からんころん、ドアのベルの音がしてガラークチカは顔を上げる。そこにいたのは知り合いの男性だった。時計をちらりと見れば、丁度針は12時頃を指している、恐らく昼休憩で訪れたのだろう。生憎彼と仲の良い少女はこの場にいない。
「どーも!今日はもうかってます?」
「ぼちぼちですね。お昼ですか、プロキオンさん」
「せやで、僕もーお腹と背中がくっつきそうやねん」
楽しげにくすくす笑うガラークチカに、プロキオンはにっと気の良さそうな笑みを見せる。それから適当なカウンター席に腰かけた。メニューを手に取り今日のお勧めを確認し、そう言えばと顔を上げる。
「今日はチコちゃんおらへんな?まーた妖精さんしとるんかね」
「ああ……」
何の気なしに尋ねたプロキオンは、言いにくそうにするガラークチカを見て片眉を上げた。彼女は頬に手を当て、困ったように首を傾げる。他に客がいる手前、あまり詳しくは話せないのだろう。しかしチコーニャの過去を少し知っているプロキオンは、大体何が起きているのかを理解した。
「調子悪いんやな?」
「そう……ですね、部屋から出て来なくて。」
「……禁断症状?」
プロキオンは口元に手をやり、ガラークチカの方に身を乗り出しながら声を潜めてそう尋ねる。ガラークチカは困ったような顔のままこくりと首を縦に振った。それを見て、警官の青年は椅子の背もたれに深く座り直し身を預ける。そして天井を見上げ、「あかんなぁ」とため息を吐いた。
「チコちゃん嫌がるかもしれんけど、様子見に行った方がええんちゃうか?下手すると中でぶっ倒れてるかもしれんでそれ」
「そうですね……。ですが今日はアウラちゃんもヒナタくんもいなくて。お客様もこうしていらっしゃいますし、ねえ?」
困りました、と首を傾げたまま言う彼女を見ながら、プロキオンは彼女の言わんとすることが分かってまたため息を吐く。
「……それは、チコちゃんの為にならんと思うよ」
プロキオンはやけに温度のない声でそう言った。ガラークチカは暫くの間表情を消していたが、やがてにこりと小さく微笑む。プロキオンのことをとてもよく慕っているのだから、確かに彼が行けばそれだけで少女の気分はマシになるだろう。彼女の種族は精神状態が健康に直結しているそうだから、もしかするとそのまま回復するかもしれない。だがそれは彼女の依存を強くし信仰という名の感情を深めるだけで、長い目で見ればチコーニャの為にはならない。
だって自分は彼女の神様にはなれないのだから。
「プロキオンさんの言いたいことはよくわかります。」
「せやったら僕はやめといた方がええで。」
「しかし、初めに餌を与えてしまったのはあなたですよ。」
ガラークチカの言葉を聞いてプロキオンは思わず眉間にしわを寄せる。重い沈黙が落ちた。周囲の客が食器を動かす音と、お湯がこぽこぽと泡を吐く音が聞こえる。たっぷり数分間無言でガラークチカを見やり、しかし彼女が撤回するつもりがないのを察すると、プロキオンは深々とため息を吐いた。
「……わかった、会いに行ってみるわ」
「ありがとうございます。お昼はサービスしますね」
「おおきに……。」
プロキオンは片手を上げてひらひら振る。その顔には諦めの色がありありと浮かんでいた。
階段を一歩一歩踏みしめ、喫茶店から続く居住スペースへ向かう。人がいないのではと疑うほど薄暗い。そのままチコーニャの部屋の前まで歩き、数度深呼吸をする。そして手を伸ばすとこんこん、と控えめにノックをした。
「チコちゃん、起きとる?」
返事はない。プロキオンは扉の前に立ち、もう一度同じ言葉を繰り返す。やはり中からは物音一つ聞こえない。仕方がないと、彼はドアノブに手をかけ、ゆっくりと捻った。鍵はかかっていない。そのまま押し開く。暗い室内から漂う甘ったるいラズベリーの匂いにプロキオンは顔を顰めた。以前、彼女らの血液は果汁のような味がするのだとガラークチカが言っていたのを思い出す。換気も兼ねて扉を開けたままにし、閉じられたままのカーテンを一度引いた。レースのカーテンを残して開き切り、くるりとベッドがある方を振り向く。少し明るくなったおかげで視認できる室内は、それはもうひどい有様だった。これは掃除が大変やなと後のチコーニャの苦労を思いながら、口を開く。
「チコちゃん」
「……」
布団を被りだるまのようにうずくまった少女は、琥珀色の瞳を見開きながらこちらを凝視していた。腕を掻きむしりでもしたのか布団から覗いている腕が血まみれになっている。
「やっぱりそうなっとるよなぁ……止血せんと。」
「……」
「おうい、大丈夫かいな、僕のことわかる?」
プロキオンはしゃがみこみ、視線を合わせてそう問いかける。しかしチコーニャは何も答えずただじっと見つめ返してくるだけだった。プロキオンはその様子に困ったように眉を下げる。
「とりあえず手当しよか。ほら、立ちや。」
そう言ってプロキオンはチコーニャの手を掴む。びくり、と震えたのを無視して、軽く引っ張った。抵抗されると思っていたのだが、予想に反して彼女は素直に立ち上がる。それにほっと胸を撫で下ろした。彼女は電気を操ることができる。錯乱している彼女に電流を浴びせられでもしたら、プロキオンとしては溜まったものではないのだ。
散らかった部屋の中から辛うじて破損していない救急箱とタオルを手に取り、とりあえず洗面所に連れていく。タオルを水で濡らし、チコーニャの腕から滴っている血を拭った。そして消毒液を塗ってから包帯を巻いていく。
「かみさま」
「……うん?」
「チコーニャ、いつになったらなおるの?」
プロキオンは返答に困り、沈黙した。暫くの間包帯同士が擦れる音が続く。
「……それは、僕にもわからん」
「そっか」
「うん。……ごめんなぁ」
チコーニャはただふるりと首を振った。お互い無言のまま処置が終わる。プロキオンは洗面所で血に染まったタオルを大雑把に洗うと洗濯籠に放り込んだ。くう、とチコーニャの腹の音が聞こえてプロキオンは静かに後ろを振り向く。
「……僕もお昼まだなんよ、一緒に食べに行こか」
チコーニャは黙ったまま首を縦に振った。プロキオンは困ったように笑って、そのまま居住スペースを後にする。喫茶店に戻るとガラークチカが出迎えた。
「ああよかった。もうそろそろかなと思ってお昼ご飯用意しておいたんです」
「おー、グッドタイミングやな。ほら座りやチコちゃん」
プロキオンは椅子を引いてチコーニャを座らせると自分も腰掛ける。
「飲み物は何にしましょうか、チコちゃん。おすすめはオレンジジュースですけど」
「じゃあそれにしよかチコちゃん?僕は紅茶にするわ」
チコーニャはこくりと小さくうなずいた。それを確認してからガラークチカはカウンターの奥へと消える。しばらくして二人分の食事を持って戻ってきた。先ほどの凄惨な部屋が嘘だったかのように、平穏な時間が訪れる。チコーニャがストローでオレンジジュースを飲むのを横目に、プロキオンはガラークチカに出されたサンドイッチに被りついた。