Rip current -離岸流-「あ、また来てる」
遠くの岩場を見て、隣にいた学生のコール君がつぶやいた。
左右を崖と岩場に挟まれた、小さな海岸だ。僕たちは、その崖の根元付近の洞穴に設えられた祭壇の調査に来ていた。
先日から彼が時々岩場を気にしている事には、なんとなく気づいていた。
「どこ?」
「あそこです、エバンス先生。あの、大きな岩の向こうの、先端の方」
彼の指差す方を見たが、何も見えない。ただ陽炎が揺らいでいるだけだ。
「ごめん、僕には何も見えないけど」
「え、ほんとですか? 先生、ちゃんとコンタクトレンズ入れてますよね?」
「ひどいなあ、いくら僕が少々抜けてるからって、そこまでじゃないよ」
苦笑する僕を見て、少し不満げな顔で彼がもう一度指差す。
「ほら、あそこに――あれ?」
「どうしたの?」
「いなくなりました…さっきまでいたのに…」
途端にしょんぼりとする彼の肩を叩いて、作業に戻るように促す。彼は未練がましく岩場を眺めると、一つ溜息をついて調査対象に向き直った。
今回のフィールドワークは、小さな海辺の村に伝わる伝説と、それに基づく地域の伝統行事の調査が主な目的だ。いつもならフィールドワークには僕一人で赴くことが多いのだが、今回は同じテーマを研究したいという学生がいて、同行することになった。
僕のゼミ生であるコール君はとてもしっかりとした学生で、あまり冗談を言うようなタイプではない。授業態度も真面目で、研究の着眼点もレポートの内容も申し分ない。実際に同行してもらって、助手としてとても役に立ってくれている。
その彼が、ここ数日気もそぞろな様子で、あの岩場ばかりを目で追っている。
一体、何がそこにあるんだろう?
あまりにもそわそわしている彼が少し気の毒になって、明日は調査を休んで自由行動とすることにした。彼は嬉しそうにお礼を言うと、実は、と僕に打ち明けてくれた。
「何日か前から、あそこの岩場に女の子が来てるんです。毎日、岩の上からずっと海を眺めてて…気がつくと、居なくなってるんです」
「そうなんだ。地元の子かな?」
「それが、ちょっと様子が違ってて。ほら、服装とか髪型とか、なんとなく懐かしい感じがするというか…」
彼の表情をみて、鈍いと言われる僕にもピンときた。
「なるほどね、一目惚れってやつかな?」
「ちっ、違いますよ 何言ってんですか」
思わず頬が緩む僕に、彼は真っ赤な顔をしながら、逃げるように部屋へ帰っていった。うんうん、若いっていいねえ。
真面目なコール君のほのかな恋心を知って、なんだかほっこりした気持ちになる。
このとき、僕はまだ知らなかったのだ。この二人は、本来出会うはずではなかった存在だったのだと。
先生から丸一日の休みをもらって、俺は自分の気持と向き合わざるを得なくなってしまった。
最初は、なぜあんな所でぼーっとしてるんだろうと、ただ気になっただけだった。それが、いつの間にか目を離せなくなっていたんだ。
彼女はいつも一人で、波打ち際に近い岩の上に座っていた。誰かを待っているというのでもなく、ただぼんやりと海を眺めている。夕方になると、いつの間にかいなくなっていた。
そして、今日も彼女はいつの間にか、いつもの場所に現れていた。相変わらず一人きりで、岩場には他の人影はない。
「行ってみるか」
重い腰を上げて、岩場へと歩き出す。小さな砂浜を抜け、岩場にさしかかった時だった。
ある岩から別の岩ヘ一歩踏み出した途端、視界がぶれた。回線の悪いネットの動画みたいに、一瞬、周りの景色がザラザラと乱れ、二重に見えたのだ。
慌てて目をこする。次の瞬間、岩場は元通りくっきりとした形を取り戻した。
「やっぱり、俺、どうかしてるのかな…」
呟いて、前をふさぐ大きな岩を乗り越えると――目の前に、彼女がいた。
彼女は、俺の立っている岩の向こうの、波打ち際に追り出した大きな岩の端にちょこんと腰掛けていた。裸足の両足の先を波飛沫に濡らしながら、ぼんやりと水平線を眺めている。隣に置いた小さな端末から、古い曲が流れていた。あれは、ラジオ、ってやつか?
