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    せのお

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    死なせて はやく

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    せのお

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    2021/11/28/トランジット

    トランジットあの夜の間じゅう、何を話したのだったか。
    頭のなかでのっぺりと横たわり、端の端まで余すことなく糊づけされた記憶が時折顔を出す。いまこの瞬間に思い出すのではない、ずっとここにあるのだ。一度たりとも揺るぐことなく、かすれることもぼやけることもなく、ただ鮮明に色づいた記憶がそこにある。普段は、繊細に織り込まれすべらかな手触りをしている上質な布に覆われていて、その痛みの上に埃のひとつさえ被らないように守られている。幾度となく折れて、歪なかたちをしたさかむけだらけの私の指がその布を慎重に、中で眠っている誰かを起こしてしまわないように、静かにめくりあげる。同時にからだじゅうを切り開かれて、内臓をするどい棒で引っ掻き回されるような痛みが脳に強く叩きつけられる。耐える。耐える。歯を立てた唇に血が滲むのを厭わずに耐えて、耐えたその先。私はこの中にあるものを知っている。知っていてなお、手を止めることができなかった。





    真依の部屋には私の立ち入ることのできない隙間がある。部屋といっても私たちに与えられた空間はたったの四畳半で、彼女の持ち分はおよそ一畳と半分程度だった。もちろん私も同じだけの領土を有していて、残りはふたりで気兼ねなく共有するためのものだった。たった一畳半の彼女の部屋に隠されたものを私は知らない。かつては、どうだったろう。
    「ねえ、はやく片付けて」
    「今やってるだろ、急かすな」
    「なんでもないように口がきけるのね」
    いつからか、私は二度と彼女の部屋に立ち入れなくなった。座りこんでいる私を見下ろして立っている真依が、心底鬱陶しそうに足で私の鞄を寄せる。一ミリだって侵入を許さないという態度だ。
    「今日はもう一緒に寝ないのか?」
    「信じられない」
    春を目と鼻の先に控えた、けれどまだほんの少しひんやりとした空気が肌を撫でつける日だった。この四畳半はおそらく本来居住のための部屋ではないから、ささやかな大きさの窓を開けただけではじゅうぶんな換気が行えなかった。ただこの季節だけはよかった。暑すぎも寒すぎもせず、私は裸足で過ごすことができたし、身体の冷えやすい真依も着物の中をむやみに着込む必要がなかった。私たちはもうあまり話をしないから、息苦しくなることだってなかった。息苦しくはないのに、けれどずっと息が詰まるような感覚が胸のうちを覆っているのだった。
    「あんた、今自分がなんの支度をしていて、私になにをしたか、理解してないの?」
    「家出る支度して、お前に今日の夜のこと確認した」
    「そうね、そうよね。もういいわ」
    「何怒ってんだよ、なあ」
    真依が何に腹を立てているかなどとっくに明白だった。
    彼女が私と目を合わせることなく部屋を出ていく。真依は家から強制されるくだらない稽古のひとつひとつを、馬鹿真面目に丁寧にこなしているから、こんな時だって無駄な足音のひとつも立てないのだった。私は稽古のいくつかを最初の数回で投げだして、そうしているうちに真依と顔を合わせる時間がぐっと減ってしまった。食事だって私が時間を守らないことや、ちょっかいをかけられる間に食いっぱぐれることが多いせいで、彼女とは滅多に一緒にならない。与えられた時間が短いおかげでふたりで入らざるを得ない風呂と、鉛を飲んだように重ったるく、水に浸かりきったように仄暗い寝るまでの時間に、私はしゃんと背筋をのばして座りこんでいる真依のすがたを目にする。どこをとっても見慣れた顔なのに、真依は私と自分がまったく違う顔をしているのだと言い張る。だから私は彼女の顔に私と同じ数、かたちをした切り傷やかさぶたがあるのをほんの少しだけ想像して、すぐに息が苦しくなって、それをさっさと頭から打ち消すのだ。
    家を出ると告げたとき、真依は本当に今にでも泣きそうに顔を歪めて、すぐに怒ったような表情になった。信じていなかった、あるいは信じたくなかったことを突きつけられたような目が私をねめつけて、そうして俯いてから立ちゆかなくなった。つられて落とした視線の先で、床の木目に水滴が染みてゆくのをただ眺めていた。
    私はここにはいられない。ここにいることで、私の中で腐らずにいるただひとつの芯が今度こそ醜く腐り落ち、いっそ腐りゆくまえに真上から押しつぶされ、跡形もなく粉々にされるような予感があった。そうした恐れからではなく、ただその予感が予感にとどまらないであろうことが、それがたやすく為されるこの家の重厚な天井が憎らしくて許せなかった。
    私が私の心を守るために、かたく握られた私の半身の手を離すことだってあるだろう。半身がふたりでひとつを成すというのならば、私が潰れてしまっては、真依は生涯私のかたちを欠かしたままだ。私たちが共にいるためには、まず自身の心を守らなければならない。そうしてこの重たい天井をぶち抜くのだと決めた。真依だってそれは同じはずなのだ。そうだろう。なあ、そうだろう、そうだろう。
    必死だった。

