胎児の夢 3食べる気が起きない。手の中でおにぎりを弄り回しながら、チコーニャは隣にいる義兄から目を逸らしていた。先ほど声をかけられて、食事を取ったかどうか聞かれたのに対して食べていない、と答えたのを少し後悔している。嘘を吐けばよかった、とチコーニャは出かけたため息を飲み込んだ。
居心地が悪いのは自分だけの話ではないだろうに、一向にカノープスが立ち去らない。まさかこれを食べるまで見ているつもりだろうかと考えて、チコーニャは気が重くなるのを感じた。
「提案があるんだ、チコーニャ」
ふと隣から聞こえた声に、チコーニャはカノープスを見上げる。彼はどこか決意を固めたような顔でこちらを見ていた。何の話だろうとチコーニャは続きを待つ。暫くして、カノープスが一つ大きく息を吸いこんだ。
「……プロキオンの魂を、切り離そう」
「……」
「そうしたら……少しは楽になるかもしれな」
「嫌です」
その返答を予想していなかったのかはたまた別の理由か、カノープスは僅かに目を見開くと動揺したように目を泳がせる。
「……何故?」
「……聞かないでください……」
チコーニャは胃の内容物を全て吐いてしまいたい気分になった。とはいえ昨日今日と何も食べていないので、出てくるのは胃液くらいなものだろうが。カノープスはその言葉に何かを言おうとして、結局言葉が見つからなかったのかただ静かに頷いた。
自分がひどく醜い生き物であることを自覚させられたような気がして、チコーニャは喉に込み上げてくる汚泥を飲み下そうとおにぎりに齧りつく。ねんどを食べているような感覚に思わず吐きそうになるが、どうにかそれを飲み下した。
**
頭がぐらぐらする。ずる、ずる、と足を引きずりながら、チコーニャは人気のない路地裏を進んだ。逃げるようにカノープスと別れ、ぐちゃぐちゃの胸中のままめちゃくちゃに道を歩いているので、自分が今どこにいるのかわからない。辺りはすっかり暗くなっていた。方向感覚も狂ってしまっているので、表通りに戻るのも一苦労だろう。
「……はは」
……どこにいたってもう関係ない。どこに行こうが自分が醜い罪人であることに変わりは無いのだから。チコーニャは乾いた笑いを浮かべる。ふらふらと道を進み、気づけば見知らぬ通りに出ていた。蛍光色の看板が煌々と光りながら立ち並んでいる。
頭の隅でここに一人でいるのは良くない、と、引き返すことを勧めてくる冷静な自分がいたが、チコーニャはただぼんやりとその場に立ち尽くしていた。
「きみ、大丈夫?」
誰だろう、とチコーニャは首を傾げる。見知らぬ男が声をかけてきた。
「酷い顔色だ、悪いお酒でも呷ったかな」
ニコニコ、優しげに笑っているその男は、しかしどうにも別の目的があってチコーニャに話しかけているようだった。チコーニャにはそれが何か皆目検討がつかない。ついたところで、この国に奉仕すべき身の上である、と自分のことを称し自棄になっている彼女は逃げることもなかったのだろうが。
「丁度いい場所を知っているんだ、一緒に行こう」
目的が掴めないながら、男が一度舐めるように自分の身体を見たので、もしかして自分はまた内臓を抜かれたり身体をもがれたりするのだろうかとぼんやり思う。それは流石にシリウスに許可を貰わないと、とこれまたぼんやり思って、手を引く男に逆らってそこにとどまった。
「……どうしたんだい?心配しなくてもすぐそこだよ、動けないなら支えてやろうか」
男の声に少しの苛立ちが混ざる。チコーニャは困ったな、と首を傾げた。それでもぐいぐい腕を引っ張られるので、よろけて一歩踏み出す。そのまま引きずられて行こうとしたとき、横から赤い手枷をした腕が伸びてきた。
「失礼、僕の連れがお世話になりました」
