレが幼少の折に最も気に入っていた童話で、幸いそう大きな本ではないから旅の荷物によく登場したものだった。ここエオルゼアでもかなり流通しているはずだ。子ども向けの絵本を持ち込んでいることについて何か言われるのかと思ったら、その口からこぼれ出たのは内容についての質問だった。
「読んだことないのか?」
「はい」
「ふーん、割とメジャーな絵本かと思ってた。よくある童話だけど、読むか?」
「はい!」
何の気なしに差し出した本を、割れ物のようにそっと小さな両手が受け取る。まろい頬はこれでもかと赤らんで、深緋の大きな瞳は薄暗い天幕内の光をすべて集めたように輝いていた。驚いて目を丸くしたオレのことなど目にも入らない様子でページをめくる。――感情表現の乏しい奴だと思っていた。でもそれは、どうやら違うらしい。おそらくこいつは、未知を求め、旅を愛し、新鮮な経験にいつだって飢えている、どうしようもなく冒険者らしい人間なのだ。剣の腕の立つ少年が世界を脅かす悪い奴を倒して、仲間と共に世界を救う。そんなありきたりな英雄譚。思えばこの歳にもなって誰にも共有なんかしてこなかった思い出の一冊を、エオルゼアの英雄は噛み締めるように読み干した。それを、なんだか不思議な気持ちで眺めていたのを、――覚えている。
「素敵なお話でした。ドラゴンの住まいの……湖の真ん中に建つお城。海中の神殿に、空の上に広がる花畑。駆け回れたら楽しいでしょうね」
「ははっ、冒険者の感想って感じだ」
「冒険者ですから」
「オレはやっぱ、主人公がだんだん腕上げてさ、ラスボス打ち倒すところが最高に爽快でいい!ってなるんだよな〜」
「なんというか、……らしいですね」
「バカにした?」
「いえ全然。囚われた仲間もちゃんと取り返せて、すごくいいシーンでしたよ。単純に、見るものの違いだなぁ、と」
あなたは歴史を見る人でしょう。彼らの道のりが結実したそこが歴史の節目、転換点だから、やっぱり強く残るのかなと思いまして。そんな風に続けられて、少し、首を捻る。
「じゃああんたは?」
「わたしの旅はそれよりずっと刹那的です。美しい景色と、そこに息づく営みを愛でてその日暮らしをしていますから。旅の道中にどうにも憧れてしまうんです。絵本の中の主人公は、本当に……楽しそうですね」
「……あんたは今、旅、楽しいか?」
「楽しいですよ。自由に動く足があって、目の前に広大な世界がありますから」
遥か遠くを眺める瞳は空よりずっと向こうを夢想しているように見えた。翼さえあればどこへだって飛び立ちそうな。そのくらい軽やかで――どこまでも旅人だった。まぶたに情景を思い浮かべながら、彼女は手中の絵本をぱたん、と閉じる。「では、迷宮の話をしましょうか」そして次に目を、口を開いた時にはきっと――英雄の顔をしていた。人のために戦い、守り、救う人間の顔が、オレを見ていた。
感情の起伏が少ないのではないのだ。そこにいる生身の彼女は、傷つくことを知っていて、それでもただ、真っ直ぐ前を見据えていられる人なのだと、どうしようもなく理解した。
〇
秘密の話なんですけどね、なんて前置きをして私に口を噤ませる彼女は、存外にしたたかだ。
「戦場で死んだのならまだ、マシな方なのではないですか」
一拍反応が遅れた。私のいた未来の話だと判断するまでに要した時間だ。そんなわけがないだろう、とすぐに食ってかかったらどんな顔をしたのか、私は今でも興味がある。英雄は間髪入れず続けた。
「名前も、功績も、武力も。利用されて死んでいたらきっと、後世に英雄としては伝えられなかったでしょうから」
それはあなたの望むところではないはずだ、と。違う。私が、彼らが、あなたを愛した世界が言いたかったのは――そういうことでは、ないのだ。
「あなたにだって穏やかな晩年を迎える権利があるはずだと、……いうことであって。死に際の美しさを求めているわけでは」
「違うのですか」
違うと言い切るより先に、彼女は憂いた顔をする。ただこちらを慮る表情に少なからず動揺した。あなたの命の話をしているというのに。「だってあなた、わたしが戦争犯罪人として語り継がれていたら、きっと少なからず傷ついたでしょう」と彼女は言うのだ。──ああ、ああ。英雄というのは、どこまでも。
「ごめんなさい、他でもないあなたに言うことではないとわかっているのですけれど。あなたを軽んじるあなたへの恨み言だと思って、許してくださいね」
「……もしかしてその、帰還方法の話、あなたも意外と怒っているのか」
「怒りませんし、手段の一つとして理解もしていますよ。わたしには代案を出す知識はありませんしね」
「では……」
「あなたの憧れの英雄……とやらの手を、他でもないあなただけが掴めないなんて、馬鹿らしいじゃないですか」
わたしだって世界を救った立役者に安寧をあげたいとくらい思います。なのにあなた、何にも望まないんですから。仕方ないなと目を細めて彼女は笑った。――暫く会わないうちに、随分と表情が豊かになった。こうも正面から惜しみなくぶつけられるのが慈しみでは、逃げもかくれもしようがない。
「湖の真ん中に建つお城も、海中の神殿も、あなたに招かれなければ本当に見ることは叶いませんでしたね」
「それは……もしかして」
「ドラゴンの住まいや空中の花畑でしたら、わたし、心当たりがあるのです。ご案内しますよ。あなたが生きてさえいれば、きっとね」
彼女の行先に楽しい旅が続くことを、輝く瞳が雄弁に物語っていた。遥か遠くを駆けるくせに、こうして目の前で瞬くから、いけない。まったく――どうしようも、ないのだ!
「……あなた相手にそんな贅沢を望んでいいと?」
期待に満ちた顔の私が大きな瞳に映り込んで気恥ずかしい。英雄は笑う。堪えきれないと言いたげに吹き出して、それから私を手招く。膝をついて腰を屈めると、少し背伸びした彼女が水晶公、と囁いた。
「少しわがままなくらいがかわいいですよ」