朝焼けの話あかく染まる秋空へ、めいっぱい若葉の手を伸ばす子たちの声がする。ぶらんこが揺れる音がする。葉が落ちるまえのさいごの木々が、ざわめく音がする。
「今日、アイツは帰ってこねェぞ」
「ウン」
ローは夕方になっても窓辺で空を見つめている猫の、秋風でもつれた髪を撫でた。昨日からぐっと寒くなったというのに窓を開け放っているから、頬が冷たい。にも関わらずメロンソーダにバニラアイスを浮かべる天邪鬼に、ホットのカフェモカを淹れてやったのだ。
ドフラミンゴは朝早く家を出て行った。今日は忙しいんだ、とかそんな免罪符を口にして。
“家族”の誕生日はどこまでも豪勢に祝うくせに、自分の当日は家の中からすっかり消えてしまうのは昔からだ。
それを知らないこの居候は、誰もいないベッドで目を覚まし、そのくせ「どうして?」などとも言わず、どこへも行かずにリビングでおとなしくしている。
ローに言わせれば、こんな関係はいつか破綻する。人間の女をひとり囲って、傍に置いておいて、永遠にこのままだなんてあり得ない。いつか終わりが来る。それは予感ではなく確信であった。それを、あのドフラミンゴが解っていないはずがない。
「窓閉めろ。寒いだろ」
「ウン」
「…閉める気がねェならもっと厚着しろ」
風邪引くぞ、と頬を撫でるタトゥーだらけの指も冷たい。
猫は夜に染まりゆく空を見つめながら、やはり「ウン」とだけ答える。一見従順ないきものだが、結局のところ、ドフラミンゴの言うことしか聞かないのだ。
「帰ってくるまでここにいる気じゃねェだろうな」
「ウン」
適当に返事をしているわけではないとわかるから、ローは頭を痛めた。ふざけやがって、なんで俺がこいつらに振り回されなきゃならねェ。
舌打ちのあと、長い指をひらいた大きな手のひらが猫の頭を包み込んだ。ぬくもりが背中に当たる。カフェモカよりすこしだけあつい体温。香水のかおり。
「ローくん…?」
猫を後ろから抱き込んで、ローはつむじに唇を寄せた。甘いぬくみに、胸の奥がじんとする。これが何か、アイツは知っているんだ。
「なら窓は閉めろ。良い子だから」
「……うん」
どこかで聞いた物言いに、つまり滅多に聞くことのできない懇願の声に、猫は静かに返事をした。
腕の中に閉じ込められたまま、目の前の窓が閉められる。夕焼けを閉め出して、あたたかいリビングへ連れ戻される。外はまだすこし明るいのに。
『頼むから、心配かけるんじゃねェ』
喉の奥から出かけた言葉を飲み込んだ男は、腕の中に閉じ込められてもなお、心ここに在らずの生き物を抱き締めて、そっと瞳を閉じた。
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くたくたになったスーツとネクタイと、しんなりした襟足で帰宅した男は、さすがにらんちき騒ぎが過ぎたなと自嘲した。喉が枯れていないだけ及第点だ。明日は──いやもう今日だが、バースデー休暇という名の有給を取らされた。いや、おまえたちがオールで騒がなければ出社できたんだが。
暗い廊下を抜け、暗いリビングのドアを開ける。キッチンは冷蔵庫の音だけがしていたが、リビングはエアコンが動いているらしい。
またロシナンテあたりが消し忘れたか?とリモコンを探そうとすると、ソファの上にちんまりとブランケットのふくらみがある。
「…オイオイ」
まさかな、と息を呑むも、ウサギ柄のそれをそっと引き剥がすと、予想が当たる。
さなぎのように羽化を待つ、美しいいきもの。
ひとりきりのベッドが嫌いなのを知りながら、今朝は置き去りにしてしまった。
「…おまえには、悪いことをした」
ソファでもぐっすり、仔猫のように眠れる平和ないきもの。起こすのはかわいそうだと、わかっていても、早くその瞳を開いてほしくて、その声で呼んでほしくて、男はまるい額を撫でて髪を梳く。
暖かな体温。昼間の熱を残してかがやく星。ずっと待っていたかのように、すぐにふわりとひらく瞼。
ドフラミンゴは、待ちきれずに額へキスをした。
「…いま帰った」
茶色い瞳は2回瞬きを。すぐにきらめいて、愛しい者を映してひかる。
「ドフィさん、お誕生日おめでとう」
「…ああ」
おかえり、のかわりの言葉がくすぐったい。ずっと自分を待っていたことがわかるからだ。本当に、悪いことをしちまった。
猫が腕を伸ばしてくるまえに、ブランケットごとソファからすくいあげる。酒とタバコと香水の混じった身体で抱き締める。待ち侘びていたのは、男も同じであった。
猫は主人のにおいに安心して微笑んだが、すん、と首を伸ばすとカーテンの向こうを指さした。
「あ、窓」
「窓?」
隙間から光が漏れていた。ちかちかと星屑のようにひかるそれに目を細めながら、ドフラミンゴはそっとカーテンを開けた。
結露のむこう、しろく冷える街並みを包むように、朝がやってきていた。
「ドフィさんは朝焼けのいろ」
腕の中で猫が囁いて、しろい指をそっとサングラスへ伸ばした。
クリアになった視界に、朝のいろは眩しい。ドフラミンゴは目をいっそう細めながら、濡れ硝子を指先でなぞった。水滴にきらきらと反射して、透明なオレンジが散らばった。
「だから、ずっと見ていたいと思うの」
虹彩が朝のひかりを映して輝くのを、男は今まででいちばん近くで見つめていた。瞬きのたびに、茶色いまつ毛がきらきらと影をくすぐる。
それは、ちいさくも美しい世界であった。
「…それは俺の台詞だ」
『頼むから、どこにも行かないでくれ』
喉の奥から出かけた言葉を飲み込んだ男は、腕の中に閉じ込められたまま熱を抱く生き物を抱き締めて、そっと瞳を閉じた。
──いちばん最初にあなたの瞳に刻まれたこの世界のいろは、朝焼けの色だとおもう。
しろい百合のつぼみがひらくように、あおい湖面がゆらぐように、夜を乗り越えた柔らかなひとが、ああ、と涙を流して。あなたは美しい世界をしったのだろう。
それは、10月の静かな朝のことであった。