聞き覚えのある女性の声に、小さく「ユダ姉」と呟いたきり、チコーニャはふっと意識を失う。彼女の身体が崩れ落ちそうになるのを、ユーダリルは片手で支えた。
「……ご覧の通りですので、僕達は失礼致しますね」
にこやかに、しかし有無を言わせぬ態度でそういう彼女に、男は怯んで手を離す。ご理解頂けて何よりです、と彼女は笑ってチコーニャを抱え上げると、さっさとその場を後にした。
**
チコーニャをベッドに寝かせ、ユーダリルはその端に腰掛ける。死んだように眠る彼女の目元には、ひどい隈ができていた。何日まともに寝ていないのだろう。ユーダリルは苦しげに目元を歪める。
彼女はかつての少女を心底可愛がっていた。友人であり、自分の庇護すべき対象として、確かに可愛がっていたのだ。
それがああして自分の狩るべき対象と化した日を、ユーダリルは苦く思う。実際のところあの惨状を引き起こしたのは少女の弱さだ。だがしかし、ユーダリルには彼女を責めてやることがどうにもできなかった。きっとそうしてやれば幾分か彼女が楽になることをわかっていて、けれどできない。人に戻り苦しむ彼女に、何もしてやれないのがユーダリルはひどく苦しかった。
ユーダリルはチコーニャの頭を撫でる。今の彼女に自分がしてやれることは、一体なんだろう。ユーダリルはずっとそのことで悩んでいた。こうして後戻りできない方向に行こうとするのを引き戻すくらいしか、今のところ彼女には思いつかないでいる。どんな夢を見ているのやら少女が苦しげに吐息を零したので、ユーダリルはただ彼女が幸せな夢を見れるよう祈りながらその頭を撫でてやるのだった。
**
青々とした葉の間から、色とりどりの花々が顔を出して咲き乱れている。オラクル少年は椅子に座っていた。目の前で最近ずっと面倒を見てくれていたリリーという名の彼女が紅茶を飲んでいる。
「……リリーお姉さん」
「何かしら?……さっきからあまり手をつけてないわね、お腹が空いていないの?」
彼が言いたいことを、彼女は理解している。理解していて、誤魔化そうとしていた。それが自分に対する気遣いであることを、少年は理解している。
けれどそれに甘えていていい時期はもう過ぎていることもまた、理解していた。
「僕、大切なことを忘れている気がするんだ。」
「……」
赤い瞳がじいっとオラクルを見る。悲しげに、困ったように、彼女はふうと一つため息を吐くと手に持ったままのカトラリーを机に置いた。
「……思い出せないことなら、思い出さなくてもいいんじゃない?」
「……それでも、思い出さなくちゃ」
「思い出さない方が、このままあなたの兄妹の迎えが来るまで待っていた方が、ずっと幸せだとしても?」
リリーの赤い瞳と、オラクルの金の瞳が互いを見つめる。彼の視線が揺らがず、もう心が決まっているのを感じて、リリーは心底悲しげな顔をした。
「おまえは……もう十分頑張ったのよ。もういいじゃない、おまえが穏やかに眠りについたって、誰も文句なんか言わないわ。全部知ったところで、外に出たところでつらいことしかないのよ」
オラクルは静かに笑う。目の前の優しい白百合は、心の底から自分を心配してそう言っていた。きっと、本当に失った記憶の中にはつらいことが沢山あるんだろうと、オラクルは思う。思い出さない方が確かに幸せなのだろうとも思った。
でも、それではだめだから、だから。
「お日様みたいにあったかい女の子がいたんだ。」
オラクルはそう言った。リリーはただ黙って続きを聞く。
「大好きな妹にそっくりな愛しい子。……僕のせいで酷く傷つけてしまった。今もその子は、笑いながら哭いてる。だから行かなくちゃ」
リリーは物言いたげに口を開き、閉じて、それから心底困ったように、肩をすくめる。
「……本当、私はいつも弟離れが下手ね。」
