朔夜と新入り屋敷内で声が響く。
「だ、誰ですか……。さしみちゃん……さしみちゃんはどこですか!」
彼は震えながらそう言った。その姿から感じられるのは恐怖と怒りの感情。
俺はそんなつもりじゃ無かったんだ。てっきり喜んでこちらに歩み寄って来ると、そう思い込んでいた。
「……。」
言葉が出なかった。正しいと信じてやって来たことが全て間違っていた。彼は、自分の知る彼じゃ無かった。人違いだったらどれだけ良かったか。
震える彼を置いて逃げた。屋敷の外は陰陰として、今にも雨が降り出しそうだった。
眷属の朝は早い。
巳巳の眷属はくちなわ、さしみと最近眷属になったばかりの新入りで現在三人だ。
その中で朝食の支度をするのは大抵新入りだった。
今日も変わらず彼は台所で朝食を作っている。
新入りはふと時計を見る。
「もうすぐかな……?」
そう言うとすぐに、階段から足音がした。降りて来たのはくちなわで、新入りを見ると声をかける。
「……ん、おはよう。」
「おはようございます。朝食もうすぐですから、二人も起こしてあげてください。」
分かった、と言うようにくちなわはこくりと頷くと、巳巳とさしみを起こしに向かった。
朝食の後は掃除、洗濯、買い出し、さしみのお散歩等……新入りには沢山の仕事がある。
毎日忙しいけれど、それなりに楽しく暮らしていた。
「今日は先に買い出しして来ようかな。野菜とお肉と……あ、お札用の墨も切れてたんだっけ。」
そう呟いているうちに巳巳とさしみも目を覚まし、階段を降りて来る。
「あ、お皿出さなきゃ。」
そう言って新入りは急いで食器棚へ向かった。
働き者の新入りだが、実はまだ眷属としての正式な契約はしていない。
書類等で行われる表面上の契約は交わした。しかし、正式に神霊の眷属になるには儀式が必要だ。
新入りはまだそれを行ってないどころか、巳巳から儀式に関する話をされていない。
何故巳巳が話さないのか。名前通り新入りなのも理由の一つだが、もう一つ重大な理由がある。
それは、彼には記憶が無いからだ。
巳巳は、記憶を失い怪我だらけで倒れていた新入りを気まぐれで拾って来たのだ。
記憶が戻った際に敵に回る可能性だってある。
それを踏まえて巳巳は儀式について伝える気も無かった。
彼は知らない。無くした記憶も、信頼されていないことも。
化け猫は朝が苦手だ。
朔夜の朝は遅い。昼前になってようやく目が覚める。普段はそうだ。
しかし、今日は違う。
納涼祭の時に海で見かけた彼、暁を連れ戻す為に今日この日を待っていた。
暁と出会ったのは六年前。
森でひとりぼっちの彼を朔夜は拾った。
怪我だらけで泣いていて、過去の自分を想起させるその姿はどうしても放って置けなかった。
話を聞いてみると彼は家出して来たようで、朔夜が少しでも離れようとするとしがみつき、小さな声で
「おいてかないで。」
と懇願する。
この子は自分が面倒を見るしかない。
朔夜はそう決心して、
「今日からここがお前の家。俺はお前の家族だ。」
と言った。それを聞いて彼は涙を流しながらこくりと頷いた。
それからはずっと一緒だった。
最初はお互いあまり喋ることも無かったが、徐々に会話が増えていき、初めて暁が笑った日は忘れられない。大切な思い出だ。
共に暮らすようになってしばらく経った頃、暁が
「僕も連合に入りたい。」
と言った。
朔夜は動揺した。連合での任務は危険が伴う。本当は入って欲しく無かった。しかし、暁が一度やると言ったら聞かないことももう分かっていた。
絶対に自分が守る。朔夜は心に決めて、暁を楽園連合に加入させた。
だというのに。
暁のことを守れなかった。
ある任務で、情報伝達の為暁は空を飛んで移動していた。
そこを狙われた。
空中で狙撃された暁は力無く落ちていく。