思わず立ち止まった。彼女の出現があまりに唐突だったので、声をかけるタイミングを見失ってしまったのだ。彼女は、全く気付かない様子で、海を見ている。
しばらく迷ったあげく、思い切って声をかけてみた。
「あの……」
彼女が、振り向いた。透明な視線が、俺を捕えた。
心臓が、跳ね上がった。
かわいい――想像以上にかわいい子だった。
それだけでなく、なぜか不思議な懐かしさを覚えて、どぎまぎした。
彼女は、黙って俺を見つめている。何か言わないと、永遠に見つめ合ったままになりそうな気がして、俺は真っ白な頭の中から、何とかセリフを引っ張り出した。
「えーと……今、一人?」
言った途端、後梅した。一人かどうかぐらい、見りゃ判るだろ
彼女は無言で、俺をじっと見つめたままだ。
なんとか前言のフォローをしなければと思い、とりあえず口をついて出て来た言葉がこれだった。
「ここで何してるの?」
フォローにもなんにもなってない……
目の前の海に飛び込みたくなった。
そのとき、彼女が初めて口を開いた。
「……海、見てるの」
視線と同じく、透明な声だった。
我ながら、とんでもなくマヌケだと思う質間に真面目に答えられて、よけいに恥ずかしくなった。彼女は、まだ俺を見ている。
えーい、こうなりゃ恥かきついでだ、と腹をくくった。
「隣、座っていいかな?」
断られるかと思ったが、彼女はあっさりと頷いた。ゴツゴツした岩の比較的平らな部分に、並んで腰を下ろす。
「君、ここんとこ毎日ここに来てるだろ? ずっと、気になってたんだ」
「毎日、見てたの?」
「うん。三日前、君に気付いてから、ずっと」
「どうして?」
「え?」
「どうして、見てたの?」
「そりゃあ、まあ……なんか、寂しそうに見えたからさ」
「ふーん、そう見えたんだ」
彼女は視線を、俺から遠くの水平線に移した。彼女に視線をさとられないように気遣いつつ、ちらちらと彼女を観察する。
白いフリルのついた、ノースリーブのオーバーブラウス。薄茶色の長いフレアスカート。つば広の帽子の下の髪は、肩までのボブカットにしている。
初めて見たとき、何か懐かしい感じがしたのは、この服のせいかな、と思った。
「この近くに住んでるの?」
「ううん、お婆ちゃんの家に来てるの。あなたは?」
「俺は、フィールドワークでここに来てるんだ。先生と一緒に」
「フィールドワーク? それって何するの?」
「この地域に昔から伝わる伝説と祭りを調査してる」
「お祭り、来週末だっけ」
「そう。なかなか興味深いよ」
また、しばらく会話が途切れた。俺は、彼女に嫌な感じを起こさせないように注意しながら、彼女の横顔を見つめていた。
小さな端末の曲が終わった。DJが流れる。俺は聞くともなしにそれを聞いた。そして、ギョッとした。
『それでは、次、◯◯の新曲、「□□□□」にリクエスト頂いてます』
新曲だって? あれ、俺が生まれる前の曲だぞ?