    結局私たちは風呂を共にするから、またすぐに顔を合わせなくてはならなかった。時間通りに真依が脱衣所に入ってきて、彼女は珍しく時間通りに脱衣所で待っていた私に目を見張った。けれどまたすぐ険しい表情になって、黙々と服を脱ぎ始める。私も同じように服に手をかけて、袖が腕を通った拍子に昼間出血したところを擦れる。痛みに思わず声が出たけれど、真依が何か言うことはなかった。夜は静かだ。
    およそ十五分の間、私たちは慣れた手つきで交互に髪を流して、私が頭を泡立てている間に真依が彼女と私の身体を洗い、時にはその逆をしたりする。昔はどちらの役割の方が早く終えられるか競争したり、身体に触れるたびくすぐりあったりして、時間がすり切れる寸前までふざけあっていた。よく声が反響する浴室で、笑い声を必死にこらえていた。
    「しばらくこういうのもないんだろうな」
    「うるさい」
    「腕、怪我してるんだ。あんま強くしないで」
    「見たらわかるわよ、馬鹿」
    「真依」
    真依は返事をしないで、彼女の泡立った手がちょうど私の腕の怪我を避けてゆくところだった。彼女は私よりいくぶんも手先が器用で、真依の手当てを受けた傷は治りが早い気さえする。真依は、またこうして私に触れるだろうか。いつか真依は私を許すだろうか。許される努力をする前に、彼女から私の手を引かれることを願っている。そんなものはとても直視できなくて、気を逸らすように深く息を吐いた。私が私のためにおこなうことが、いずれ真依をも救うことになると、だから気に病む必要はないと、口が裂けてもそんな嘘は、彼女にだけは言えなかった。
    私の身体がひと通り洗われて、真依も自分の髪を流して、本当にいつもと変わらないようにさっさと風呂を出る。のびやかに成長した真依の裸体を見るたびに、いつか私たちの尊厳が踏みにじられた十二歳の夜を思い出す。息が詰まる。私は真依をこんな場所に置いてゆくのだろうか。
    全身の水気をふき取って下着をつけてから、真依がおもむろに「今日は私の部屋で寝るから」とこぼした。真依の部屋。私が二度と立ち入れなくなった彼女の一畳半。かつてそのなかへ何度も踏み込んで、今よりずっとちいさく柔らかい彼女の手を握り、存在を確かめるようにぎゅうと丸まった背を抱きしめた。私は、たった一畳半に隠されたものをもう知らない。それでも大切だと思うのに。

