忘れてほしい 久しぶりに野郎二人で宅飲みでもしようか、という話になった。そういう事になると、なぜか彼はわざわざ字エデンの片田舎にある6畳間までやってくる。ここはなんだか落ち着くんだよね、とニコニコと話す彼は、どうみてもこの狭い部屋には大きすぎるのだが、長い足を畳の上に投げ出し、窓際の壁に凭れてだらりと寛ぐ姿を見ると、なぜか文句が言えなくなるから不思議だ。
「レオス君に、一つお願いがあるんだけど」
「借金以外なら相談に乗ってもいいですよ」
そんなんじゃないよ、と笑いながら、彼が続けた。
「薬をね、作って欲しいんだ」
「不老長生の薬の話ならダメです。あれ、色々と大変なんですから」
そう言うと思った、と彼が笑う。
「そうじゃなくってね、『忘れる』薬。
ほら、めちゃくちゃ飲んじゃった次の日にさ、『あれ? 昨日一緒にいたの、あいつと、あいつと、あと一人……誰だっけ?』ってなることあるじゃん。全員仲いい奴と一緒にいたはずのに、どうしても思い出せないって事、あるでしょ?
そんな感じに『その人の事をまるっと忘れる薬』、作って欲しい」
「なんですかその具体的な例えは」
呆れ声でつぶやくと、彼はふにゃっとした笑顔で答える。
「ダメ?」
「いい年した大男が可愛こぶらないでください。作りませんよ、そんな薬」
「なんでだよー、レオス君天才だから作れるでしょ?」
「私は自分が興味のあるものしか作りませーん。だいたい、なんの目的があってそんなの欲しいんですか」
「いいじゃん、ちょっとぐらい友達の頼み聞いてくれたってさー。
あ、それともレオス君には無理だったかなあ、いくらマッドサイエンティストでも作れないものってあるのかなあ」
「煽ってもムダですぅ」
彼が手にするグラスと、隣に置かれた酒瓶の残りの量をちらりと確認する。自他ともに認める酒豪の彼にしては、今日は酒量が少ない割に、すでに酔いが回り始めているようだ。
「誰か、忘れたい人でもいるんですか?」
思わず漏れた問いに、彼がひらひらと手を降って答える。
「違う違う、逆だよ。忘れたいんじゃなくて、忘れてほしい、僕のこと」
「オリバー君、アナタ何やらかしたんです」
意外な答えに、思わず大きな声が出てしまった。
「やらかしたとか、心外だなあ。僕は人畜無害な大学教授ですよ? 君たちと違って、ごく普通の人間ですー」
君たち、とは同期4人の事を指すのだろうか。グラスの酒をくいっと呷り、彼が続ける。
「だから、忘れてほしいんだ、僕のこと」
「どういう意味です?」
彼の意図がわからない。純粋に好奇心から聞いてみる。
「だって、寂しいじゃん。僕はどうあがいても君たちより先に死んじゃうのに、君たちの中には僕の記憶が残り続けるわけでしょ。
僕はもうそこにいないのに、君たちの中にはずっと僕がいる。
それって、寂しくない?」
「寂しい、ですか」
「そ。だから、僕が死んだら、君たちには僕のこと、綺麗さっぱり忘れてほしい。
もしどこかに僕の痕跡が残ってたとしても、『あれ、ここに誰かいたっけ? 気のせいかな?』って思えるように、『僕のことを忘れる薬』、作って欲しいんだ」
冗談とも本気ともつかない口調で、彼が頼む。ふにゃっと笑ってはいるけれど、その目からはかなり本気であることが伺えた。
「嫌ですよ、そんな事。なんで忘れなきゃならないんですか」
「いいじゃん、ケチ―。ケチケチサイエンティスト!」
やはり、いつもよりかなり酔うスピードが早いようだ。
そういえば、体調によって酒量と酔い方が変わると言っていたな。
ふと思い出して、グラスを持つ手首を握ってみる。
「え、どうしたの、レオスくん」
熱い。いくらアルコールが入っているからといっても、ここまで体温上昇はしない。
「オリバー君、熱、ありますね」
「あ、ばれたか」
ばつの悪そうな笑顔が返ってきた。
「まったく、それならそうと言って下さいよ! はい、今日はもうおしまい!」
手の中のグラスを取り上げる。
「えー」
文句を言うものの、それ以上は抵抗せず、素直に隣の酒瓶を手渡してくる。やはり、いつもの半分以下も飲んでいない。
「いいから、今日はもう泊まっていきなさい。今布団敷きますから」
「レオスくん、優しい。そういうとこ、大好き」
かなり怪しくなった呂律で愛を囁き出す。どうやら急速に酔いが回っているようだ。
先日買ったばかりの客用布団を敷くと、倒れるようにごろんと横になった。
「体調悪いんなら素直にそう言いなさいよ。いくらでもリスケすればいいんだから」
「でもさー、会える時に出来るだけ会っておきたいじゃん?」
少し拗ねたような、それでいてどこか諦めが混じったような声で、彼が続ける。
「君たちと違って、僕には限られた時間しかないんだから」
その言葉に、思わず彼の顔を見る。
大柄な体格のわりに少し身体の弱い彼は、今までにもこうして無理を押して行動したあげく、寝込んでしまう事があった。それは単に自分の体力を甘く見積もっての判断ミスかと思っていたのだが、どうやらそうではなかったらしい。
「だからさー、そんなに怒んないでよ…」
発音の甘くなった語尾はあくび混じりに溶けていき、数分後にはすぅすぅと寝息が聞こえてきた。
「なんだかんだ言って、『不老』に一番囚われてるのはアナタじゃないですか、オリバー君」
ため息を一つついて、布団の隣に寝袋を敷く。隣から聞こえる規則正しい寝息を聞きながら、いつの間にか眠りについていた。
目が覚めると、部屋には誰もいなかった。
流し台の中のグラスや食器は綺麗に洗ってあり、買ってきたおつまみの空袋もすべて片付けられていた。
まるで昨夜の飲み会などなかったように、部屋は綺麗に片付いている。
部屋の片隅にきちんと畳んで積み重ねられた一組の布団だけが、そこに誰かがいた形跡を残していた。
ふいに、昨日の彼の言葉を思い出す。
もしどこかに僕の痕跡が残ってたとしても、『あれ、ここに誰かいたっけ? 気のせいかな?』って思えるように、『僕のことを忘れる薬』、作って欲しい
ピコン、と音がして、スマホのロック画面にメッセージが届いた。
『昨日はごめん。埋め合わせはまた今度』
「何を勝手な事言ってるんだか」
畳まれた布団を見ながら独りごちる。
「忘れてなんか、やりませんよ。絶対に」