そう、たしか30年程前の曲だ。母の好きな曲で、小さい頃よく聞かされたから覚えている。
彼女は、そんなDJなど気付かない様子で、海を見つめたままだ。
突然、違和感に襲われて立ち上がった。
なにかが、違う……。
不審そうに見上げる彼女に、俺はなんとか笑顔を向けた。
「あの、俺、もう行かないと。話できて、嬉しかったよ」
彼女は、何も言わず、見上げている。
妙な後ろめたさを感じながら、俺は岩場から逃げるように立ち去った。
帰るときも、行きと同じ場所で、一瞬、視界がぶれた。慌てて瞬きをする。すぐに、くっきりとした視界に戻る。ちょっと考えて、後ろを振り返った。ただの岩場だ。彼女のいる岩は、大きな岩の陰になって、見えなかった。
それ以上考えるのをやめにして、俺は岩場を雛れた。
翌日の朝。
自由行動はどうだった、とコール君に聞くと、なんだか曖昧な返事が帰ってきた。
「会うことは会ったんですけど……なんというか……」
歯切れの悪い言葉に、これ以上追求するのは悪い気がして、話を打ち切った。
真面目な彼のことだ。きっと思ったように話ができなかったことを反省してるんだろう。うんうん、青春だねえ。
あとになって、この時に彼の話をもっとよく聞いておくべきだったと、僕は後悔することになる。
次の日も、彼女はいつもの場所に来ていた。午前中ずっと迷ったあげく、俺は昼休みにもう一度行ってみることにした。
一瞬、視界のぶれる岩場を抜け、太きな岩を乗り越えると、昨日と同じように彼女がいた。隣の端末から古い曲が流れている。
「隣、いいかな?」
彼女が振り返った。そして、薄く微笑んだ。
「どうぞ」
咋日と同じ場所に腰掛けた。
彼女は、相変わらず、無口だった。俺の質間に、ぽつりぽつりと答える以外は、黙って水平線を見つめている。
「一日中海見てて、飽きない?」
「海、見てるの好きだから」
そのわりに、楽しそうな顔してないな、と思った。俺の心を読んだかのように、彼女が微笑んだ。
「海って、楽しいときより、悲しいときのほうが見たくならない?」
「え、そりゃあ、まあ……」
「……私ね、失恋したんだ。海って、精神安定剤の代わり」
どう答えていいのかわからず、俺は黙って彼女を見つめた。
「少女マンガみたいでしょ。でも、海見てると、なんだか落ち着くのよね」
彼女が笑いかける。
「ごめんね、変な話ししちゃって。気を使ってくれなくてもいいよ」
「俺の方こそ、こんなこと話させて――」
端末の曲が終わった。俺は、はっとしてDJに耳をすませた。
『今週のチャート1位は△△の「◇◇◇」でした。△△のライブツアーは来月のアリーナからスタートします!』
△△の、ライブツアー? 確か俺が子供の頃、メインボーカルの事故死で解散したはずじゃ……
「どうしたの?」
黙り込んでしまった俺に、彼女が不審そうに声をかけた。彼女は、このDJの不自然さに、全く気付いていない。
そういえぱ、彼女のファッション、確か昔の映画で主役の子が同じような格好をしていたような記憶が――
今年は、何年だっけ?
