君の素顔と兄の品ヌビア学研究所、その会議室の一つ。監視カメラが無く、鍵の閉まる場所。予約さえすれば、誰でも使える場所。そこに、ヌビアの子の二人がいる。
(…………)
リヨンは何も言わずに、ぼくの────ナスカの言葉を待っている。会議室にぽつんと置かれた無機質な椅子に座って、ぼくの言葉を待っている。
閉鎖空間だ。
そんな場所に、すっかり惚れ込んでしまった女の子と二人でいるのだから、何も意識するなという方が難しい。
だけれど、ぼくの心臓は、それとは別の要因で騒いでいた。
「……そ、その。いいかな、これ、脱いでも」
ぼくが自分で指さしたのは、頭の部分を覆うクラゲ。リヨンは、こくりと頷いた。
ぼくは、すうっ、はぁっ、と、一つ大きく深呼吸をする。
(………大丈夫。相手はリヨンだから)
心の奥に、もう今となってはだいぶん前の記憶を呼び戻す。
あの日のぼくは、ほとんど事故みたいに、彼女に素顔を曝した。
彼女は、それでも『ナスカ』を見た。
誰よりヌビアフリークであるはずの彼女が────或いはヌビアフリークだからこそ────外見に囚われることなく、『ぼく』を見てくれた。それから、彼女はぼくの中で特別な人になっていった。
(………よし)
ぼくは少しだけ震えそうになるのをぐっと堪える。意を決して、クラゲの被り物を脱いだ。前髪を留めていたヘアピンが外れ机に落ちて、カツンと音を立てる。薄い水色の前髪が、はらりと視界を邪魔する。
「あ……」
「どうぞ」
リヨンは手を伸ばすと、そのヘアピンを拾ってぼくにくれた。まっすぐ、ぼくの目を見ていた。赤と灰色の双眸が、一直線に僕を捉えている。そこに、彼女が【ヌビア】に向けるような崇拝の色はない。彼女は、ぼくを見ている。
それが、ただただ嬉しかった。
「ええと、リヨン。今日はこれを渡したかったんだ」
しばらく顔を外気になじませると、やがて心臓が落ち着いてくる。それを待ってから、ぼくは、一つの包をリヨンに渡した。
「これは?」
「その………遅くなったけど、誕生日プレゼント」
無意識に『🎁』なんてつけたくなるのを、無理矢理飲み込む。今は、素顔だ。クラゲ越しでも、画面越しでもない。
「まあ」
リヨンは口元に手を添える。少し遠慮がちに嬉しそうな表情を見せた。可愛いとか、好きだとかいう気持ちに任せて暴れたくなる気持ちを、ぐっと堪える。
「良いんですの?」
「もちろん…」
「嬉しいですわ、ありがとうございます。ええと、開けてもよろしいでしょうか?」
リヨンは包を受け取ると、おずおず持ち上げた。ぼくは、忙しなく首を縦に振る。
リヨンはうふっと笑うと、包を開けた。どきどき、ぼくの心臓が騒ぐ。
かさりと音を立てて姿を見せるのは、長四角の箱。どくどく、ぼくの心臓がうるさくなる。
それをさらに開けて出てくるのは─────真っ赤な石をたたえた、ネックレスだ。
「…………」
わぁっ、とほとんど吐息だけでリヨンは感嘆の意を示した。その音をしっかり聞き届けて、ぼくは安堵した。少なくとも、嫌がられてはいないようだ。
「これ、第四都市の名産の石ですわね」
リヨンはぼくにそのネックレスを持ち上げてみせて、微笑んだ。第四都市の外にはほとんど流通していないものなのに一発で見抜くとは、さすが【知識】だ。ぼくは、また頷いた。
「……ありがとうございます。嬉しいですわ」
彼女は、その石を正面から見つめて、それからぼくを見て、頭を下げた。
「リヨンが喜んでくれて、その、ぼ、ぼくも嬉しい」
ぼくは、ちらちらとリヨンの方を見ながら答えた。ぼくの選んだ石は、第四都市の特産品の宝石────その中でも、特に真っ赤なもの。その色がリヨンの右目に似ていると思ったから、選んだのだった。実際に見てみて、その意識が間違いではなかったことを実感した。石と、彼女の右眼とは、同じ色をしていた。それが、擽ったかった。
「お願いがあるのですが」
ひとしきり石を眺めたリヨンが言う。ぼくは、やっとリヨンをまっすぐ見た。
「え、あ……うん」
「こういう類のものを、着けたことがなくて。着けてみたいので、お手伝いを頼んでも良いですか?」
「えっ!?」
─────心臓が興奮で爆発できるなら、今、した。
(今、リヨンに、ネックレス着けてくれって頼まれた?それって、ドラマやゲームや漫画でよく見るような、後ろに回ってって、あれ?)
