茶碗蒸しの話二日酔いも筋肉痛も、コントロールする気になればどうとでもなると思って生きてきた男は、最後の最後で根性論に縋り付く癖があった。それは普段の彼を見ている者からは想像が付かないのだが、結局体調は気の持ちようと自己管理だけでコントロールしてしまえばいいと、ドフラミンゴは常々そう思っている。
きっかけはほんの少しの違和感。しかしその違和感に気づかぬほど、この男は愚かではない。誰もいなくなってからオフィスでこっそり体温を測り、ピルケースからビタミン剤をざらざらと手のひらに開ける。
誰にも気づかれないのは、誰にも気づかれたくないからだ。ドフラミンゴはいつものように適度な残業をしてからオフィスを出、愛車のハンドルを自ら握って帰宅した。リビングのソファには、退屈そうな猫だけがちんまり座っていた。
「…ローは研修、ロシーは夜勤か」
おかえりと言ってじゃれついてくる猫を珍しく遠ざけた主人は、いつものように手洗いうがい、手指消毒を済ませ、冷凍庫のデリ・ストックを電子レンジにぶち込んだ。
オレンジの光に照らされたチキンがトマトの匂いを放ち始めるが、全く食欲はない。どうせロクなものを食べていないであろう猫のためにレンチンしてはいるが、自分は二口くらいで止めよう。あとはゼリー飲料とビタミン剤をぶち込んで寝よう。
麦茶を汲んできた猫の頭を撫でる。
「変わりないか?」
「かわりない!」
元気な返事が返ってくるので、ならいいと主人は頷く。不精な猫に加湿器の水はきちんと補充しろと教えているのだ。
チキンの四分の三を向こうの皿に取り分けて、ドフラミンゴは麦茶を飲み干した。喉が粘ついているのに渇いている。鼻の奥がツンとし始めているので、寝るときは濡れマスクだな、などと考えている間に、猫がチルドの白米を茶碗によそって持ってきた。
「今日はいらねェ」
「…そ?」
白飯と自分の顔を交互に見つめてくるのがおかしい。しかし、髪をぐしゃぐしゃに撫でても顔が笑わない。
じぃ、と茶色い瞳に見つめられて、ドフラミンゴは口をへの字にした。
「…どうした」
絞り出した声は、自分しか分からないほど微かに掠れていた。しかし、その揺らぎを目敏く聴きつけた猫の耳がぴくりと動く。
若葉の手がそっと伸ばされるのを、振り払わずに、ぼうと見つめていると、額へ当てられた。ひんやりした手のひらとの温度差が、今日は大きい。
猫の瞳が小さくなる。ちまい眉毛がにゅっと寄って、鼻先に顔を近づけてきた。スンスンとにおいを嗅ぐ仕草をして、む、と唸る。
「ドフィさん、かぜのにおいがする」
きっかけはほんの少しの違和感。しかしそれは本来、誰にも気づかれないものであった。誰にも気づかれたくないから、いつもビタミン剤と共に飲み込んでいたのに。
──こんなちっぽけな生き物が、俺のなにを知っているというのか。
ドフラミンゴはついに口をへの字にしたが、見破られてはもう無駄と、溜め息を吐いた。
「…まぁそんなところだ。今日はもう寝るか」
「ごはん食べてお薬飲んで。お仕事はあしたおやすみ」
「仕事は休まねェよ」
「む」
あ、これは梃子でも動かぬときの顔だな、とドフラミンゴは察した。
「スマホかして」
「…何で」
「ヴェルゴさんにLINEする」
今度は手のひらを突き出される。
どう考えてもここで、真面目が服を着ているような我が相棒に連絡されては、瞬く間に全社に「ドフィが体調不良」「原因はオフィス環境不全か」「今すぐ全社消毒を」「ついでにロシナンテ、おまえはクビだ」などと御触れが出るだろう。少し落ち着いて欲しい。
ドフラミンゴは観念した。わかった、と言ってスマホを取り出す。無論、猫には手渡さず、秘書のモネへ「定時後にすまない」と一報。
「これでいいか」
メッセージ画面を見せると、小さな暴君は満足気に頷いた。すぐさまリビングのソファへ駆け寄り、取ってきたブランケットを膝にかけてくる。ついでにコップは下げられて、キッチンでマグカップに入れた何かをレンチンし始めた。
「大袈裟だな。ガキの風邪じゃあるまいし」
珍しく素早く動く猫だぬきに主人は苦笑したが、本人は大真面目な顔をして言った。
「ドフィさんのそういうとこ、だめ」
め、ともう一度強めに釘を刺された大男は、ついに吹き出した。なんだよ、ローより怖ェ顔しやがって。
まあ、今日明日くらいは猫に世話を焼かれてやってもいいか、と溜め息を吐いた男は、即席茶碗蒸しの入ったマグカップを見下ろして、口元を緩めるのだった。