俺は、口先まで出かかった間いを飲み込んだ。代わりに、彼女に笑顔を向ける。
「なんでもないよ。俺、この曲好きなんだ」
この話題が、これ以上進むと困ることに気付いた俺は、これを機に腰を上げた。
「俺、もう休憩時間終わるんだ。また、明日来てもいいかな?」
彼女は微笑んだ。そして、かすかに頷いた。
その日から、コール君は毎日昼休みになると、どこかへ消えるようになった。
彼が言うには、岩場の女の子に会いに行っているらしいのだが、誰もその姿を見たものがいないのだ。
女の子はもちろん、彼の姿も。
……なんだか嫌な予感がする。
岩場の向こう、日差しを反射してキラキラと輝く海を見ながら、僕はこの地に伝わる伝説を思い起こしていた。
昔、この村にとても仲の良い夫婦が住んでいた。だが、ある嵐の夜、夫の船が遭難してしまう。残された妻は海に消えた夫の無事を願い、洞穴の中に祠を作って海の神に祈り続けた。
夫の帰りを待ち続ける妻の前に、ある日年老いた男が現れる。身寄りのない老人を引き取り、一緒に暮らすことになった妻だが、ふとした折に見せる老人の仕草に不思議な懐かしさを感じるようになる。
老人は、実は年老いた夫であった。海で遭難し、どこか知らない土地へたどり着き、長い年月を経て故郷へ帰ってきたのだが、故郷ではたった数ヶ月しか経っていなかったという。
その後も、海で遭難した人の無事を祠で祈ると、姿は違えどいつか必ず戻ってくるという言い伝えがあり、海の神を祀る行事が今も行われている。
よくある「神隠し」系の伝説だ。エデンには特に多く、いろんな場所でこのような伝承が残っていて、僕の研究対象としてもよく取り上げている。
僕がこのテーマに興味を持ったのも、僕の祖先が「違う世界からの迷い人」だから、ということもある。
ここエデンという世界は、どうやら時空間の定着力が若干弱いらしい。そのため、時々時空の歪みが発生し、異空間と繋がってしまうことがあるようだ。それが別の世界であったり、時間軸であったりするため、僕の祖先のような「迷い人」や、伝説のような「神隠し」が起きてしまうようなのだ。
エデンの転送装置は、その時空間の歪みを利用して、異なる座標の空間を強制的につなげる技術だ。だが、そのメカニズムはすべてが解明されているわけではなく、そのため転送装置の「ゲート」が設置できる場所は限られている。
神隠し系の伝説がある地域には、昔から定期的に時空の歪みが自然発生していたのではないか、と僕は考えている。
だとすると、今回の彼の行動(僕には見えない女の子に会いに行く)と、それに伴う不思議な現象(誰も二人が会っているところを見たことがない)は、なにか大きなリスクを孕んでいるのではないか。
ただの杞憂だといいが。
翌日は、朝から激しい雨が降っていた。屋外での活動は中止して、ホテルの部屋で調査資料の整理とレポートの執筆に専念することにする。
宿泊中のホテルは、例の砂浜を見下ろす高台の上に建っている。窓からは、雨を吸って重い色に変わった砂浜と、その向こうに横たわる鈍色の海が見えていた。
「今日は会いに行かなくてもいいの?」
そわそわと窓の外を気にするコール君の背中に声を掛ける。びくっと、まるで漫画のような反応で、彼が振り向いた。
「え、さすがに、この雨の中は来ないだろうと思います」
「まあ、そうだろうね。……ひとつ気になることがあるんだけど、聞いてもいいかな?」
僕の口調に何かを感じ取ったのか、神妙な面持ちで彼が頷く。
「君が会ってるという女の子だけど。いつも、あの岩場で会ってるんだよね?」
「はい、そうです」
「何か、違和感を感じなかった?」
彼が息を呑む気配がした。
「違和感……ですか」
「なんでもいい。話の内容とか、服装とか…何かが他の人とは違うと感じるようなところ、なかったかな」