    あすの今頃、私は東京の寮で荷物の整理でもしていることだろう。ふたつの布団をくっつけて眠ることはもうほとんどなくなってしまって、最後にそうしてから一年以上にもなる。私たちは随分と背が伸びたから、横になるとすこし窮屈な感じがする。けれどこの窮屈さと、眠るときにいつも、今日だって変わりなくそばに感じる半身の気配に安堵していた。それももうしばらくなくなってしまうのだけれど。
    四畳半、年を経るにつれて風のめぐりがひどくなってゆくこの埃っぽい小さな部屋は、私と真依によく似ていた。
    「本当に嫌い、嫌い…苦しい」
    なんの仕切りも隔たりもない真依の部屋から聞こえる涙ぐんだ声に、私は知らないふりをしていなければならななかった。誤魔化すようにして布団に顔を埋める。
    「…ここは苦しいんだ、私が私じゃなくなるみたいだ」
    だからこれはひとりごとだ。誰に聞かせるでもない、自分の胸のうちを整理するためだけの、それだけの言葉だ。あたりを覆いつくす静謐さが憎かった。
    「ひとりは怖い、つらい、うまくやれない…っ怖いのに」
    「あいつらは自分の足元を見たことがない、見る気だってないんだ」
    「私は、身のほどを知ってるの、そうしなくちゃ…私を守れない」
    「だから痛くもかゆくもないって、そう思わなくちゃ、私を守れない、でも」
    「バカみたい……っバカ、うぅ、ばか…っ」
    「私はここにはいられない」
    「うう、っう…」
    頬に手を伸ばすことが出来たとしても、この瞬間の私はそれを選べなかっただろう。
    「泣くなよ」
    「大嫌い」
    真依の顔は見えない。私はもう二度と、彼女の部屋に立ち入ることができない。





    真依が部屋に隠していたのは、きっと真依自身だ。小さな部屋のなかの、さらにずっと小さな隙間で真依はいつもひざを抱えていた。私は彼女のうしろに何があるのか、本当はずっとわかっていて、けれどいつからか見えなくなって、そうして知らないふりをした。いいや、わかったつもりでいただけだ。どうやら私にはそういう気質があるらしい。私たちは何もわからないままだ。
    激しい痛みの中でその布をめくりあげる時、なかでひざを抱いている真依は小学生の頃の姿であったり、もっと幼い頃であったり、黒光りする高専の制服を着ていたり、はたまた私が本来見ることの叶わない姿であったりした。あたりにはいつも京都の海岸が広がっていた。目を焼かれるように眩しい青さだ。それはかつて一度だけ真依と訪れたことのある景色で、そのとき私たちは人生で初めて大きな笑い声をあげ、からだの望むままにせまい浜辺を駆けまわった。そういう柔らかな思い出は瞬く間にかき消えて、すぐさま悪夢のような彼女の言葉が何度も反芻される。冷や水を浴びせられたように指のさきまでが冷え込んでゆく。彼女の紡ぐ言葉のひとつひとつ、それを乗せた懐かしい声のひとつひとつが脳の内側にこびりついていて、逃れることが叶わない。私には逃れる資格がない。
    真依の苦しみや痛みや、私には見えなくなった傷、叶わずに打ち捨てられた希望のすべてはここに仕舞われていて、きっと私はそれを覗いてはならないはずなのだ。いつからか彼女の部屋がそうだったように、なかへ立ち入ってはいけなかった。だからこんなに痛くて、文字どおりに身が張り裂けそうで、痛くて痛くてつらいのだ。まるで罰のようだ。
    半身である以前にひとりの人間だった。私が私であるためのゆき先を選択をしたように、真依は真依であるためにゆき先を選択した。私は、ただひとりのかけがえのない妹のことをそのように思うだけでよかったのに、うまくいかなかった。生涯真依のかたちを欠かしたままなのは私の方だった。それでも私は当然に息ができて、こうしてありもしない景色を夢想できる。生者の特権であり、誠意の表明であり、思いあがりでもあった。そうして手を離してから、抗うことなく遠ざかった真依の内側を今になってようやく理解したのだと、いまだ勘違う。
    私は想像する。重苦しい天井のもとで男たちの世話をする、自由意志なんてはじめから存在しないような日々を、一方的に身体を蹂躙される屈辱の夜を。あるいは、真依の手を引いて逃げるように東京行きの新幹線に乗りこむ希望の朝を。それからそれらをひとつずつ、かけらだって残らないように打ちこわしてゆく。
    記憶をひらくたびに姿を変える真依や、彼女の口から滔々とながれる悪夢のような言葉たち、痛みの伴う浜辺の景色、足元に転がる夥しい量の死、最後の夜のひとりごと、それだけだ。そのすべてが私の選択だ。
    まだずっと先は長い。


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