ただそれを見ていることしかできなかった。
直後、連合では撤退指示が出され、朔夜は仲間に抑えられ追いかけることができなかった。
それから朔夜は暁のことをずっと探していた。
「まさか管理人に拾われてるとは思いもしなかったけどな……。」
遠い目をして呟いた。
管理人との接触は、楽園連合に所属する朔夜にとって大きなリスクだ。
しかし、だからと言って暁のことを諦められるはずが無い。
その為時間をかけて屋敷や眷属達を観察し、計画を練って来た。
今日が計画の実行日。
朔夜は家を出ると、明酔町に向かって歩き出した。
明酔町の商業区。ここはいつでも賑わっていて、大抵のものは商業区に行けば揃う。
新入りは買い出しの時よくここに来る。
今日はさしみも一緒に行きたいと言うので、逸れないよう手を繋いでやって来た。
新入りはさしみと目を合わせる。
「いいですか、さしみちゃん。ここは人が多いので、手をしっかり繋いでいてくださいね。」
「うん!」
さしみは元気に返事をすると、新入りの手をぎゅっと握って歩いた。
しばらく買い物を続けていると、徐々に人が増えて来た。どうやら今日はイベントがあるらしく、商業区の中心に向かって次々と人が集まっているようだ。
「困りましたね……。お札用の墨はあっちの方なのに……。」
ふとさしみに視線を向ける。沢山歩いたからか、少し疲れた顔をしていた。
しかし、さしみのことをこんな場所で一人にさせるわけにもいかない。
「……さしみちゃん、もう少しだけ、歩けますか?」
さしみは眠たそうにゆっくり頷く。
本当ならおんぶしてあげたい所だが、買い物の荷物で手が塞がってしまっている。
急いで済ませよう、と新入りは少し早歩きで人混みへと向かった。
眷属のさしみが眠たそうに暁の後ろをついて行く。人が多く、声もあまり届かない。
今がチャンスだ。
暁が支払いの為にさしみの手を離したその一瞬。朔夜はさしみを攫うことに成功した。
さしみは朔夜に気がつくとぱぁっと顔を明るくして、
「あれ?ねこさんのお兄ちゃん!」
と言った。今にも遊んで欲しそうな純粋な視線が少し痛い。しかし朔夜はこれも想定内だった。
人混みを離れ、近くの公園へと向かった。ここは野良猫が多い。子供の相手は慣れているだろう。
「ほら、猫さんいっぱいだよ。遊んでおいで。」
そう言ってさしみの背中をぽんと押した。しかしさしみはすぐに振り向く。
「ねこさんのお兄ちゃんは遊ばないの?……あれ?」
さしみが振り向いた先には誰もいなかった。
不思議に思っていると、足元に野良猫が寄って来て遊ぼうとばかりに前足でさしみのことをつつく。
「ねこさんあそぶー?」
そう言ってさしみは公園で遊び始めた。
さしみを公園に連れて行った後、朔夜は暁の元へ向かっていた。
商業区の手前の物陰で変化を始める。化けたのはさしみの姿。これで途中針金屋家の者に会っても怪しまれないだろう。
商業区に入ると、さしみのことを探す暁の声が聞こえた。
子供の姿というのは何て不便なんだろうか。視点が低く人も多い為、声だけを頼りに向かうことしかできない。
しばらく探していると、暁の靴が見えた。何とか人をかき分けて暁の足にしがみつく。
「わっ、こんな所にいたんですね!すみません、僕が目を離したばかりに……。さ、帰りましょうか。」
暁は朔夜の変化に気がついていない。手を引いて商業区を離れようと歩き始めた。
しかし、暁を連れ戻すにはこの人混みこそ必要だった。早く伝えなければ。
「暁、俺だ。迎えに来た。早く帰ろう。」
「……?またテレビの真似っこですか?」
ふふ、と微笑まれた。
まずい、気づいていない。人混みのせいで声が掻き消されているのかもしれない。
気づいてもらわなくては。咄嗟に変化を解こうとした瞬間。
