ボディケアの話リビングからやけに甘い匂いがしている。ローはこれが苦手らしく、匂いが濃くなる前に舌打ちをして部屋に引っ込んでしまう。俺はまぁ、嫌いではないけど。どちらかと言えば匂いよりこの甘い空気が問題だと思う。
「兄上もマメだよな…」
ソファではなく毛足の長いラグに腰を下ろしているおふたりさん。脚の間に座る猫ちゃんの頭を、ドフィがタオルドライしてあげるのはいつものことだ。
しかし何回かに1回、兄は新しいバスタオルを敷いたソファの上へ猫ちゃんを乗せて、陶器のようなお肌を念入りにケアしてあげている。冬場はもちろん、暑くなって紫外線が気になってきた最近は、特に念入りに。
「コイツがひとりでできるなら、俺もわざわざこんなことしねェよ」
ウソだ。ローに言わせれば、これはマメとかではなく単にドフィ自身が楽しいだけらしい。
二の腕から手の甲、太腿から足の甲まで、シアバター入りボディクリームを塗り込む。日焼けが気になる首筋は、保湿用ローションで。脚の裏はマッサージしながらの角質ケア。大きな手のひらが身体をゆっくり撫でていくのを、猫ちゃんは気にもせず、大抵スマホかゲーム機を弄っている。
後者の場合、相手は大体俺だ。つまり俺がリビングから退散できないのにはれっきとした理由があるというわけだ。
「ロシナンテ、」
「ハイハイ」
今だって仰向けのままで、兄に脚へボディクリームを塗り込まれているが、呼ぶのは俺の名前だ。早く支度してクエストに合流しろということらしい。夏らしい、グレープフルーツの匂いが漂ってくる。
「…また変なトコに痣できてやがる」
わかるなー。ぶつけた記憶ないのに脚にアザできてること、あるわ。ま、それに気づくのが自分じゃないってのはレアケースだと思うけど。
ドフィは猫ちゃんの身体にある痣の場所から、治りかけの傷の具合まで、たぶんなんでも覚えてるハズだ。…あと、自分で付けた痕とかも絶対ある。見たことないけどきっとある。
「くすぐったくねーの?」
「ンー?」
「足の裏さ。ローなら絶対ムリだろ?」
「ドフィさんもムリだよ」
「オイ、余計な事を言うんじゃねェ」
珍しくドフィが猫ちゃんを咎めるのが面白い。足の裏をドフィにさすられても、猫ちゃんはお構いなしだ。俺的には、擽られるより足ツボを押される方がムリな気もする。
「全く…健康優良児すぎるな。リンパ流しても痛がりやしねェ」
「ンー」
ふくらはぎの側面をごりごりとマッサージされても、さすが猫なだけはある。気持ちよさそうに兄上の手へ脚を委ねる様子は、図太いを通り越して末恐ろしい。
ひとしきり脚のケアを終えたドフィは、ポータブル端末を持ったままの猫ちゃんを勝手に抱き起こして、自分の足の上に座らせた。そして勝手に髪の毛を括って、うなじを露出させる。次はネックケアらしい。
「…オイ、俺ぁ言ったよな?日焼け止めはキチンと塗れって」
「ンー」
…後ろから降ってくるドフィの小言を、ここまでぞんざいに受け流せる生き物は、猫ちゃんかローくらいだ。
これが一度目ならいいが、ドフィは自分の言付けを守らなかったことにも若干不満なのだ。もちろん、この手強い同居人ちゃんの一挙手一投足を思い通りにできるわけではないことを、愉しんではいるだろうけど。
「フフ、そうかそうか」
……おッかねェ。声は優しいが、きっとサングラスの奥は笑っていない。思わずSwitchを持つ手に力が入った。自分のことじゃねェのに。ゲーム画面に集中できやしない。
しかしドフィは、それ以上首にちょっかいを出すことはせず、何やら別のクリームを指に出しているようだった。よく見えないけど、チューブは小さめ。足の上に腰掛けたままの猫ちゃんを、後ろから抱っこしたまま、ドフィは人差し指を柔らかそうな口元へ近づけている。
「んっ!、んー!」
「あァ気にするな、おまえはゲームでもなんでもしてりゃイイ」
俺はついに液晶から顔を上げた。見れば、ドフィの指が猫ちゃんの唇へ、ぬるぬると何かを塗り付けている。リップクリームじゃない。なんか、指で塗ってるもん。てろてろと光る唇は、やたらと甘い匂いを放っていた。
「…ドフィ、何してんの」
「見て分かるだろ、リップケアだ。シュガースクラブだから甘いな?」
「んっ!んんっ!!…ぁむ、っ」
まァ、100歩譲ってよしとしよう。兄上の器用な指はゲームをする猫ちゃんの視界や手付きを邪魔しているわけではないし。ただ、なんか指を口の中に突っ込んでいるような気がするけど。気のせいだと思う。
「俺としたことが、いけねェ。付けすぎちまった」
さらに、余分なモンは取らなきゃなァ?とワザとらしいセリフが聞こえたかと思うと、ゴトリと何か硬いものが床に落ちる音がした。
「──ン────ッ!」
次いで、猫ちゃんのくぐもった声も。ああもう終わりです。三乙する前にこのクエストはドフラミンゴの乱入により終了。あとは俺一人でなんとか…できるといいけど。
今度は猫ちゃんの顎をしっかり掴んだ兄上が、唇を合わせながら、ほとんど噛み付くようにキスをしている。シュガースクラブだかなんだか知らないけど、絶対この使い方は間違ってる。
対して猫ちゃんは、Switchを取り落とした手をドフィの首に添えて、あふあふと呼吸をしていた。別に抵抗する気はないらしい。その証拠に、いつの間にかお互いほとんど向き合って座っている。
ぺろ、と唇の表面を舐めて顔を離したドフィは、打って変わってご機嫌の表情だ。一瞬でへろへろになった猫ちゃんを抱っこし直して、ニヤニヤと笑っている。すけべオヤジめ。
「…おいロシー、今ろくでもねェこと考えなかったか?」
「…別に?」
フフ、とまた怪しい笑みを浮かべられる前に、大人しくしておく。報復を食らった猫ちゃんは、はあ、と息を吐きながら、自分のあまぁい唇を舐めて言った。
「…これ、いまじゃないとダメだった?」
「あァ、ダメだな」
…コドモか?すけべオヤジじゃなくてコドモか?
ゲームを無理矢理中断させられた猫ちゃんはともかく、どうしてちょっと兄上が拗ねているのか。その答えを探すために俺はアマゾンの奥地へと向かったのだった。正確に言えばさっさと自分の部屋へ退散したのだった。俺ってオトナだなあ。え?違う?