そして、そう言って悲しそうに、しかしどこか嬉しそうに笑った。
「なら、返してあげるわ。おまえが経験したこと全部、今外で何が起きてるかもついでにね。私、アイツのことは嫌いだけど、プロキオン。他でもないきみが望むなら仕方ない。今回はあの子にとって喜ばしいことをしてあげる」
リリーはオラクルの頬に手を伸ばし、一度だけ優しく撫でる。そして、そのままその瞳を手のひらで覆った。
**
この庭園は、ひどく優しい夢だった。ひどく暖かい嘘だった。……また会えるものだと思っていた。
**
全てを思い出して彼女の手を涙で濡らし、しかし彼は彼女の思っていたよりもしっかりと、兄妹たちとの二度目のお別れを受け入れる。
そこにいたのは何も覚えていないオラクルではなく、あの日あの場所でチコーニャの手を引いた、プロキオンという一人の青年だった。
「……いや、ほんまお世話になりましたわ」
「記憶で大体知ってたけど、やっぱり面白いわね、その口調」
「ははは」
「……そうね、餞別に花をあげる。選びながら行きましょう」
二人は少しの間笑い合い、そして席を立つ。惜しむように庭園を歩きながら、二人は数輪花を摘んでいく。そうしてそれをリリーがどこからか取り出したリボンで束ね、肩を竦めた。
「居心地には自信があったのに、残念だわ」
「……居心地は良かったよ。」
「あらそう?それなら良かった。」
ゆっくり、庭園の出口が近づいてくる。思えば、彼女は大概のことを許してくれていたが、出口に近づくことだけは許可してくれなかったなと、プロキオンは苦笑いを浮かべた。
「そうだ、向こうには私の粗悪なコピーがいるからよろしくね」
「なんやそれ」
「どっかの誰かから見た私の姿らしいのよ、失礼しちゃうわよね」
出口の前で、二人は一度立ち止まる。開かれた門の先は真っ暗で、ただ道を形作るように白い百合が仄かな光を発しながら咲き乱れていた。赤い瞳が、今度はいつもの様にオラクルを見ている。その手がいつものように伸ばされたので、プロキオンは少しだけ身を屈めた。その手が数度優しく彼の髪を撫でる。
「……おまえの最期が悲しいものでないことを、私はずっと祈っているわ。」
赤い瞳が優しく細められた。この庭園でずっと少年を守っていた優しい手がゆっくり彼の頭から離れる。そして、片手に抱えたままの花束を、彼の腕に抱かせた。
「さあ、もうおまえはここから出られる。私ももう止めない。……振り向かず、先へ行きなさい。」
「……ありがとう、リリーお姉さん」
リリーはただ微笑んでみせる。プロキオンは目を細め、彼女に背を向けた。門の外へ出る。白い百合の花の道を進む、やがて光が見えた。更に進み光に足を踏み入れる。視界が真っ白になって、ふっと意識が途切れた。
**
「本当に、私あんたのこと嫌いだわ。娘の為なら人間一人犠牲になっても気にしないってわけ?」
「……」
「止めるわけないでしょう、あの子がそれを自らの意思で選んだのだから。……これってまるで失楽園ね?本当に嫌になるわ。」
「……」
「……せめて、あの子が納得のいく終わりを迎えられるといいのだけど」
「……」
「……もう私にしてあげられることは何も無いわ。どうか幸せに、私の可愛い義弟。」
**
チコーニャは椅子に腰かけていた。かち、こち、かち、こち、時計の音が部屋に響く。白百合の笑い声を聴きながら、ぼんやりと部屋を眺めていた。
「何もしないでぼんやり出来るなんていいご身分ね?ふふふっ」
「……」
「ただ時間を浪費するなんて、恥ずかしくないのかしら」
「……」
「おまえは、……」
白百合の声が不自然に途切れる。ぱちり、と瞬きをして、確か白百合が立っていたであろう場所に目を向ける。開かれた窓、吹き込んだ風にカーテンが踊っていて、そこにプロキオンが立っていた。