「あれ?新入りさんですか?こんにちは!」
「彩陽さん?こんにちは!彩陽さんも買い物に?」
……よりにもよって知り合い、しかも人間と鉢合わせてしまった。これでは変化が解けない。
しばらく二人の会話が落ち着くまで待っていると、人間がこう言った。
「あれ?今日さしみちゃん元気が無いですね……?いつもなら飛びついて来るのに。」
「実はそうなんです。ちょっと疲れちゃったみたいで。」
「そうなの……。にしても新入りさん、お荷物多いですね?良ければお屋敷まで一緒に行きましょうか?」
「いいんですか!すみません……荷物もさしみちゃんもとなると大変で。さしみちゃんのことお願いしてもいいですか?」
まずい。このままでは人間と手を繋いで屋敷まで帰ることになってしまう……。
朔夜はどうにかならないかと思考を巡らせるもどうにもならず、暁と人間と共に屋敷まで帰ることになってしまった。
「彩陽さん、ありがとうございました!」
「いえいえ、気にしないで。巳巳ちゃんにもよろしくね!」
そう言うと人間は帰って行った。予定外のハプニングはあったが、幸い屋敷には誰もいないようだ。
これならまだチャンスはある。
暁に連れられて屋敷の中へ入る。ここならちゃんと聞こえるだろう。
「暁、俺だ。朔夜だ。迎えに来た……あの時は守れなくてごめん。……一緒に帰ろう。」
今度こそちゃんと伝わった。彼はどんな反応をするだろうか。
しばらくすると暁は困ったような顔で朔夜の……いや、さしみの頭を撫でた。
「もう、テレビの真似はいいですって。疲れてるでしょうし早く休みましょう?」
何故だ。何故気づかない。
朔夜は混乱した。頭が真っ白になる。
その時ふと思い出した。
納涼祭の時に見た、暁の幸せそうな笑顔。まさか、まさかとは思うが、帰る気が無いのか。
動揺した朔夜の変化はみるみるうちに解かれていく。
「……え。」
目の前でさしみが、みるみるうちに大きな化け猫へと変わった。
声が漏れる。
「…………だ、誰ですか。貴方。さしみちゃんは……さしみちゃんはどこへやったんですか!!」
新入りから出たのは本気の怒りだった。手は震えており、今にも泣き出しそうな震え声で。
化け猫は動揺して一歩下がった。
「なぁ……。本気で分からないのか、暁。それとも俺の所にはもう帰りたく無いのか。それだけでもいい。聞かせてくれよ。」
「僕はさしみちゃんの居場所を聞いているんです。帰りたく無いって何の話ですか。僕の家はここです!」
朔夜はその言葉を聞いた瞬間、目の前が真っ暗になった。暁は本気でそう言っている。それが痛いほど分かった。
言葉が出ない。暁は、自分の知る暁では無くなってしまっていた。朔夜と過ごした日々を覚えていない。
「…………っ!」
「……!?ま、待ってください!」
朔夜は屋敷から逃げ出した。新入りは必死に追いかけるが、屋敷を出ようとすると巳巳、くちなわ、さしみと鉢合わせる。
「あれ、新入りくんどうしたの?そんなに急いで。」
「いま、今、化け猫がそっちに……!」
周囲を見渡す。巳巳達以外に人はいない。
すると、庭の低木から音がした。ばっと視線を移すと、一瞬猫の尻尾が見えたがすぐに暗闇へと消えて行った。
「……何があったか分からんが、とりあえず落ち着いてくれ、新入り。詳しく話を聞こう。」
くちなわがそう言い、巳巳達と新入りは屋敷へと入った。
落ち着いて話をしてみると、さしみは公園で遊んでいた所を屋敷に帰る途中の巳巳とくちなわが見つけて一緒に帰って来たようだった。
その後の状況を伝えると、くちなわは顔を顰めた。さしみは真剣に話し合う三人を退屈そうに眺めている。
巳巳はと言うと、俯いて話を聞いていたかと思えば急に顔を上げてこう言った。
