「チ、コ、ちゃ~ん!ほれぎゅっ」
「うわあああっっ!?!??!」
「いやそんな声上げんでもうぶっ」
ばこーんと小気味良い音と共に吹き飛ぶ青年を見ながら、ああまたかと通りすがりの町人は遠い目をした。ここはニブルヘル、底の世界と呼ばれたこの世界の、流れ着いた逸れ者が集まってできた面白おかしいつぎはぎの国――とはいえ、この世界を取り巻く問題も解決した今となってはただの愉快な国である。
そんな平和な国で、彼と彼女の間柄でなければ傷害罪で起訴されてもおかしくないほどの勢いで彼を吹き飛ばしたチコーニャは、心臓の辺りを抑えながら眉根を寄せた。
「突然何するんすか!」
「いやあ……いてて、まさかそんな驚かれるとは思わんくてぇ……」
地面に不時着したプロキオンは暫く地面に倒れていたが、やがてぶつけた背中をさすりながらむくりと起き上がる。ぽりぽりと頬を掻きながらいつものようなお茶らけた雰囲気で肩を竦めた。そして何事もなかったかのように立ちあがると、ぽんとチコーニャの肩に手を置く。
「僕ら夫婦やのにチコちゃんたらいけずやなぁ」
「ふっ!?!?ばっ!夫婦ですけどっ!だからなんですかっっ」
「え~?指輪くれたときはあんなにかわい~くすきすき~って僕にちゅーしはったのにぃ。」
「ちゅーはしてません!!!」
好きと言ったのは否定しないらしい。プロキオンはにこにこと笑いながらチコーニャのことを見つめる。チコーニャはプロキオンのことを睨みながら肩を震わせていたが、やがてここで何を言ってもからかわれるだけであると察している彼女は文句を飲み込んだ。
「はあ……、ともかく次からは急に抱き着いたりしないでくださいね」
「ん~ほな善処するわ!」
「そういっていつも急にハグしてくるんですからもう……」
ぶつぶつと唇を尖らせながらチコーニャは文句を言っている。そしてここが往来であるということを漸く思い出したのかみるみるうちに顔を真っ赤にするとすたすたと足早に立ち去ろうとした。プロキオンがにこにこ笑顔でついていく。ぴたりとチコーニャが足を止めると、プロキオンも同じように足を止めた。くるりとチコーニャは振り向く。
「何でついてくるんですかっ」
「そら行先一緒やも~ん」
「くう……」
「ほら機嫌直して〜な」
ぴたりとくっついて仲睦まじく歩くのを、往来の人々は生暖かい目で見送った。彼らの紆余曲折を、ニブルヘルに長年暮らす人々は知っている。特に片想いを拗らせていたチコーニャを見てきた一同は彼女の恋が実ったのを微笑ましく思っていた。
さて、そんな二人だが、些細な問題が発生している。それは主に二人の距離感に関係するものなのだが……
「……なんで隣に座らないんすか?」
「いやあ……なんでやろ……」
ソファにできた不自然な空間について指摘されると、プロキオンは困ったように目を逸らす。普段からスキンシップを躊躇っているチコーニャに言えたことではないのだが、しかし何故二人きりになった途端に距離を取られるのかがよくわからなかった。チコーニャは隣から聞こえてくる紙のこすれる音を聞きながら暫し考え込み、やがて立ちあがるとプロキオンの隣に座る。そのままぽす、とプロキオンにもたれかかった。びく、と肩を跳ねさせて目を丸くしプロキオンはチコーニャを見つめる。反応を見るようにじっと彼の顔を見つめていたチコーニャは、悪戯が成功したときのような顔をした。
「ど……どないしたのチコちゃん?」
「だっていつもこんな風にくっついてくるのにくっついてこないから寂しくなって~」
「や、寂しがってる顔とちゃうやん!?なに!?怒ってはる?」
「まさか。怒ってないですよぉ」
いつもはからかわれる側なのだが、ここぞとばかりにチコーニャはプロキオンをからかっている。チコーニャは彼の太腿に手を置いてにんまりと笑った。びゃっとプロキオンが跳ねるのが面白い。
「やっ、あかん!あかんて!チコちゃんのえっち!」
「何言ってるんですか、普段もっと距離近いのに」
おろおろとプロキオンが慌てているのに満足気な顔をして密着し、すり、と彼の肩に頬擦りをした。そんな彼女に戸惑い、どうしたものかとさ迷わせた手で、そっとチコーニャの腰を抱く。それに気がつくと、彼女は目を伏せてその手に自分の手を重ねた。
指でなぞるようにしてみれば、普段は手袋の下に隠れている指輪が指先に引っかかる。何度も何度もその部分を撫で、存在を確かめては嬉しそうにチコーニャははにかんだ。そんな妻を見ていたプロキオンは、ひどく穏やかでそれでいて何だか息が詰まるような、そんな感情を抱いて細く息を吐く。
「……チコーニャ」
「はい?」
チコーニャは顔を上げ、ぱちりと互いの目が合った。どくりと心臓が跳ねる。とろりと熱を持った琥珀色が見つめ合った。どちらからともなく顔を寄せ、唇を合わせようとし……
がちゃり。
「パパ、ママ?」
「〜〜〜〜〜!?!?!?」
「おぁっ!?」
どんっと思い切り突き飛ばされ、プロキオンはソファから転げ落ちた。幸い痛みはなかったものの、そのままの体勢で天井を唖然と眺めている。
「どっ、どうしました!?」
「えっと……。ただいまって言いに来ただけなのだけど……パパ大丈夫?」
「……いやぁびっくりしたわぁ、おかえりルピちゃん」
「う、うん……」
ルピナスは頻りに首を傾げながら何故自分の父親はソファの隣に転がっているのだろうと考えていたが、何かを察したらしいハイヌに促されて手を洗ってくると言いリビングを出ていった。
何とも言えない沈黙が落ち、むくりとプロキオンが身体を起こす。ブリキの人形のような何ともぎこちない動きでチコーニャはプロキオンを振り向いた。
「ご……ごめんなさい……」
「ははは、うーん。まあ……しゃーないしゃーない」
ルピちゃんに見せるわけにもいかんかったし、などと動揺が落ち着かないチコーニャを宥めながら困ったように笑う。笑いながら、先程の自分が思わずやってしまおうとしたことに内心彼も動揺をしていた。ルピナスが入って来なかったら恐らくそのままキスをしていただろうし、そもそも何故自分がそうしようとしたのかわからない。
少なくとも彼女が喜ぶから、などという理由では全くなく、それではまるで自分が彼女に触れたいと思ったかのような……とそこまで考えてかーっと顔が熱くなるのを感じる。それに釣られて少し落ち着いたはずのチコーニャまで顔を赤くするのでいたたまれない。
今更キスくらいで動揺するなんて!などと頭の中をぐちゃぐちゃにしながらも困惑し、結局二人はルピナスが戻ってくるまで顔を真っ赤にして黙りこくっているのだった。