「お嫌ですか?」
「いや、嫌なんてとんでも、な、ない。や、やるよ」
ぼくはすっかり裏返った声で、壊れた人形みたいにガクガク頷いた。世界一の美貌とか何とか言われていても、こちとら元引き籠もりのバキバキ童貞なのだ。いきなり女の子に────それも好きな女の子に『ネックレスをつけてくれ』なんて言われて、ドキドキするなという方が無理なのだ。
「ま、ま、任せて。大丈夫👍うん、たぶん💪」
敢えて画面越しスタイルの口調に戻ることで、何とか平静を装う。ぎくしゃく立ち上がると、リヨンの手からネックレスを受け取る。彼女は座ったまま、少しだけ項垂れるように首を前に倒した。短く切りそろえたおかっぱの襟足の下、色白の細い首筋が───クラゲ一枚さえ通さず、肉眼、眼前にある。手が震えて、どうにかなりそうだった。
リヨンは(後ろで大いに挙動不審になる)ぼくを訝しみもせず、ネックレスを着けられるのを待っていた。こういう時、リヨンはお手伝いさんがいるのが当たり前という環境で育ったのだ、という出自を実感する。
(ミスるな、ミスるな、絶対触るな…)
ぼくは恐る恐る、ネックレスをリヨンの細い首に回す。後ろで止める金具が、手汗で滑りそうだった。
(触るな、触るな、触るな…!)
カチカチ、2、3回失敗を繰り返してから、どうにかネックレスをつけ終わる。ひと仕事終えた後のように、どっと疲れが押し寄せてきた。
「で、できたぁ…😧」
「ありがとうございます、ナスカさん」
くるり、とリヨンはぼくを振り向き仰いだ。その首もとに、赤い石が煌めいていた。
「に、似合ってる」
思わず、ぼくは口走った。リヨンは、少しだけ照れたように笑った。
リヨンはネックレスを気に入ってくれたらしい。指先でころころとその存在を確かめる。
「誕生日に何かをもらったのは、お兄様以来ですわ」
そして、俄にそう言った。
ぼくは、一瞬『兄』という言葉に、脳が醒めるような心地を覚える。けれど、それは『ぼくの兄』ではないと自分に言い聞かせた。それから、くるりと記憶を働かせる。リヨンにいたのは、兄ではなく、弟だったと記憶していた。
「リヨンって、お兄さんいたっけ」
「実の兄ではありませんわよ。ハンザの兄です。従兄ということですわね」
「ハンザに、お兄さん?」
「ええ。知りませんでしたか?」
「知らなかった。なんとなく、ハンザって長男ぽいと思ってた」
そう言うと────少しだけ、ほんの少しだけ、リヨンの目が細く光った。今までに、あまり見たことのない表情だった。
「………そう、思いますわよね………」
リヨンの声も、いつも通りなようで、こころなしか細い。ぼくは一瞬呆気にとられたが、ゆっくり頷いた。
しばしの沈黙。ただ、気まずい沈黙。
(ハンザが長男って言われるの、嫌だったとか?)
ぼくは必須に考えていた。
やがて沈黙を打ち破ったのは、リヨンだった。
「ナスカさん」
「はっ、はい」
まるで、学校の先生の点呼のような、通る声。思わず背筋が伸びた。そんなぼくを見て、リヨンはくすくす、幼い子供のようにあどけなく笑った。
「わたくし、実は、とんだ不良娘ですの」
「あっ……はっ……えっ…??」
品行方正を絵に描いたようなリヨンが、何を言うのか。ぼくが戸惑う間に、リヨンは重ねる。
「我が家はとーっても古い因習が重んぜられていますの。ですから、本当ならこーんな狭い部屋に殿方と二人きりなんて、それだけで折檻ものですわ。でもわたくし、気にしませんの」
「えっ、セッカン!?」
慌てるぼくを尻目に、うふふっ、とリヨンはいたずらっぽく肩を竦める。
「……ですから、ですからね」
そして、次第にトーンを落とす。
「……ナスカさんが秘密にしてくださると言うなら、………どうか、私に唯一誕生日プレゼントをくれた………お兄様の話を、聞いてくださいませんか?」
リヨンは、最後、少しだけ伺うような目線を向けた。【優しさ】のラナークでなくとも、『話を訊いてほしい』という心の声が聞こえてくるようだった。
だからぼくは、頭の中は真っ白のまま、ゆっくり頷いた。
「わたくし、ハンザより年下ですの」
「う、ん。そうだね」
