置いてけぼり「あれ、ジャミルなんでいるんだ?」
背後からかけられた悪意ないことばに少年はうんざりとした表情で振り返った。
「なんでって、仕事があるからですよ」
むすっとした口調に声を掛けた側がたじろぐ。周りが同情するような視線を彼に向けているのが見えて、声を掛けた青年は意味が分からず首を傾げた。
「仕事があるって、でもジャミル今日は昼から観光行くってぇ……」
言い終わる前にじろりとジャミルが相手を睨む。きつく閉じられた唇は力込めすぎたのか少し尖って見えた。
しばしの沈黙。じっと彼を見たジャミルは、けれどなにも言わずに手元の資料へと視線を戻した。そうして何ごともなかったかのように他の同僚たちとの話し合いを再開する。
「とりあえず諸手続は後回しとなりますが、明日の朝にはどうにか」
「立ち会いは──お願いします。人員配置の変更を」
「挨拶文はこちらに。それから」
ぴりりとした雰囲気に事情が分からず青年は頭を掻いた。近くにいる同僚に目線だけ送る。説明がほしい。視線で訴えれば相手は困ったように眉尻を下げて、様子を探るみたいにジャミルを見た。こちらに背を向けている姿を確認し、すすっと近づいてきたかと思うと、内緒話をするみたいにそっと耳打ちをしてくる。
「この国の第二王子もちょうどホテルにいらしてな。カリム様のご学友だそうで。せっかくだからと連れ立って観光へ」
「あ、だから拗ねてんだ」
こぼれ落ちたことばはせっかくの同僚の配慮を無視する形で部屋に響いた。とたんにとなりから横腹に一発食らう。「声量!」
流石に聞こえたらしいジャミルが驚きに染まった瞳で青年を見た。辺りがいっしゅん静まり返って、そうしてどっと笑い声に包まれる。
「そういえばそうだな」
「久々だから気づかんかった」
「懐かしいなあ、昔はすっごい剣幕で厨房駆け込んできてたりしてたよな」
張り詰めていた空気が一気に緩む。懐かしいなあなんてことばがあちらこちらからも聞こえてきた。
「カリム様に急用が入って遊ぶ予定がなくなったあととか分かりやすかったよなあ」
「片付けとかよく手伝ってもらったわ」
「外遊中も行程が長くなればなるほどよく賄い作ってくれてたし」
「喧嘩した日とか速報回ってきたりな」
「あったあった! 来るぞって日は予め仕事作っておいたりしたよな」
思い思いに始まる思い出話の真ん中でジャミルがぽかんとした顔をしている。幼い頃からアジームに仕えてるジャミルがカリムと喧嘩したり約束を反故にされたとき、怒りのまま厨房をはじめとした大人たちの仕事場へと駆け込んでいたのは使用人の間では有名な話で、分かりやすく拗ねている姿を微笑ましく見守られていた。なつかしい思い出だ。……もっとも本人は気づいていなかっただろうが。
「そんな、ことは……」
戸惑ったジャミルがなんとかことばを紡ぎ出し周りからの視線を自分に集めたところで俯いた。手のひらが限界までぎゅーっと握りしめられて、垂れ下がった前髪が表情を覆い隠す。困惑と羞恥で押しつぶされてしまいそうな少年を認め、そこでようやっとしまったと思った。悪いことをした。ジャミルがカリムに置いて行かれたばかりなのを忘れていた。寂しいとも哀しいとも言い表せない感情がジャミルを取り巻いているように見える。自分たちが仕える主がいっとう大好きな従者が素直でないことを忘れていたことを恥じた。
そっと視線を部屋の隅へと移す。無造作に置かれた紙束の下に、随分と読み込んだらしい本が一冊隠れるように置かれていた。いくつもの付箋がついたそれはこの国のガイドブックで、表紙はくたびれており、決して片手間ではなく時間を掛けて丁寧に読み込んだことが誰の目にも明らかだ。
「カリム様のご学友ってことはジャミルともそうだろ? 今からでも合流すれば?」
出来るだけ軽い調子で提案してみる。この国の第二王子のお人柄のことはよく知らない。けれど 同僚のジャミルと自分たちが仕えているアジームの跡継ぎであるカリムは同じ魔法学校へ通っている。カリムが友人だと言うならばすなわちジャミルの学友でもあるのではないという主張は心底嫌そうに眉を顰めたジャミルによって否定される。
「学年も違う一国の王子を友人だなんて恐れ多いですよ、……カリムじゃあるまいし」
一度話し相手を見た従者は、相手と目が合ったことに満足したのか感情を隠すように目を伏せた。
「同行している先輩方にもカリムは懐いているんです。せっかくの機会、楽しんでいただくのがいちばんですので」
ことばの直前に寂しそうな瞳をしたことは、おそらく見えていた人はみな気づいていた。けれど誰も指摘することなく口を閉ざす。周りの沈黙をごまかして、まるで言い訳するみたいにもっともらしい正論を感情を押し殺してジャミルが呟く。
「従者と護衛と行く気の張った観光より、気の置けない友人たちとのゆるやかな観光のほうが楽しいでしょう。この先何度同じ時間を過ごせるか判りませんから」
まるで他人事のような声は決して明るくなかった。素直じゃない。ほんとうに。
ジャミルほどではないけれどこの場にいる人間は自分たちの主がどのような性格か知っている。ジャミルと行く観光だって、きっと楽しいに違いない。幼い主が僅かな空き時間をぬってジャミルを探し、屋敷を駆ける後ろ姿を何度見たことか。
「でもせっかく調べてたのに」
「うちのご主人様は気まぐれですからね。どこに行きたいと言われても困らないように下調べをしていただけです。従者として主を退屈させるわけにはいかないので」
それっぽい言い訳を並べ立てるジャミルは寂しそうに見えた。からかいたい気持ちをぐっと飲み込む。図体が大きくなっても立派なことを並べ立てることが出来ても、彼はやっぱりまだ子どもなのだ。
「おれ、せっかくだから今日は美味しいもん食べたいって思ってたんだよな」
言いながらジャミルが逃げないように肩を抱いた。
哀しいときも辛いときもごまかそうとする同僚を、けれど主のことを思えば責めることも出来ず、どうにか慰めたい気持ちで外へと連れ出す。
「おいしいお店、紹介してくれよ。奢るからさ」