彼の目が困ったように少し泳いだ。何かを言おうとして、少し考えて、その言葉を飲み込む。
「いえ、特に、何も」
嘘をついてるな。そう思ったが、これ以上追求するのはやめておく。
「その子とはもう連絡先は交換したの?」
「いえ…それが、その、彼女、スマホ持ってないって」
えーと、それは、体よく断られた、って事なんだろうか。なんだか悪いこと聞いちゃったかな…。
「あ、でも、名前と住んでる所とかは聞けました! あと、好きな食べ物とか、好きな歌手とか、好きな本とか!」
あー、ごめん、僕が悪かった。
必死で言い募る彼の姿に、なんだか罪悪感を感じてしまい、なんて声をかけようかと考えていたときだ。
窓の方に振り向き、外を見た彼の顔色が変わった。窓枠に駆け寄り、体を乗り出すように岩場を凝視すると、身を翻して部屋から走り出ていく。
「え ちょっと、コール君」
突然の彼の行動に戸惑いながらも、僕も彼を追いかけて部屋を飛び出した。
雨に濡れて滑りやすい岩の上を、俺は必死で登った。ホテルの窓から、いつもの岩場にいる彼女を見つけたときは、心臓が止まりそうになった。こんな土砂降りの中、海も荒れ模様で波だって高いのに、あんな場所で一体何やってるんだ
が、いつもの視界がぶれる岩を抜けると、突然眩しい太陽の光が俺を包んだ。
あの岩から先は、雨が降っていなかった。
急に明るくなった視界に目を細めながら、最後の障害である大きな岩を乗り越えると、そこにはいつものように海を見つめている彼女がいた。後ろで息を弾ませている俺に気付いて、彼女が振り返り、不思議そうな目で俺を見る。
「どうしたの?」
「え?」
「びしょ濡れじゃない」
「あ、ああ、さっき海に落ちちゃって」
彼女はくすっと笑って、俺が座れるように場所を空けてくれた。
土砂降りの中、岩場に向かって走るコール君の背中を必死で追う。
「コール君っ 一体、何を見たんだ」
後ろから叫ぶ僕の声も聞こえていないようだ。
雨にけぶる狭い砂浜を抜け、海に突き出した岩場に躊躇いもなく駆け込んでいく。この雨の中をそんな勢いで突っ込んで行くような場所じゃないだろう
がむしゃらに、でも慣れた足取りで岩を登り、ぐいぐいと先を進む彼の背中が、ふいにかき消えた。雨の中に溶けるように、ふっと消えたのだ。
「――っ」
そんな、まさか。
もしかして岩の間に落ちたのかもと、急いで岩場に駆け上り、あたりを探してみたものの、なんの形跡も見当たらない。
文字通り、目の前で消えてしまった。
「嘘だろ……おい、冗談じゃないぞ……」
呆然と立ち尽くす僕の目の前には、激しい雨に濡れる岩場と、暗い色の海が広がるばかりだった。
彼女の隣に腰を下ろして、俺はどうやって彼女に話を切り出そうかと悩んだ。
間違いない。彼女のいるこの岩場と、俺がいる場所では、明らかに時空が違う。
彼女の隣の端末から流れる古い曲、彼女の服装、話題の内容。この岩場は、おそらく俺のいる世界から30年ほど前の世界だ。
この村の伝説が本当なら、俺は今、実際にそれを体験していることになる。
そして、この伝説の重要な鍵となるのは「海へ消えた人」。もしかしたら、彼女が――
「今日はあんまり喋らないね」
珍しく彼女のほうがから声をかけられ、返事に詰まる。
なんて言ったらいい?『実は、俺は今から数十年後の世界から来たんだ』? まさか。変なやつだと思われて終わりだろう。
「ちょっと、聞いてもいいかな」
「どうぞ」
「あの……」
適当な言葉が見つからない。彼女は黙って、俺のセリフの続きを待っている。成り行きに任せることにした。
「あの、君、泳げる?」
彼女が微笑んだ。
「泳げるけど、どうして?」
「いつも、ここで海見てるだろ。泳げないのに、こんなところにいるんだったら、危ないと思って」