今日のリヨンは、話の脈絡がない。普段の筋道立てて話す姿ばかりを見ているから、強烈な違和感を覚えた。だけれど、そうしてぼくの知らないリヨンを見るのは、妙にぞくぞくした。ぼくしか知らない彼女の姿だ、と思えるからだろう。
「でもわたくし、ハンザを『兄様』なんて呼びませんわ。どうして、ハンザの兄様だけ、『兄様』と呼ぶのだと思います?」
「えっ……ええと、特別だから?」
とりあえずで捻り出した答えに、リヨンはくすりと微笑んだ。品のいい笑顔だった。
「大当たりですわ。兄様は特別ですの。悪い意味で」
「わるい…いみ?」
「ええ。家────リューベック家としては、対外的に、あまり兄様の存在を明るみにしたくないんですって。ですから、私や弟がうっかり口を滑らせても、『ああ、ハンザの坊っちゃんのことか』と思えるように、名前ではなく『兄様』呼びになりましたの。ですから、本当はこうして、兄様の話をするのは禁物なんです」
ぼくは、黙った。口を挟むのが、憚られた。
リヨンは遠くを見ながら、ネックレスを指先で弄んでいる。
「兄様は、家から虐げられておりますの。ちょっと、勉学が得意でないから。ちょっと、空想がちだから。『お前が長男だなんて、一族の恥だ』とまで言われておりましたわ」
リヨンの声のトーンが低くなる。ぼくは、リヨンの言葉を静かに待つ。
「でも、兄様は素敵な人ですの。わたくしたちがつい地元の因習に捕らわれてしまうのを、壊してくださいますから。第2都市ではこんな素敵な行事があるよ、とか、第3都市ではこんな素敵なお祭りがあるんだよ、とか。兄様に教えていただいたことは数知れず、ですわ」
リヨンは、まだ遠くを見ている。嬉しそうに、懐かしそうに、目を細めた。
「我が地元には、お誕生日に物を贈る風習はありません。当主級の誕生日ならそのまま宴会を行いますが……普通は親への感謝を述べる儀式くらいです。でも、兄様だけは、わたくしに誕生日プレゼントを下さいました。『見つかると怒られちゃうから、ナイショね』と言って、6月29日が来るたびに、素敵なものをくださるのです」
うふふっ、とリヨンは笑う。いたずらっ子のような笑顔だった。
それから、リヨンはぼくを見る。遠くではなく、真っ直ぐに。すぐそばに座る、ぼくを見ていた。
「だから、ナスカさんが二人目です。誕生日プレゼントをくださったの。──────本当に、ありがとうございます」
心から嬉しそうに、彼女は目を伏せた。
その姿があんまりに綺麗で、切なくて────たった今、彼女にとって重大な秘密を知らされたということも相まって─────平衡感覚を失いそうなほど、ぼくはくらくらしていた。
(リヨンは、どうしてぼくに、そんなことを…)
期待したい心と、馬鹿なと冷静になる心がざわめいた。
(だって、リヨンは、ヌビアしか愛していないはずだ)
それと同時に、『兄』という存在に揺らぐぼくがいた。
(………口に出せない兄なら、ぼくにだって、いる…)
ふ、と。
リヨンの首元、ネックレスに目が留まった。
──────本当は、ぼくの誕生日当日にアイールとテネレ主催で行われた誕生日パーティで、このプレゼントも渡すつもりだった。だけれど、ぼくはそのパーティを欠席したので、渡せなかったのだ。
(何しろその前夜に─────『兄』が、夜逃げ同然にここからの逃亡を持ちかけてきたから──────)
「………あのね、リヨン」
「ええ」
ぼくは、一通り話を終えたらしいリヨンに声を掛けた。リヨンが、さらりと髪を揺らしてぼくを見上げる。
彼女の黒髪は、綺麗だった。兄よりも、少し明るさのある黒色だ、と思った。
「実は、ぼくにも、兄がいるんだ」
「え?一人っ子と仰っていたのは…」
「うそ。真っ赤な嘘」
ぼくは、たった一人彼女だけに、兄の存在を打ち明けようと決めた。
同時に、兄を追い出してでも遂行したい存在意義を、必ず果たしてやろうと思った。
「ねぇ、リヨン。リヨンは、ヌビアを復活させたいんだよね?」
「……もちろんですわ。ヌビア様のためなら、わたくし、何でもいたします」
「………うん。ぼくも、ぼくの兄も、そのつもりなんだ」
彼女のためになれるなら、ぼくは喜んで《器》になろう。
ヌビア復活のために、この人生も人格も、何もかもなげうつ。
今この瞬間、その決心はさらに固まった。