「まぁみんな無事だったしいいじゃん。さしみちゃんの状況を見るに敵意があった様には思えないしね。それよりも夕飯にしよ〜う!今日は美味しいものいっぱい買って来たからね!」
「あ、おい巳巳!もう少し真剣に考えるべきじゃないか!?無事だったとはいえ危険だぞ!もう少し対策とか」
「いいのいいの〜、せっかくの唐揚げ冷めちゃうよ。」
「こいつ……!」
能天気な巳巳に腹を立てるくちなわは二人して台所に向かって行った。さしみもついて行こうと立ち上がるが、ふと何かを思い出すように新入りのことを見て
「ねこさんのお兄ちゃん、あえるといいね!」
と言って廊下へ出て行った。
新入りは考える。
「あの化け猫、僕のこと暁、って呼んでた……。記憶を失った直後に持ってたあのお守りにもその名前が刻まれてた。」
記憶を失う前の知り合い……いや、大切な人だったんだろう。
管理人組合の者に手を出すのは御法度。そんなことは誰もが知ってる。それでも危険を顧みずここまで迎えに来るだなんて。
よっぽど僕のことが大切だったんだ。それに……。
屋敷を出る直前、涙を流してた。
その姿がどうも忘れられない。
あの大きな体に鋭い爪、それに目つき。僕のことなんか殺そうと思えばすぐ殺せちゃいそうなおっかない化け猫が、僕の為に泣いてた。
僕のせいで傷ついてた。
「…………。」
今の生活は捨てられない、捨てたくない。
でも、だからと言って彼のことを見て見ぬふりするのはあまりにも残酷じゃないだろうか。
新入りは迷った。迷いに迷って数日後、出した答えを巳巳に伝えた。
「巳巳さん、僕やっぱりこの前の化け猫の彼、探したいです。……危険な存在なのは分かっているし、記憶が戻ったら僕はここにいられるか分かりませんが……。お願いします。探させてください。 」
深々と頭を下げる。が、巳巳は相変わらず能天気な声で答えた。
「いいよ!巳巳も気になるし!探して来なよ。それにさ、記憶を失う前の新入りくんがどんな人でも、今の新入りくんを知ってるから。新入りくんが出て行くねって言うなら巳巳は止めないし、やっぱりここにいるって言ってくれるなら歓迎するよ。」
と言って巳巳は新入りの頭をぽんぽんと叩いた。
化け猫の彼のことを探し始めて数週間、未だに手がかりは一切掴めてない。でも、さしみちゃんは彼について何か知っているみたいで、よくお散歩の時に
「ねこさんのお兄ちゃん出ておいで」
と探してくれている。
いつ見つかるか目処なんてまだ全然無いけれど、また会えることを信じて、新入りは朔夜のことを探し続けた。
「どうか泣かないで。今見つけに行くよ。」
─楽園連合。
人間を恨む者達の集まり。その中の幹部がしばらく顔を出していないと噂になっていた。
「幹部様が死んだって噂知ってるか……?」
「えっ、あの幹部様が!?俺、前に海開きの話をしたのに……。」
「何週間も前から顔を出してないんだと。流石にもうダメなんじゃないか?」
「そ、そんなぁ……。優しくて良い方だったのに……もう会えないのか。」
そう落ち込む単眼の彼の肩を後ろからぽんと叩く。
「勝手に殺すのは辞めてくれよ。」
そう言って現れたのは朔夜だった。
「えっ、わっ!幹部様!」
「久しぶりだね。海は楽しめたかい?」
「あ、はい!それはもう……!めちゃくちゃ満喫して来ましたよ!」
「……ふふ、それは何より。」
朔夜は楽園連合に復帰した。
それ以降、新入りや針金屋家に関わるのは一切辞めた。
これは朔夜なりの思いやりだった。
幸せそうに暮らす暁は、もう『暁』ではなく『針金屋家の新入り』だった。
無理に彼をこちら側に連れて来るだなんて、朔夜にはできなかった。
朔夜はこれまで通り、連合に通い任務をこなす毎日を過ごし始めた。
「どうか探さないで。君は幸せでいてね。」