「大丈夫。一応、泳ぎは得意だから」
「でも、ここみたいな波打ち際は危ないよ。足場悪いし」
「ほんとに大丈夫。それに」
彼女は、俺から視線を外し、遠くの水平線のほうを向いた。
「自分から、飛び込んだりは、しないから……」
それ以上何も言えなくなって、俺は口をつぐんだ。
「今日は、フィールドワークははお休み?」
「え、ああ、まあね」
「ほんとにここで研究してるの? 全然見かけないけど」
彼女は覗き込むように俺の顔を見た。なんて答えたらいいんだろう。
その沈黙を別の意味に取ったらしく、彼女は笑って立ち上がった。
「いいよ、別に君が誰でも気にしないから。心配してくれてありがとう。じゃあね」
危なっかしい足取りで岩場を去って行く彼女の後ろ姿を、俺はただ見送るしかなかった。
彼女が岩場を去ったあと、一人でしばらく海を眺めて色々と考えたものの、何もいい案が思い浮かばない。
しかたない。重い腰を上げてホテルに戻ることにした。
いつものように視界のぶれるあの岩を抜けると、真正面から激しい雨が叩きつけてきた。激しい雨音と一緒に、大声で名前を呼ぶ声が聞こえる。
「コール君っ 無事だったんだね」
ずぶ濡れの先生が駆け寄ってきて、いきなりガバッとハグされた。190cmの大男に全力で抱きしめられて、思わず息が詰まる。
「ちょ、せ、先生、苦しい」
「あ、ああ、ごめん」
ぱっと放してくれたものの、大きな手で確かめるように全身を撫で回される。
「大丈夫? どこもなんともなってない? 欠けたとことかない?」
真剣な表情から、先生が心から心配してくれていたのがわかった。
「大丈夫です。心配かけてすみません」
「一体、何があったの?」
正直に話してしまうべきなんだろう。でも。
「わかりません。俺にも何が何だか…」
ここで先生にすべて話してしまうと、もう二度と彼女に会えない気がして、つい誤魔化してしまう。
「とにかく、ホテルに戻ろう。話はそれからだ」
先生に促され、岩場を後にする。先生の手が小刻みに震えているのに、その時の俺は気づいていなかった。
翌日は、朝からきれいに晴れ上がっていた。祭りを数日後に控えているということもあって、ホテルには帰省客や観光客の姿も増えてきた。
フィールドワークの方は、史跡の実地検分や現地の人達への聞き取り調査もほとんど終わり、あとは文献の考証と、実際に祭りを見学する事を残すのみとなった。
昨日、ホテルに戻ってから、先生は片時も俺のそばから離れてくれない。まるで、何かから守ろうとするかのように、ずっと目を光らせている。
やはり、先生は何かを知っているんだろうか。
ホテルの窓から岩場を眺める。彼女は、今日は来ていないようだ。一応、危ないってことは分かってもらえたのかな。
「コール君、ちょっといいかな」
朝からずっと誰かと連絡を取っていた先生が、俺に声をかけてきた。促されるまま、先生の前に座る。
「君が岩場で会ったという女の子だけどね。君から聞いた名前と、ここに住んでいるというご親戚の事を手がかりに、ちょっと調べさせてもらったんだ」
先生の表情から、なにか良くない知らせだと察した。
「彼女は――30年前の今日、亡くなっている」
……先生は、何を、言ってるんだ?
「正確には、30年前のこの日に姿を消して、遺体が発見されたのはその2日後だけどね。だから、君が彼女と岩場で会えるはずはないんだ。何かが起こらない限り」
「…嘘だ」
だって、今日は彼女は岩場に来てない、だから、彼女が亡くなったなんて、そんなはずは――
「正直に話してくれ。あそこで――あの岩場で、何があった?」
「嘘だ!」
思わず部屋を飛び出す。後ろで先生が名前を叫ぶ声が聞こえたが、構わず走った。
まだ間に合うはずだ、伝説が本当なら、まだ間に合うはずなんだ!
しまった、しくじった…!
「コール君! 戻れ!」
部屋を飛び出したコール君の背中を追いながら、自分の判断ミスを後悔する。
あの様子だと、彼は確実に何かを知っている。おそらく、彼女が過去の人間であること、自分がタイムリープしていることに気づいているんだろう。
そして今、彼は彼女を救いに行ったのだ。
それがどういう結果になるか、僕にはわからない。ただ、一つ言えるのは、過去に起きたことに干渉してしまったら、その時点で現在の時間の流れとは別の世界線にいることになる。
多分、彼はここに戻って来れなくなる。
そうなる前に、彼を捕まえなくては。
祭りの準備で賑わう砂浜を抜け、岩場でようやく彼に追いついた。背中をつかもうと伸ばした指のすぐ先で――彼の姿が、ふっと消えた。
僕の手が掴んだのは、ただの虚空だった。
人で賑わう砂浜を走りながら、俺は彼女の姿を必死で探した。雲ひとつない明るい昼間の空の下、眩しい陽光に照らされた岩場は、先端の辺りはそこだけすっぽりと影に覆われたように暗くて、形すらもはっきりしない。一体どういうことだ?
「だから、危ないって言っただろっ」
叫んで、いつもの岩から岩へ飛び移った途端、強い風と横殴りの雨がまともに叩きつけて来た。不意を突かれて、足が滑る。とっさに岩の角を掴んで、岩の割れ目に落ち込むのは避けられたが、左の膝を思い切り岩にぶつけた。あまりの痛みに、しばらく動くことができない。
膝を抱えて丸まっている俺を、岩を越えた波が叩いた。ぎょっとして顔を上げる。
まさか、今の波が……
痛みに悲鳴を上げる膝を無視して、俺はまた岩場を走り出した。最後の障害物の大きな岩を乗り越える。
彼女が、いた。
ずぶ濡れになって、大きな岩に寄り添うように、膝に顔を埋めて座っていた。
「なにやってんだよ」
思わず肩を掴むと、彼女は顔を上げた。はっとして手の力を緩める。
彼女は、泣いていた。
「こんな日に、こんなとこに来るなんて、何考えてんだよ 死にたいのか」
「……もう、嫌なの……なにもかも……」
しゃくり上げながら、彼女が答えた。
「お願い、ほっといて……」
「ほっとけるかよ」
「どうして? 私のこと、何も知らないくせに!」
「好きになったんだから、しょうがないだろ!」
うつむいていた彼女が、びくっとして顔をあげた。
「会ったばっかりだとか、何も知らないとか、関係ない! 君が誰だろうと、今から30年前の人間だろうと、好きになったんだから、しょうがないじゃないか」
次の瞬間、彼女は大声を上げて子供のように泣き出した。思わず彼女の細い肩をそっと抱き締める。
そのとき、ひときわ大きく、風が吼えた。
振り返った俺の目に、高く高く持ち上がった波が、暗い水の壁を作るのが映った。
それっきり、コール君は帰って来なかった。
地元の警察や、僕が依頼した科学者たちが周辺の捜査をしてくれたが、まったく何の手掛かりもつかめなかった。
僕の目の前で、空中に溶けるように、文字通り消えてしまったのだ。
一縷の望みを抱いて、僕はしばらくこの地に留まることにした。この地に伝わる伝説が本当なら、彼が戻ってくる可能性はゼロではないのだ。
フィールドワークのメインテーマである祭りは盛大に行われ、大勢の人たちで賑わった。小さな祠では、今はもう形骸化した祈りの言葉が捧げられる。まさかこんな気持ちでこの祈りを聞くことになるとは思わなかった。
祭りが終わって数日後、すでに日課となった祠での祈りを終えて外に出たときだ。
「失礼ですが、エバンス教授でしょうか?」
一人の中年男性に声をかけられた。この声は――
「コール、君?」
「お久しぶりです、先生」
僕よりも遥かに年上のコール君が、そこにいた。そばに寄り添うように立っていた、ほっそりとした美人の中年女性が軽く会釈する。
「どこから説明すればいいですかね……」
少し照れたような笑顔を浮かべて、彼が言った。
それだけは30年前と変わらない明るい日差しが、深い色をした海に降り注いでいた。